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長期連載
Democratic Vista

第三章 代議政治の諸課題

 佐藤清文
Seibun Satow

2008年5月22日

Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。
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第四節 自由討議と代議政治

 湛山は、『東洋経済』1916年8月15日号の社説「帝国議会を年中常設とすべし」において、3ヶ月である議会の会期を12ヶ月に延長し、年中常設することを提案している。国会は開会している時期の方が短いが、閉会する必要などない。しかし、彼は、代議士が選挙によって付託された政治を論議するプロであるから、それに専心すべきであるとしてこの意見を提案しているのではない。湛山はそうしたお任せの姿勢をとらない。彼が議会を一年中開けと要求しているのは、そこで議論が行われること自体に意味があると考えているからである。

 湛山は、同社説で、「国民」が政治を「監視」するために、議会を年中常設する必要があると次のように述べている。

 かつ吾輩をして皮肉な解釈をせしめるならば、帝国議会の会期を現在の如く短くした根本の理由は、実に官僚が、施政に対する国民の監視の一刻でも少なきを望んだ結果のように思われる。これは、勿論、推量に過ぎぬが、事実議会の会期が一日でも永ければ、官僚はそれだけ苦しい、我儘が出来ぬ。従ってその会期が一年わずか3ヶ月ということは、偶然か知れぬが、彼らにとっては大幸福であった、それだけ国民にとっては大不孝であったのである。敢えて帝国議会年中常設の議を主張す、国論の速やかに同ぜんことを切望す。

 湛山は議会を立法機関だけでなく、「国民」による官僚の「監視」の場と捉えている。代議政治の意義は政治の公開性にある。議会が開かれていれば、政策決定の過程において、代議士がどのような質問をして、政府がどう答弁しているのかを「国民」は、直接的にしろ、間接的にしろ、知ることができる。詭弁やごまかし、言行不一致があったら、「国民」はそれを批判、追及し、改善を促すことができる。「監視」されているとしたら、代議士も、政府も、そうでたらめなこともやれない。「国民」は、いかなる制限選挙の下であったとしても、「監視」という形で間接民主主義に参加する。けれども、議会が開かれていなければ、「国民」の目が届かないところで政治が行われ、投票行為で選ばれたわけでもない官僚たちが無責任に好き勝手なことをするのを許してしまう。ブラックボックスでは、「国民」は誰が、いつ、なぜ、どのようにこの政策を決定したのかを知る術がない。会期をわずか3ヶ月にしてしまうのはその重要な機能を奪うことになる。代議政治は政治が人々の見ている前で進められていくということ自体ですでに有意義である。

 もっとも、国会の会期の延長には憲法改正が必要となる。明治憲法は欽定憲法であるため、昭和憲法以上に変更は困難である。実際、この時点まで改正の先例はない。湛山にそれを承知している。しかし、「国民」が「希望」しているなら改正するべきであるし、そもそも「善と知ってなさざるは道徳上の罪人である」。湛山は、起草者である伊藤博文の『帝国憲法議会』を参照し、会期を3ヶ月とした根拠が主に予算をめぐって「議事遅延し窮期銃器なきを恐るる」のであるとするなら、数期に区分するなどその点を考慮すればすむと指摘する。議事未了のまま閉会に至ってしまうケースが非常に多い現状を改善するという大きな利益を些細な点を持ち出して反対するのは、重箱の隅を突っつくようなものでしかない。

 湛山は議会を政治的コミュニケーションの公開空間と把握している。政治は、密室で決められた政策であっても、結果さえよければかまわないというものではない。代議政治という間接民主主義はコミュニケーション過程を「国民」に透明にすることに意義があり、そこでは「討議の自由」を重視されなければならない。

 湛山は、『東洋経済』1923年10月27日号の小評論「自由討議の精神」において、「自由討議」の重要性を次のように述べている。

 自由の精神とは資本主義でもない、社会主義でもない、軍国主義でもない、世界主義でもない、その他一切の型によって固められない、而して他の説を善く聴き、自らの説を腹蔵なく述べ、正すべきは正し、容れるべきは容れて、一点わだかまりを作らざる精神をいう。言を換ゆれば、自由討議の精神だ。この精神こそ、今の日本にもっとも必要、而して最も欠乏しているものの一である。この頃山本首相は、我が教育方針を改むるの必要を痛感し、目下それぞれの専門家の意見を徴しつつあるとのことであるが、この方針はまた実にこの自由討議の精神を根底とする所のものでなければならぬ。自由討議の精神を欠ける哲学・科学・芸術は、社会の進歩を妨げこそすれこれに貢献するものではないからである。普通教育の年限延長などは遅延してかえって、善い塩梅である。今までの教育を二年も延長せられては、それこそ国民の禍である。改良すべきは年限や制度ではない。ただ実にその精神である。

