「柳条湖事件」、満州事変の 発端となる鉄道爆破事件(5) 出典:Wikipedia 日本語版 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年9月18日 |
総合メニュー へ (1) (2) (3) (4) (5) 事件の影響 愛新覚羅溥儀 Source: Wikimedia パブリック・ドメイン, リンクによるCommons 柳条湖事件は満州事変へと拡大し、若槻内閣による不拡大方針の声明があったにもかかわらず、関東軍はこれを無視して戦線を拡大、1931年11月から翌1932年(昭和7年)2月までにチチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領した。 その間、若槻内閣は閣内不一致で1931年12月に退陣、かわって立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。関東軍は満州より張学良政権を排除し、1932年3月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。 犬養内閣は満州国の承認には応じない構えをみせていたが、同年5月の五・一五事件では犬養首相が暗殺されて、海軍軍人の斎藤実に大命が下ると斎藤内閣は政党勢力に協力を要請して挙国一致内閣を標榜、軍部の圧力と世論の突きあげによって満州国承認に傾き、同年9月には日満議定書を結んで満州国を承認した。 一方の中華民国は、これを日本の侵略であるとして国際連盟に提訴した。列国は、当初、事変をごく局所的なものとみて楽観視していたが、日本政府の不拡大方針が遵守されない事態に次第に不信感をつのらせていった。 1932年1月に関東軍が張学良による仮政府が置かれていた錦州を占領すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。 国際連盟は、1931年12月10日の連盟理事会決議によって、1932年3月、満州問題調査のためにイギリスのリットン伯爵(ヴィクター・ブルワー=リットン)を団長とするリットン調査団を日本と中国に派遣した[45][46]。調査は3か月に及んで同年6月に完了、同年10月には調査の結果をリットン報告書として提出した。 その報告書において、9月18日およびそれ以降の日本の軍事行動を自衛とは認められないと結論付けている。 事件名称について この事件の発生地は、独立守備隊の歩兵第二大隊第三中隊の柳条湖分遣隊の兵舎北方約1.5キロメートル地点であり、その周囲の地名は柳条湖(柳條湖)であった。 しかし、この爆破事件および事変全体を策謀したひとりであり、9月18日当夜に軍事行動を指令・指揮した板垣征四郎は、事件の報せを聞いて駆けつけた奉天総領事館の森島領事に対し、発生地を意図的に「柳條溝」と伝え、複数のマスメディアに対してもそのように伝えた[3]。 理由不明ながら、その時点で発生地名はいわば「創作」されたのである[3]。満鉄の記録でも9月19日から「柳條湖」が「柳條溝」に訂正された。 9月24日、内外マスメディアに対し、事件を説明したのは第二大隊長の島本中佐であったが、板垣発表と齟齬をきたさないため、自分の守備範囲の地名を「柳條溝」という虚偽のかたちで示さざるを得なかった[3]。 しかし、「柳條溝」が事件発生地として一躍有名になった一方で、本来の地名は柳条湖であり、分遣隊の存在もあったので、関東軍内や陸軍部内でもすぐに「柳條湖」に訂正された。 1932年の満州国建国後は「五族」にとっても親近感のある「柳条湖」に徐々に改められ、1935年(昭和10年)の参謀本部編『満洲事変史』でも「柳條湖」と表記された[3]。 ただし、その後も、軍部においても「柳條溝」の表記はかなりみられた。満州国では1936年以降新聞でも「柳條湖」に修正したが、日本国内ではマスメディアの「柳條湖」への修正は1940年以降となった[3]。やがて敗戦のためにこの修正の事実そのものが忘れられ、一方、極東国際軍事裁判などでは発生段階の「柳條溝事件」が使用されたり、「奉天事件」「奉天事変」の名称も正式名称的に用いられるなどしたため、「柳条湖」の地名はしばしば忘却されたのである[3]。 日本近現代史の研究者である武蔵大学教授島田俊彦は1967年(昭和42年)、基本史料の発掘にともなって発生地の本来の地名が「柳条湖」であることを再発見、1970年(昭和45年)には改めてその事実を指摘し、「柳条湖事件」の呼称を提唱した。しかし、当時は唯物史観全盛で「十五年戦争論」(日本陸軍は一貫して侵略戦争を進めていったとする議論)の立場に立つ研究者が優勢で、防衛庁の史料なども用いて史実の多様な側面を考究しようという島田の研究は呼称問題をふくめて無視された[3]。 その後、1981年(昭和56年)に中国で公表された徐建東・王維遠論文に「柳条湖事件」とあったため、日本では、徐・王の当該研究を契機に「柳条溝」の誤りが正されて「柳条湖」になったとする見解が流布した[3][注釈 13]。 山田勝芳(東北大学名誉教授、中国史、東アジア社会制度史)はしかし、それについては島田の研究が先行していることを強調したうえで、事件直後の経緯を考慮すれば「柳条溝事件」も決して単純な「誤り」ではなかった(当初の事件名はやはり「柳條溝事件」であった)として、「柳条湖(溝)事件」の表記を提唱している[3]。 なお、山田は、島田の研究が無視された経緯について、さらに関係研究者の文章に即して検討した「「満洲事変発生地名の再検討」余論」を公表し、それら関係研究者が意図的に島田説に言及しなかった可能性が高いことを具体的に指摘している。 今日では、本来の発生地名を冠した「柳条湖事件」が定着している。 総合メニュー へ エントランスへはここをクリック |