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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

日本人の筆による

「旅順大虐殺
(3)

文芸春秋 2004年第5期より抜粋 2009-07-20

一个日本人笔下的“旅顺大屠杀”

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中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2022年1月2日
 

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日本人の筆による「旅順大虐殺」(3)

 ラッドは、あらゆる方面から頻繁に送られてくる外信に警戒心を抱いた。 このままでは「欧米の世論と日本の世論が対立」し、将来的に「(日本の)外交の障害」になると危惧したのだ。 そこで六は、伊藤首相に「事後対策」を早急に検討するよう促した。

 伊藤の指示で、日本当局は同年12月中旬から下旬にかけて、「外国報道機関、特に「世界報」の報道は誇張され、高度なものである」として、ほぼ同じ内容のいわゆる「文書」(外務省名で計7件)を2回出した。

 旅順の日本軍は「常に軍規を守り、捕虜をよく扱っていた」とし、殺された者の「大半」は「軍服をはぎ取り、民間人の服に着替え、地元住民に扮した」だけであったとする。

 殺された人の「大半」は、「軍服を脱いで民間人の服に着替え、地元住民に扮した中国兵」に過ぎない、などというのである。 しかし、この「声明」は、発表までに何度も手直しをして、修正を繰り返したものの、結局は大きな欠陥があることが判明した。

 それは、「旅順では他のどこよりも多くの血が流され、おそらく無条件に多くの血が不必要に流された、そのことに疑いはない」と、争うことなく認めている。 そこで「世界報」は、この「日本人の告白」を一面に掲載する際、わざわざ大きな文字で「(これは)クリールマンの旅順大虐殺の報告を裏付けるものだ」と明るく印象的なマークを付けたのであった。

 しかし、日本にいるクレーマンの「軍事特派員」の状況は、ますます悲惨なものになっていった。 日中戦争前夜、「世界報」から日本の戦況を取材するよう命じられる。

 旅順での出来事が明るみに出た時、彼を含む何人かの仲間は、周囲の日本人の敵対的な視線を感じていた。 地元紙は公然と日本政府に「軍隊に同行する外国人ジャーナリストを厳しく管理する」よう求め、「我々に迷惑をかける(外国人ジャーナリスト)とは関係を絶ち、我が軍から追放する」と脅したのである。

 身分上、「逮捕も拘束もできない」が、今後、本陣では「外国人、内地のジャーナリストの軍への同行を認めない」ことを即決した。

 横浜に隔離されたクリアマンは、取材を求められることもなく、「切り離され」、「しばしば異国の居留地の片隅を一人でさまよい」、「毎日、恐怖に苛まれた」。 外国人住宅の一角を一人でさまようこともしばしば」、「毎日震えていた」のである。 1895年1月以降、当局の煽りを受けて東京をはじめとする数十の新聞社が、ケレメンを虚偽と誤報で糾弾し、忌まわしい不遜な人物と罵倒する圧倒的なキャンペーンを展開し、3月初めまでその包囲網はエスカレートしていくことになる。 クリーマンの身の安全が次第に脅かされるようになり、急いで船のチケットを取ってその危険な国を避けなければならなくなった。

 当時の唸るような犬たちのシニシズムの中で、「それでも他紙とは違う記事を書いている」 日本の新聞、国際新聞があったことは特筆すべきことであろう。 社長の徳富蘇峰一郎は、日中戦争の時、「軍隊に随行する記者の数は、他のどの新聞社よりも私の新聞社が送ったものほど多くはなかった」と、何年も経ってから自伝で述懐している。

 国民新聞は、戦場特派員から情報を得ていたためか、「旅順で起きたことの真実は世界に明らかになったのだから、今さら外国の報道を正当化したり非難したりする必要はない」という態度をとったのである。 今でも、真実のために立ち上がり、嘘と決別した勇気は賞賛に値する。

 伊藤と六翁は、まさかこれほどまでに苦心して、内外の手段を駆使して「旅順大虐殺」を世間から、国民から長期に亘って隠蔽するとは、想像もつかなかっただろう。

 その「大多数」が戦後中国に帰国し、「日中戦争での珍しい体験を書き残した」のである。

 年月が経つにつれて、これらはファーストハンドで、目撃者が書いた「手書き」の「本音」によって、すべてが塵になったわけではなく、その多くは保存された。まだ多くの軍の手紙、ログなども、幸運にも残っている。

