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米国民主政治の堕落と混乱を予告した
トクヴィル
 (3)
【伊藤貫の真剣な雑談】第14回 (チャンネル桜 youtube)

 War in Ukraine #3953  3 August 2023


トランススクリプト 池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メディア E-wave Tokyo 2023年8月4日

アレクシス・ドゥ・トクヴィル
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる


 その1   その2   その3

 『中間支配者層がフランス革命によって消滅したことにより、フランスは逆に政府によるラ・ヌーベル・サービチュード(New Slavary system)新らしい奴隷制が発生することになった。』

 1840年のトクヴィルの著作「アメリカの民主主義」の最終部に書かれていること。これを読んだ20世紀後半の人はみんな驚いた。なぜかというと、トクヴィルは第二次大戦後の西ヨーロッパと北欧の福祉社会の実現を予言していた。100年以上後のことを、予言していた。

 トクヴィルによると福祉社会主義(スウェーデン、デンマーク、ノルウェイ)は必ずしも人間の尊厳にとって望ましいものではない、と言っている。なぜかというと、福祉主義を進めると、トクヴィルは自由主義、民主主義を支持したが、それと同時に、国民が政府に従属しすぎることをすごく嫌がっていた。

 彼はアメリカ人のことを「これほど言論の自由がない国はない、、、」などとけなしているように、彼は非常に鋭敏で、みんなが自由主義と民主主義を実行しているつもりのときに、それは本当の自由主義ではない、人間としての尊厳を失っているのではないか、という疑念・疑問を抱いてしまう。トクヴィルはPascalが大好きで、パスカルも非常に孤立した秀才だが、トクヴィルもパスカル的なところがあり、本質をグサッとっすような考えをもち、秀才で両者は似ていると感じさせる。

 彼は、20世紀後半に人類が実際に作った福祉社会/福祉主義といものを「新しい専制主義(Despotism)」とまで呼んでいる。新しい種類の専制政治において、『政府は均一的な大衆の矮小な快楽に対する要求まで満足させてやろうと行動する。政府は保護者的な親切でかつ几帳面な態度で人々の日常生活と欲望をコントロールしていこうとする。政府の態度はパターナル(優しい面倒見のいいお父さん)と言ってもよいくらいだ。この新しい種類の専制主義の目的は、国民を恒常的に幼児的な状態・段階にとどめておくことである。精神的に国民が大人になれない状態にとどめておく。すべての国民にとって何が幸せな人生なのかを決定するのは政府であり、政府のみが国民の幸せを定義する能力を持っている。政府は国民にとって必要な生き方や関心事や娯楽まであらかじめ決めてあげる。政府はまるで国民の一人一人が自分のことを自分で考える必要性まで除去してやろうとするようである。その結果として、国民は一人一人考えなくなり、人間の自由意志は非常に狭い範囲内でしか機能しなくなる。国民が自立して自分で考える(自思)能力は衰退していく。』

 『しかもそのような自分のことは自分で考えて決めることができなくなった人間は自分のことを幸せな境遇に住んでいると思うようになり、社会は細かい画一的な規則で縛られるようになり、このような社会では独創的な思考力の持ち主や強い精神力を備えた人は拘束的な環境から脱出できなくなる。 人間の意志力は抑制されて鈍化され、枯渇化していく。そして、国民は単なる勤勉で臆病な家畜の集団となっていく。』         

 このトクヴィルの言葉は後に非常に有名なフレーズとなった。1840年に、「将来の国民は勤勉で臆病な家畜の集団となるであろう」と指摘したことはオーウェルの『1984年』にあるような臆病な飼いならされた集団となっていくというものである。

 トクビルはこのような家畜の集団の国民を「やさしくて平和的な奴隷制のもとの国民」と呼んでいる。やさしい奴隷制。『このような奴隷制は国民主権や自由主義と矛盾していないという外見を維持できる。このようにコントロールされ、拘束されている国民は、自分たちを監督者(拘束者)を選挙で選んでいるのは自分たちだ、と思って満足している。人々は人間としての真の自由を失った状態のもとで生きながら、自分は人間としての自由を維持していると思い込んでいる。』

 要するに、民主主義、平等主義、自由主義を続けることは、トクヴィルの目には新しい奴隷制(国民の面倒を1から100まですべてコントロールして満足してもるあ幼なみるような)、奇妙な奴隷制をつくることになる、と指摘している。

 トクヴィルは1835年のアメリカの民主主義において、『民主主義における選挙において、政治指導者の質は低下していく。普通選挙を実行すると政治家の質がどんどん落ちていく。」と書いている。

