「美しい国、日本。いま、新たな国づくりのとき」を掲げて自由民主党総裁選挙を闘った安倍晋三氏は、果たして“平成の妖怪”となり得るでしょうか? 氏の祖父に当たる岸信介氏が、「昭和の妖怪」と評されたのを受けての感懐です。
「主張する外交で『強い日本、頼れる日本』」なる項目を政権公約で記しています。が、その中身は、「開かれたアジアにおける強固な連帯の確立」、「中国、韓国等近隣諸国との信頼関係の強化」と抽象的文言に留まっているのです。
内閣官房長官なる肩書を記帳して今春、モーニングの正装で靖国神社に参拝しながら、その事実を公表しなかった「隠密潜行」に象徴される氏たればこそ、手の内を見せずにいるのでしょうか。仮にそうだとすれば、それこそは党員、国民を愚弄した話です。
私達が学び、働き、暮らすこの社会は、一部の予め守られた既得権益者の為に存在するのではなく、政治こそは生活そのものであり、その生活を共にする人々を結び付けるのは言葉であり、即ち政治こそは言葉そのものなのですから。
別けても、「勇ましさ」が身上だと評されてきた筈の氏が、「強い日本」を標榜しながら、大人しい言葉に終始しているのは、不可解です。強面な安倍晋三を印象付けては得策でない、と無意識ならず有意識で計算しているのでしょうか?
日本を如何なる国家となすべきか、国民に如何なる暮らし向きを提供する政治たるべきか、の理念と気概が実は、彼にも周囲にも気迫だからではないでしょうか。国家や国民よりも、総理大臣就任という自身の都合を優先しているに過ぎないのです。
それは、彼の周囲に集うならぬ群がる自由民主党国会議員にも当て嵌まります。国家、国民よりも自身の都合を優先して、安倍晋三氏の元に大政翼賛しているのです。数こそ民主主義と嘯きながら、永田町のコップの中の理屈にすらならぬ御都合主義です。
彼が日本の宰相として相応しいのではなく、彼は自党の総裁として相応しい、即ち小泉純一郎以降も選挙対策上、安倍晋三が都合が宜しいのだ、との理念も気概も感じられぬ思惑で、雪崩を打って群がった面々は、数こそ民主主義と再び嘯いて、集団的自衛権の解釈変更のみならず、言論の自由を奪いかねない共謀罪の成立等を敢行していくのでしょう。
嘗て大江健三郎氏はノーベル文学賞を受賞した際、「あいまいな日本の私」と題して記念講演を行いました。「美しい日本の私」と題して行った川端康成氏への極めて皮肉なオマージュとして。
「美しい日本」を広言する安倍晋三氏は、「曖昧な日本」を語るに過ぎません。而して、その人物に国会議員とマスメディアのみならず日本国民たる善男善女も“ハーメルンの笛吹”に群がるならば、それは戦略性=ロジスティック無き戦前の日本と同じ悲劇の道を歩みかねません。
ソフトクリーム好きな安倍晋三氏と共に自由民主党が、のみならず日本国家が、妖怪ならぬ溶解しない保証は、何処にも無いのだと感じます。
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