 これらはすべて、井上さんが今日まで故郷で探し続けてきた貴重な歴史資料の一つであることは間違いない。 「清国遠征記」、「軍記」、「行軍記」の各巻で、「旅順大虐殺」が言及されている箇所では、「射る」「殺す」「殺される」という言葉が最も多く使われている。

  「撃たれる」「殺される」「切り倒される」「刺される」「死体の山」「死体」。 「死体」「血の川」「悪臭」......あの大量殺戮の現場が。

 ある日本兵が告白しているように、これらを紙に再現するには、「何日も観察し、何週間も書き続け、1日に数ページずつ書くには、よほどの文才がなければ、1カ月は書き終わらないだろう」  しかも、この「手書きメモ」や手紙の行間から、銃やナタで中国人を虐殺したのは日本兵だけでなく、相当数の日本人ジャーナリストや国会議員、さらには担架や馬車の運転手、馬の給餌係までが関わっていたことが明らかである。

  第二軍による旅順占領の知らせが届くと、彼らは直ちに市街地に駆けつけ、「松明、日本刀、拳銃で武装」し、兵士とともに移動し、「市街地で見かけた中国人を格好の獲物として扱った」。 街中で見かけた中国人は、格好の獲物として扱われた」--おっと、なんと凶悪な、幽霊のような狼の一団ではないか。 クリルマンが「世界報」で「旅順で見たような残虐行為は文明人にはできない!」と絶賛したのも無理はない。

 井上春樹は現地に赴き、苦労して研究した。「雲」と「霧」を解き明かし、手がかりを見つけるまでに約2年の歳月を要した。

 旅順大虐殺

 本書は、「旅順虐殺事件」以来、100年以上にわたって日本で初めての「全容を反映した単行本」である。

 さらに井上は、本書の最終章で、1895年末に日清戦争が終結し、日本軍が遼東半島から撤退した歴史的事実を詳細に明らかにしている。

 その前に、旅順周辺で殺害された中国人の遺体を火葬し、その灰を市の北西郊外の白玉山に埋め、その前に「清国兵殉職之墓」という木碑を建てたのである。

 これは、殺された人たちが本当は「戦っていない平和な旅順の住民」ではないかのように、意図的に世界を欺こうとしたのだ。 その後、旅順に戻った中国清軍宋慶軍は、戦死した同胞を弔う国民の願いに従って、代わりに墓の前に高い石碑を建てた:「万忠墓」である。

 1905年、日露戦争が終わると、旅順は不幸にも再び日本の手に落ちてしまった。 侵略者の目には、(虐殺の)証拠となった万中墓は、中国人の愛国心を刺激する場所であり、旅順の植民地支配にとって明らかに「危険」であったため、事前に破壊しようと考えたのだ。

 こうして真夜中に、「万忠墓」の碑が盗まれたのである。 1922年、旅順中国商会の主導で、萬忠の墓を修復するための寄付が集められ、墓の前に2つ目の石碑が建てられ、毎年春と秋に厳粛に奉納されている。

 「九・一八事件」の頃、日本の統治当局は「移転」を口実に古墳を一挙に破壊しようとしたが、中国国民の強い抗議で失敗に終わった。

  万中墓をめぐる紆余曲折は、その後の日本政府の「旅順大虐殺」隠蔽工作の一貫を示す好例である。

 今、井上春樹氏の正義の 「覆面」が公開された。 1995年12月に筑摩書房から出版されたこの「よくできた、よくできた作品」(教科書検定制度をめぐって日本政府と長く裁判を戦ってきた東京教育大学の名物教授、家永三郎の言葉)は、すぐに日本のマスコミや学界で大きな反響を呼び、舞台化された。

 第2回日本平和・協同ジャーナリスト基金賞(日本の民間団体による賞)も受賞したが、日本では公式にはタブー視され、無関心なままである。

  2001年版の井上さんの序文によると、日本の国会が所管する国立国会図書館は、6年前に日本で出版されたにもかかわらず、「日本語版『旅順虐殺事件』を図書館の蔵書目録1991-1995から微妙に削除した」という。つまり、記録されなかったということである。

  これは明らかに興味をそそられる動きだ。 注目すべきは、井上春樹がめげることなく決意を固めたことである。 そして、中国版に多くの新知見を加える一方、長年にわたる現地調査で収集した資料をすべてコピーし、旅順万中墓記念館などに寄贈し、「研究する」ことにしたのである。

 それは、「旅順大虐殺」を研究したい中国人が、日本に行かなくても、殉教の地で研究できるようにすることである。

xbchen 文章来源:网易历史作者:方一戈责任編輯:王晓易_NE0011


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