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昭和20年5月25日の記憶

山形美智子

2008年4月27日 無断転載禁



山の手大空襲:「表参道が燃えた日」
37人の体験集め出版 /東京

◇過去の惨禍、若者に伝え−−
港区と渋谷区の小学校などに寄贈

http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20080426ddlk13040253000c.html

毎日新聞 2008年4月26日 地方版

 1945年5月25日、米軍の爆撃機B29の編隊が都心部を焼いた山の手大空襲。25日深夜から26日未明にかけて3300トンもの焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、3600人余りが亡くなった。63年を経た今年、港区と渋谷区の表参道周辺で被災した住民37人の記憶をまとめた本「表参道が燃えた日」が完成した。

 編集した長崎美代子さん(77)らは「ファッションの街で過去にあった惨禍(さんか)を多くの若者に知ってほしい」と願っている。

 昨年1月、表参道交差点(港区北青山3)の歩道に空襲犠牲者の慰霊碑が建った。建立に向けて地域住民が区への署名を集めた際、一緒に寄せられた手記を残そうと動き出したのが出版のきっかけ。長崎さんら6人の編集委員は同級生らにも声をかけ、体験記を集めた。中には家族全員を空襲で失い「どうしても書けない」と涙ながらに断った人もいたという。

 「私の五月二十五日」の題で書いた泉宏さん(78)は当時、15歳。必死に火の手を避けて倉庫に走り込んで助かったが、父親を失った。空襲後、交差点に面した銀行前ではビル2階の高さまで焼死体が山積みになっていたという。

 「イラクやアフガニスタンでの空爆のニュースを見ると、あの下で何人亡くなっているのだろうといつも思う」と話す。どの体験記からも、人の命を簡単に奪う戦争のむごさが伝わってくる。

 若い世代の理解を助けるため、戦争に至った経緯や用語解説、略年表も盛り込み、イラストも添えた。両区の図書館や地元の小学校には既に寄贈した。

 B6判193ページ。700円。購入や問い合わせは同書編集委員会
  (アグネ技術センター内、03・3409・0371)まで。

【真野森作】〔都内版〕

    昭和20年5月25日の記憶

                山形 美智子(78歳)

間もなく私達日本人は62年目の終戦記念日を迎えようとしています。しかし地球上のあちら此方で終わりの見えない戦争が続いているのが現状です。

 人間は何時まで、何処まで殺し合うのでしょうか?

 どうしたら世界が一つになって平和に穏やかに暮らせる様になるのでしょうか?

 其の恐ろしさを体験した人々が次の世代に語り継ぎ風化させない努力をしなくてはいけないとの思いから筆を執りました。

私達家族は青山南町五丁目(現在フロラシオン)に当時両親と姉二人と私の総勢5人家族で住んでいました。兄は学徒出陣で北京に、長姉は陸軍病院(現在の埼玉病院)の軍医の義兄と成増に住み父は仕事の関係で地方に出張が多く私達は何時も母と三人姉妹で心細い日々を送っていました。

 昭和20年5月23日の夜半から24日の明け方に掛け空襲が有り前の家通り隣の家と次々焼夷弾が投下され近所の人々総出で夢中で火事が広がらぬよう消し止めました。

 中々消えぬ青い火の後を追いかけ無事消し止めた安心感から空襲警報解除後直ぐ防空壕から濡れた品々を取り出し干しながら昨日の今日だから今日はもう空襲は無いでしょう、と暗くした部屋で夕飯を囲み確か8時か9時頃だったと思います、再び空襲警報がけたたましく鳴りごうごうとお腹の底から揺すられるような爆音が聞こえてきました。


筆者は一番左。昭和18年、出征の日のお見送り。
場所は東京都港区青山。
右から二人目の女性は池田こみちさんの母親。

慌てて防空壕に大事なものを詰め込み、蓋をして土をかぶせ前日の経験を生かし消火の体制を整え待機していました。

 しかし当日の空襲は次から次と飛来する
B29爆撃機に渋谷の辺りからどんどん燃え広がり一刻も早く避難するよう命令が出て、私達は明治神宮方向に逃げるか青山墓地に行くか考えましたが、熱風が渋谷の方から青山に向かって押し寄せてきていましたので周りには未だ爆弾も焼夷弾も落ちていませんでしたが青山墓地への広い道を大勢の人々に押されるように手に持てるだけの荷物を大事に抱え皆がはぐれないようしっかり手をつなぎ、我が家は絶対に焼けないと信じながら避難しました。