 自由な精神は何かのイデオロギーを信じていることではない。「一切の型によって固められない、而して他の説を善く聴き、自らの説を腹蔵なく述べ、正すべきは正し、容れるべきは容れて、一点わだかまりを作らざる精神」である。こうした「自由討議の精神」は一朝一夕に身につけられるものではなく、時間をかけて普段から意識して育成していかなければならない。しかし、その精神はいかなる領域で不可欠であり、それによって公共性・公益性に寄与できる。政治も例外ではない。

 こういった湛山の討議の自由に立脚した民主主義は、今日では「討議民主主義」と呼ばれるものに含まれるだろう。これは、ここ数年、民主主義を再検討する際に踏襲しなければならない概念であるが、湛山は、さまざまなヴァリエーションが試行されている今と違いラフであるとしても、驚くべきことにそれを射程に入れている。「サイバー・カスケード(Cyber Cascade)」で知られるアメリカの憲法学者キャス・サンスティーン(Cass Sunstein)は、『インターネットは民主主義の敵か(Republic.com)』(2001)において、「集計的民主主義(Aggregative Democracy)」と「討議民主主義(Deliberative Democracy)」を対比させている。

 前者は個人の選択を集計した結果を重視する民主主義観である。どのような結果であっても、平等な個人が表明した意思は等価であり、統治はその選択の集計を反映されるべきである。一方、後者は民主的市民にふさわしい「討議」を民主主義の中核に据える考えである。統治は選択の結果だけでなく、その過程を考慮しなければならない。陪審員のように、熟慮できる環境の下で討議を重ねた上で生じる質の高い選考結果が民主主義において尊重されるべきである。

 民主主義において重要なのはこうした「討議」という手続きである。討議民主主義は討議の過程と質を問題にするため、時間をある程度確保する必要がある。マスメディアや電子メディアの発達によるファースト・ライフ化は討議を軽視する傾向を促していることは否めない。そこでは気のきいた一言がもいぇはやされるが、それは反射神経の賜物であって、政治的能力とは別物である。こうした状況を省みるならば、討議民主主義は真摯に受けとめるべき思想である。討議民主主義は、民主主義に伴う数の横暴や扇情的な政治選択といった危険性をいかに抑制するかという課題に応えるものである。

 討議を重視するとしたら、湛山が主張する通り、議会は年中常設すべきであって、「国民」はその過程と質を「監視」しなければならない。この意見は普通選挙実施前の制限選挙のころに発せられているとしても、普選が実現しても、それは同じである。

 湛山の普選支持も集計的民主主義が民意の反映という素朴な発想に基づいているのではない。どのような選挙制度をとろうとも、完全な民意の反映は不可能であるというシニカルな態度も、普通選挙さえ実施されれば、民意が反映された政治が可能になるという楽観的な見通しも湛山の立場と異なっている。市民の政治参加を拡大するのは当然であるとしても、民主主義の質が確保されていなければ、議会は十分にその力を発揮できず、官僚に政治が牛耳られてしまうことになる。集計的民主主義が量と結果の民主主義であるとすれば、討議民主主義は質と家庭の民主主義である。集計的民主主義はスピードが求められ、議論はなおざりにされる。官僚にとってはまさに好都合である。普選が実現したとしても、討議民主主義の補完がなければ、官僚の横暴は決して軽減しないどころか、正当性を得たとますます我が物顔で政策を実行する。

 湛山があるべき姿としての代議政治に見ていたのはこうした討議民主主義である。彼は自由主義と民主主義の調停や民主主義の危うさへの対処、「公」と「共」の合意を「自由討議」に見出す。確かに、民主的な選択とされながら、社会に不幸をもたらした政治判断は、討議がおろそかにされていた歴史的経験を思い起こすことができる。湛山は完全な代議政治や民主主義の処方箋を提示はしない。「討議」にその可能性があると訴えているだけである。時間をかけて、多種多様な意見をぶつけ合い、じっくりと吟味していくほか民主主義の効果的運用はない。湛山は間接性や手間暇など民主主義の欠点と見なされているところにあのよさがあると主張しているが、それこそが民主主義の本質にほかならない。民主主義のリテラシーをわからずして、その理解はありえない。代議政治の諸問題に関する本質的・総合的な「討議」はこうした認識に基づかなければならないのであり、湛山は依然として新鮮である。

 この湛山の提言の後、しばらくして普通選挙が実現し、政党政治が本格的に始まったけれども、討議民主主義どころか、集計的民主主義にさえ及ばない結末に戦前の議会は終わる。