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日本変革のブループリント




序 文


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


無断転載禁

本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


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独立系メディア E-wave Tokyo 公刊にあたって


 本稿は2005年から2006年にかけ独立系メディアの執筆者でもある佐藤清文氏によって執筆された日本を本質的に変革するための理念と政策哲学の ブループリント(青写真)である。

 本稿は、当初、執筆者の思いとかけ離れ、執筆者不祥のまま大手の出版社から刊行された。

 その後、青山貞一が佐藤清文氏の代理人となり著作者人格権及び著作権問題を解決するための交渉を半年近く行ってきた。

 2006年秋、それぞれの代理人を含め当事者間で合意に達した。

 合意書のなかに より多くの方々に読んでもらいたいという執筆者の願いから、本独立系メディア E-wave Tokyo
(旧今日のコラム)」(web)に全文掲載(公表)の条項が盛り込まれた。

 本稿「ミニマ・ヤポニア〜小日本主義の政治哲学〜」は、佐藤清文氏が執筆した原バージョンに、新たに序文をつけ、その後の政治状況変化に対応して改訂したものである。

 その意味で、執筆者による本来のオリジナルバージョンであると言える。 

 独立系メディアE-wave Tokyo(旧今日のコラム)では、関係当事者間の合意に基づき「ミニマ・ヤポニア」の全編をここに公刊する。

 ところで私がアジア経済研究所関連機関にいた35年前、岩田昌征氏は、「現代社会科学的知性の運命」と題する論考を著した。

 そこでは今後、世界そして日本社会で実社会を遠巻きに見ながら実社会の現実と行く末に、厳しく批判し提案する「社会の居候」がいなくなってゆくことを岩田氏は危惧していた。

 「社会の居候」が実社会の利害に巻き込まれ、結果として知性がなくなるというのである。

 佐藤清文氏は、現代の日本社会が喪失している厳しく批判し提案するための知性をもつ希有な作家であり、批評家であると思っている。

 西洋の著名な哲学者は、「肝心なことは世界をあれこれ解釈することではなく、世界を変革することだ」と述べた。

 その通りではある。だが、日本社会がここ数年経験してきたように、変革する上での理念、哲学、戦略がなければ日本社会はトンデモない方向に舵を切らせてしまうだろう。

 読者は、ぜひ筆者が提起する「ミニマ・ヤポニア〜小日本主義の政治哲学〜」の意味するところを理解し、その理念、主旨を活動に生かして欲しい。できれば読後感をお送りいただければ幸甚である。

 Web版の校正では、独立系メディアのスタッフでもある斎藤真実氏にひとかたならぬお世話になった。また元々縦書き原稿であったものをWeb版で横書きとするため、漢数字を算用数字に直した。校正漏れ、誤字脱字、変換ミス等を発見された場合は、ご面倒でも青山までメールで連絡をお願いしたい。

                  独立系メディアE-wave Tokyo (旧今日のコラム)
                   青山貞一  aoyama@eritokyo.jp

                    2007年1月元旦




   

                    <序文>

 ある政治思想が登場する際、それは特定の歴史的・社会的背景を持っている以上、時代の産物です。けれども、このような経緯があったとしても、試行錯誤を繰り返し、それを踏み越えていくものがあります。

 『ミニマ・ヤポニア』は2006年春までに書かれた作品であり、その後の政治状況の変化に即していなかったり、見当はずれだったりしている点も見られます。

 置かれていた状況を踏み越えているかどうかは定かではありません。

 これはマニフェストでも、プロパガンダでもありません。

 これは小日本主義の政治に関する入門的な注釈です。

 物足りないと感じる人も多いことでしょう。また、「ねばならない」や「すべきだ」調の提言にいささか辟易することもあるかもしれません。

 小日本主義者、石橋湛山はつねに政策や哲学の提言という形式で、一般に向けて自説を主張していました。

 この作品はそれに倣っています。思い込みや思い付きだけを盲信し、厚かましく自説を展開するのではなく、あくまでも歴史を踏まえて、自らを位置付けつつ、日本政治の昨日・今日・明日を考察しています。

 18世紀、欧米において文学作品の序文は、ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』が示しているように、虚構のテキストを実話に仕立てるための装置でした。

 19世紀になると、それは、ギー・ド・モーパッサンの『ピエールとジャン』に見られる通り、作者が執筆意図やテキストに対する考えを表明する場へと変わります。

 言わば、文学作品におけるマニフェストの役割を果たしているのです。けれども、20世紀の作家は序文を記さなくなります。

 テキストはそれ自身で一つの世界を構成しているのであり、作者があれこれ説明する必要はないというわけです。これは批評の方法論の傾向を反映しているとも言えます。

 序文をつけたいささか反時代的な『ミニマ・ヤポニア』は小日本主義による日本政治のシミュレーションです。

 ここに、有名無名・玄人、素人に拘らず、ある小日本主義者がいたとして、その人物が自分の政治哲学に基づき、現代日本へ提言するとしたら、それはどういうものになるかを描いた作品なのです。