 途中お櫃を抱え座り込んでご飯を食べる女性に驚き振り返ると御近所に住むお姉さまでした。この空襲に耐えられず正気を失った様でお年をめしたお母様の困惑の様子が今でもはっきり私の脳裏に残っています。

 私達の逃げる速度より何倍も早く迫ってくる紅蓮の炎の熱さは木造建築が殆どのこの地をまるで大きな焚き火のように嘗め尽くし墓地に付いて風が少し収まりもう焼けるものが無くなったのか墓地までは燃えてこないと判り家の方角を見ると丁度我が家らしき2階家がやけおちるところでした。

次の日火も段々落ち着いて来た多分お昼過ぎ頃だと思いますが一先ず焼け跡に帰ろうと垂れ下がった電線を避けながら焼け落ちた我が家を探しました。其処には煤けた石の門柱が此処ですよと言う様に一本は二つに折れ一本は確りと残っていました。

 私達は綺麗に焼け落ち未だ燻る焼け跡で其れから1週間ほど晴天に助けられ青空の下で跡片付けしながらお互い励ましあいながら過ごし父の帰りを待ちました。私は煙で目を痛め苦しんでいました、表参道の安田銀行(現在みずほ銀行)に救護班が出来たと聞き急ぎ駆け付け治療を受けまともに回りが見えるようになって目に飛び込んできた光景は銀行の壁に沿って山のように積み上げられた焼死体でした。

表参道の交差点の所は熱風が渦になって逃げ惑う人々を巻き上げ壁に沿って積み上げられた大勢の大人が鳶口と言う棒を使って1体ずつ引き下ろし其の度にぼっと燃え上がる火それは言いようの無い恐ろしさで、急ぎ家に帰ろうと踵を返すと前に掘られた防空壕から赤ちゃんを抱いたお母さんが半身潜る様にして亡くなっていました。

 なお目を凝らすと道路の彼方此方に同じような悲惨な状況が広がっていて、唯夢中で母の元に走り返りました。皆に話そうと思っても言葉にならなく隅っこにじっとしていました。銀行の壁にはその後何年もの間、なくなった人々の跡が残っていましたが今はもう私たちに記憶の中にしか有りません。

そして食事になり防空壕で助かった当時には貴重な油や野菜を使って掻揚げの御馳走でしたがでもそれを見た時昼間の光景が目に浮かびとても口にする事が出来ませんでした、

 また、家の周りで焼け残った松や杉の焼けぼっくいのシルエットも私には恐ろしい物でした。疎開の為、菰でくるんだ何棹もの箪笥がまるで炭俵が焼けたように積み重なり、ああ此処が座敷だったのだ、16ミリのフィルムがアルミのリールと共に灰となって積み重なりああ此処が応接間だったんだと思いながら何一つ残らぬ焼け跡を片付けていました。

あの渋谷から明治神宮青山赤坂の一帯が見渡す限りの焼け野原の光景が想像出来ますか?この様な光景が日本のあちら此方で起っていたのです。それが戦争なのです。

 周りの人々は夫々避難先に行き上げ、残るは私たち家族だけになり父とは連絡取れぬまま立看板に立ち退き先を記し防空壕で焼け残った荷物を纏め、姉に手配して貰った荷馬車に乗って表参道から明治通りを途中新宿の辺りの焼け野原にパンパンに膨れたお腹を上にした馬の死骸を恐る恐る見ながら、又焼けなかった人々が差し出してくださる飲み物などを戴きながら姉の元にたどりつきました。余りの疲労からか其の後数日の記憶が全く無いのに驚いています。

 唯2,3日して出張先の岡山で空襲を受け怪我をしながらも無事たどり着いた父と再会した時のホットした気持ちは忘れられません。引揚げた先が軍の飛行場に近くその後も空襲の連続で、特に機銃掃射が酷く恐ろしく押入れの布団の中にもぐりこむ毎日でしたが8月
l5日を迎え暑い暑い部屋でラジオに耳を着けるようにして終戦の詔勅を聞いた時の複雑な思い特に日本が消えると言う思いが頭をよぎりました。

私にとって青山で過ごした15年間は生まれてから両親と一緒に過ごした貴重な15年でした、その後両親と2人の姉は鹿児島の父の故郷に私は学業を続ける為東京に残りました。暫くして兄も戦地から無事帰還し大学に戻りました。

 多くの方が家族や大切な方を亡くされた中で私達家族は家が焼け、沢山の物も失いましたが無事生き延びる事が出来た事に感謝しつつ平和を噛み閉めながら一生懸命働き今日まで過ごしてきました。今思う事は戦争の無い世界そして世界中の人々が戦争の愚かさを真剣に考えて欲しいと言う事です。