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鈴木善幸に見る
集団的自衛権と原発

佐藤清文
Seibun Satow
2014年7月20日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


    「和の政治とは話し合いの政治、公正を追求する政治です」。
                              鈴木善幸

 
 自民党長期政権の中で鈴木善幸は最も目立たない首相の一人だろう。大平正芳首相の急死を受け、宏池会の中でも田中派に近い善幸が総裁に選出される。善幸は総務会長を長く務め、佐藤栄作に能力と将来性を高く買われていたものの、閣僚経験が乏しく、首相候補と思われていない。玄人好みであっても、素人には受けない。和を重んじる典型的な調整型の政治家である。

 個性派の三角大福中の時代に、1980年7月から82年11月まで地味に任期を務めている。衆参で安定多数を確保していたため、予算も法案も成立が容易である。主な政治課題は参議院の選挙制度改革と行政改革であるが、あまり印象がない。「和の政治」を掲げていたけれども、激しい派閥抗争の時代の後に発足した政権だから、その克服と勘違いされている。

 けれども、集団的自衛権や原発など今の政治課題を語る際に、善幸が蘇える。彼は集団的自衛権が憲法9条上認められないと政府見解を示したり、岩手に原発を建設させなかったりしている。善幸は3・11以後の日本の姿を考える際の重要な問題に決定的な判断を示している。10年前の2004年7月19日に亡くなった彼は現代社会にとって再評価しなければならない政治家である。

 集団的自衛権から触れよう。日米首脳会談後の81年5月29日、鈴木内閣は「衆議院議員稲葉誠一君提出『憲法、国際法と集団的自衛権』に関する質問に対する答弁書」を閣議決定する。憲法9条に照らし合わせると、集団的自衛権が「国を防衛するための必要最小限度の範囲を超える」。これが以後の政府の公式見解となる。

 実は、この時、集団的自衛権に関する国際的な規範がまだ形成されていない。しかし、1984年、国際司法裁判所がニカラグア事件をめぐって集団的自衛権ならびに武力行使、武力攻撃についての判断を示している。この訴訟は米国による内戦への干渉が国際法上の違法に当たるとしてニカラグア政府が訴えたものである。裁判所はニカラグアの訴えを認め、米国の行動を違法としている。

 当時の日本の場合、集団的自衛権行使は安保条約に関連して問われる問題である。その米国の集団的自衛権についての認識は国際法上違法である。鈴木内閣の判断は賢明であったと言うほかない。

 善幸の集団的自衛権に関する考えは歴史認識に基づいている。2014年7月17日付『岩手日報』の「風土計」によると、81年1月、初の外遊となったタイのバンコクにおいて、彼は、「過去の選択の重大な誤りに深く思いを致した結果」、「わが国の国防の基本はあくまで専守防衛であるとの方針を堅持する」と言明する。日本は過去の選択の過ちを踏まえて、専守防衛に徹するというわけだ。

 安倍晋三内閣による集団的自衛権の憲法解釈変更には湾岸戦争の経験が影響を及ぼしているとされる。善幸は、回顧録『等しからざるを憂える。』において、湾岸戦争を踏まえた上で憲法について次のように述べている。

 鈴木内閣は平和憲法を絶対に守っていくという考えだった。日本国民は太平洋戦争で等しく苦難を味わった。アジアの人々にも大変な迷惑をかけた。そして、平和憲法の下で経済的な発展を遂げ、アジアで唯一先進工業国の仲間入りをした。再び軍事力を蓄えて戦前の日本のようになるのではないかとの危惧がある中、私は平和憲法を堅持するという姿勢を貫いてきた。

 日本国憲法は米国から与えられたものだから自主憲法を制定すべきだという意見がある。たしかに連合国の影響は相当あったし、原案にアメリカの意向が色濃く反映されていたのは事実だが、国民の大多数は戦前への逆戻りは真っ平御免だというのが総意で、日本国民の賛成で出来たのが平和憲法である。

 湾岸戦争で日本は金を出すだけだと批判され、国連の一員として国際協力に積極的に取り組むべきだとの世論になった。だからと言って平和憲法の象徴である第九条を変えることが国民の総意になっているとは私は思わない。

 湾岸戦争の経験と憲法9条の変更は別物だ。平和憲法は国内外の先の大戦をめぐる歴史認識の共有に基づいている。その象徴である九条を変える必要はない。歴史認識に立脚している以上、その変更は修正主義にほかならない。湾岸戦争の際の国際的評価が低かったからと言って、憲法を改正するなどというのはその本質を理解していない。

 次に原発について見てみよう。青森県から茨城県までの太平洋岸には15基の原発があるが、岩手県だけにはない。しかし、実は、1975年に建設計画が持ち上がったことがある。候補地は田老町摂待(現宮古市摂待地区)である。そこは3・11の際に最大級の津波が押し寄せた地域であり、もし着手されていたならば、想像するだけでも背筋がぞっとする。

 この「田老原発」を立ち消えにしたのが鈴木善幸である。本田修一記者が2012年1月21日付『朝日新聞』日の「原発国家三陸の港から 空白岩手陰に和の政治」においてこの事情について伝えている。

 田老は別名「津波田老」と言い、歴史的に津波被害に苦しんできた地域である。そこに原発を建設するなど正気の沙汰ではない。しかし、通産省は1970年前後に地質調査をして摂待地区を最有力候補に挙げている。80年に中村直知事が県議会でで「県民生活の安定や産業振興に原子力を含む大規模発電が必要だ」と表明、82年には県が摂待地区を含む四か所を適地として東北電力に売りこんでいる。