 ここ数年来、拙速で無批判的な政治動向が続き、無分別で思慮を欠いた声高な主張が幅をきかせてきました。

 イスラムの預言者ムハンマドは、その言行録『ハディース』によると、「力強いとは、相手を倒すことではない。それは、怒って当然というときに心を自制する力を持っているということである」と語ったとされています。

 この箴言の正反対のことが日本ではまかり通っている有様なのです。陰徳という東アジア的な美徳は忘れ去られてしまった趣さえあります。

 そのため、日本を取り巻く国際関係はギクシャクとし、貧富の格差が拡大した社会が到来しました。

 おまけに、箍が緩んでいるとしか思えない無責任な不祥事も、官民問わず、相次いでいます。国内外共に、日本に対する信用や信頼は失墜したと言っても過言ではありません。

 『ミニマ・ヤポニア』の政治哲学は独善的で素朴な理想主義でも、胡散臭い短絡的な現実主義でもありません。

 しばしば、理想主義者は理念に忠実であることを優先しすぎて空理空論を推し進め、現実主義者は現実を自分の信条を実現する方便に利用します。

 前者はいささか抽象的、後者は少々具体的になりすぎる傾向にあります。乱暴な極論の対立はあまりに不毛です。

「理想主義か、さもなければ現実主義か」という安易な二者択一は不誠実且つ自己満足な態度としてこの作品は斥けています。

 そのことをよく表わすこんな喩え話があります。

 イエスは弟子たちに迫害を予告し、『マタイによる福音書』一〇章一六節において次のように語ります。

 「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」

 Ecce ego mitto vos sicut oves in medio luporum; estote ergo prudentes sicut serpentes et simplices sicut columbae.

 "Behold, I send you out as sheep in the midst of wolves. Therefore be wise as serpents, and harmless as doves”.

                 
(World English Version)

 英語版において、蛇が”snake”ではなく、”serpent”、鳩は”pigeon”の代わりに、”dove”が用いられています。エデンの園で、イヴを誘惑して禁断の木の実を食べさせたのが”serpent”であり、したたかな狡猾さをイメージさせます。

 また、大洪水の後、ノアが方舟から放ち、オリーブの若い葉を銜えて戻り、平和の回復を告げるのが小型の野生鳩
”dove”です。

 鳩が平和の象徴と見なされるのはこのエピソードに由来します。どちらか一方だけ持っていても、迫害の渦巻く世の中を自分の弟子として渡っていけないとイエスは諭しているのです。

 蛇の賢さだけでは、いくらなんでも、あくどすぎますし、鳩の素直さしか持ち合わせていないのも能天気すぎるというものです。

 おそらく、政治を変えるのに必要なのはこの蛇の賢さと鳩の素直さを兼ね備えた姿勢でしょう。『ミニマ・ヤポニア』もそれを省みています。

 政治を変革するという情熱を持って政治の世界に飛び込んだものの、さまざまな場面に直面し、その思いを維持していくのは難しく、所詮は奇麗事にすぎず、現実は甘くないと自分に言い聞かせ、大勢に流されてしまう人をよく目にします。鳩が蛇に食べられてしまったというわけです。

 理想は現実の中では容易に実現できません。

 そのことを十分に踏まえつつ、それを生き延びさせる可能性を模索するしたたかな姿勢があります。政治に携わろうとする者の中には、批判を軽視し、行動こそすべてだという直情的な言動や態度をとることが少なからずあります。

 批判することがまるで悪意ある破壊だと言わんばかりです。しかし、批判とそれに伴う白眼視から生じる苦悩を身に引き受けなければ、その理想をたんなる妥協の産物に堕ちさせないで、真に具体的で実践的なものにはできないのです。

 蛇の賢さと鳩の素直さを兼ね備えた政治の登場によってこそ、今の日本に新しい展望が開けるのです。

 この政治哲学を全面的に支持するか否かなど『ミニマ・ヤポニア』は問うてはいません。

 ルネ・デカルトはすべてを疑う方法的懐疑を提唱し、近代合理主義の礎を築きました。近代は、その意味で、疑うことによって形成された主体の時代です。

 疑いと弁証法を欠く信などその名に値しません。むしろ、これを下絵として、さらに議論を深め、新しい政治を共に育むための行動を起こすことを願っています。

 『ミニマ・ヤポニア』は、まさに、乗り越えられるべきものなのです。

 思想は常に修正すべきもの、修正されていかなければならぬものだ。修正主義が思想の正しい道だ。

          石橋湛山『共産主義を救った平和共存』

                    2007年1月元旦

                   佐藤清文 Seibun Satow

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書名:ミニマ・ヤポニア〜小日本主義の政治哲学〜

著者:佐藤清文

発行年月日:2007年1月元旦

独立系メディア E-wave Tokyo(旧 今日のコラム)
       環境総合研究所内
       刊行責任者 青山貞一 aoyama@eritokyo.jp

著作人格権 佐藤清文 (C)Copyright 佐藤清文