  地元財界は公共事業への期待などもあり賛成論が強い。玉沢徳一郎や小沢一郎といった地元選出の国会議員も支持を示す。一方、三陸の漁民は建設反対である。

 ところが、首相の善幸ははっきりとした態度を示さない。問われても、のらりくらりとしてはぐらかすばかりだ。ただ、田野畑村村長を8期32年務めた早野仙平が「原発交付金は村の予算の四倍、30億円以上もらえるが、使う知恵がない」と伝えると、善幸は「そうだな」と満足げだったという。長男の鈴木俊一衆議院議員は父が「三陸に原発は造らせない」と断言していたと証言する。

 善幸は1911年に山田町の網本の家に生まれている。漁業では連帯感が欠かせない。まとまりがなければ、海で死を招くことさえある。彼は、そのため、対立を嫌う。原発は地元を分裂させ、不信感をもたらし、摩擦のしこりも残る。しかも、善幸は1933年の昭和三陸地震による大津波を経験している。

 賛成にしろ、反対にしろ、善幸が態度を明確にすれば対立を激化させる危険性がある。彼は食えない狸ぶりを発揮する。善幸は82年の退陣後も原発誘致の決着を先延ばしにし続ける。原発推進の理由の一つに70年代に起きた二度の石油ショックがある。原油価格が高騰し、石油に依存しない電力確保が課題になる。けれども、この頃には原油価格が下落していき、しばらくすると、田老原発計画も立ち消えになる。対立も消え、計画自体も忘れられていく。

 実は、善幸が原発建設に反対したのは、共同体の分裂を危惧していたからだけではない。彼は原発に否定的である。回顧録の中で脱原発の必要性を次のように説いている。

 日本は広島・長崎の原爆の惨禍を受けた。原子力に対する国民的なアレルギーは世界の他の民族とはかなり異なる。国民感情としても安全性の確保を図らないと危険なものであり、安易に原子力に依存することは慎重でなければならないことを基本に据えた。国民全体もそういう感覚だったと思う。だから、できるだけ風力、太陽熱、バイオマスといったクリーンエネルギー、再生可能エネルギーの開発研究に力を入れるべきだと訴えた。

 ただ鈴木内閣当時は、現実問題として風力や太陽光などのクリーンエネルギーは限度があったし、技術的な研究も進んでいなかった。…日本のように資源が乏しいなかで製造加工、化学技術、産業の推進で国を立てていかなければならない以上は当面は原発を推進する以外に道はないと考えた。

 この原子力発電の推進に当たっては発電所から出る高レベル放射性廃棄物を将来どうするかが、当時から問題になりつつあった。国土が狭い日本としてはこの廃棄物処理は非常に厄介な課題だった。…しばらくは被害を出さないよう万全の注意をしながら原子力を使っていくしかないだろう。ただ、将来の方向としては原発に頼らないクリーンエネルギーによって国を立ててゆく政策を掲げて、そこに向かって進むべきだ。時間がかかるのでそれまでは原発とクリーンエネルギーを並行して進めていかなければならない。

 3・11以前に首相経験者が脱原発を唱えていたことはいまだにあまり知られていない。善幸は、戦争の経験を踏まえ、原爆と原発の区別を肯定しない。原子力に安易に依存することが慎まねばならない。しかも、高レベル放射性廃棄物の問題もある。日本は原発から脱却し、再生可能エネルギーの社会を実現しなければならない。

 これは2004年に亡くなった首相経験者の発言である。この提言を聞き入れない日本はフクシマを経験することになる。

 集団的自衛権にしろ、原発にしろ、善幸は先の大戦の経験に基づいて議論を進めている。彼が政治家を志した理由は戦争体験である。彼を政治家にさせた動機は個人的な選択ではなく、時代的な状況である。その歴史認識は世界で共有された経験であるから、国内外において共通理解となり得る。善幸の政治はそこから展開されている。彼はその意味で一貫している。

 善幸が首相だった時期は80年代前半である。東西冷戦が激しくなった頃であり、イデオロギー的立場が陣営内で優先されている。しかし、冷戦終結後、国際社会の共通理解は先の大戦に関する歴史認識である。善幸のように歴史認識を共通基盤として国内外に語りかける姿勢は80年代には早すぎる。むしろ、今こそ求められている。善幸は早すぎた宰相である。実際、当時冴えないと軽く見られた首相だが、彼の主張を読み返すと、熟議の民主主義や格差是正など現代的課題が多く含まれている。

 退陣直前、善幸は82年の第2回国連軍縮特別総会において核軍縮を訴える演説を行っている。彼がそんな演説をしていたことを知る人はあまりいないだろう。しかし、その内容は今の日本社会は傾聴する必要がある。

 私は戦火の廃墟の中にあって政治に志を立て、わが国の憲法の理想とする戦争のない平和な社会の実現を目指して国民と共に努力致してまいりました。爾来35年、平和のために一身をささげたいと思う私の信念は、今なおいささかも変わるものではありません。私はこの壇上から世界の人びとに対し、日本国民の核廃絶と平和への願いを強く訴えるものであります。

〈了〉

参照文献
鈴木善幸他、『等しからざるを憂える。─元首相鈴木善幸回顧録』、岩手日報社、2004年