 その議論はものすごく説得力がある。彼は、彼自身がフランスの7月王朝(ブルジョア封建主義王朝)の国会議員であったので、彼自身が民主的な選挙を体験している。自分が国会議員になったのにもかかわらず、民主的選挙をやると政治指導者の質がおちていくと判断している。

 私は、この1835年のトクヴィルの分析は2023年の現在も正しいと思う。190年前の判断であるが、彼が指摘している三つの点は、現在でも正しいと思っている。

 『民主主義政治の仮説・前提は何かというと、行動の自由、言論の自由を実践すれば、それによって啓蒙された国民たちは質のよい政治指導者を選出するだろう、これが民主主義の仮説、もしくは前提である。』

 しかし、トクヴィル自身はこれを信じていなかった。なぜなら、彼によれば。報道の自由、言論の自由についていうと;

 『アメリカのジャーナリストは教育レベルが低くて彼らの言論は粗野であり攻撃的である。彼らには本当の信念や節操などと言うものはなく他人の弱点や欠点を暴き立てることによって熱中している。しかし、そのようなジャーナリストが群れをなして同じ主張を繰り返すと世論はその方向に引きずられて行ってしまう。個々のマスコミ人は矮小な存在に過ぎない。それにもかかわらず、これら矮小なマスコミ陣が集団となると、アメリカで最大の社会的影響力を行使している。』

 トクヴィルはジャーナリストが嫌いだった。下品で教育レベルも低く人の荒さががしばかりしている。一人一人は矮小だが、グルになると世論が引きずられて最大の社会的影響を行使する結果となっている、と。彼は報道の自由、言論の自由を実践すれば人々が啓蒙されるとは思っていなかった。

 つぎに、『すべての人に投票権を与えれば優秀な人が選出されると民主主義者は主張してきた。しかし、私はアメリカで逆の事態が発生していることを発見した。本当に優秀なアメリカ人は選挙に出たがらない、彼らは政治に出ることを避けて、経済活動に専念している。選挙に出馬したがるアメリカ人たちは凡庸な人たちばかりである。しかも、一般の投票者たちが選挙で優秀な人に票を投じると言うこともない。民主主義社会の投票者は自分の失望や嫉妬や怒りといった感情に基づいて票を投じているのであり、自分より優越した人を選挙で支持しようとしている訳ではない。従って優秀なアメリカ人にとって政治家というキャリアは魅力のあるものではない。政治家になれば、自分の独立を失うし、人前で品のない振る舞いをしなければならないこともある。従って、人々は政治家というキャリアを避ける。

 私の目から見ると普通選挙を実施すれば優れた政治指導者が出てくるという考え方は完全な妄想である。しかも、国民の知的レベルの向上には明らかに限界がある。公の政策を理解するには政策を勉強する時間が必要である。しかし、大部分の国民は自分の生活を支えるための労働をすることで精一杯で、彼らには公共の政策を勉強してみる時間的な余裕と経済的な余裕などない。そのような余裕のある生活をしている人々はごく少数である。そしてそのような人たちは一般の庶民ではない。従って大部分の国民は本当の政策理解力をもてないまま、表面的な印象に左右されて投票している。そして、口のうまい詐欺師的な政治屋たちはそのような国民を操るテクニックを身につけている。そのため、質の低い人物が選挙で多数当選するのである。』

 彼は、優秀な人は政治家になりたがらないし、マスコミは人の悪口ばかり言っているし教育レベルは引くくだらない連中だし、国民は国民で、一握りの人を除けば公共政策をじっくり勉強する時間的、経済的余裕はない。投票者も政治家になる人もマスコミもろくなもんではない、と指摘している。それなのにどうして普通選挙をやると質のよい政治指導者がでてくるのか、と指摘している。これは、トクヴィルが1835年に言ったことだが、今でもどこの国においても100%正しいと思う。


■最後に、民主主義と平等主義はマテリアリズムを強化して学問と芸術まで軽劣化させていくと。
 
 『民主主義体制下のもとでは、人々は目先の利益の獲得に執着する。彼らは、自分の置かれた境遇に不満を抱いており、どうしたら私はもっとよい生活ができるかと言うことばかり考えている。富と快楽の増大が彼らにとってこの世で最も素晴らしいことのように思える。自由主義と民主主義は多数の自己利益増大主義者を生み出す。知的精神的に高尚な価値判断、価値規範を説く者はこれら自己利益のチャンピオンに踏み潰されてしまう。民主主義において社会の進歩はマテリアリスト(物質主義、経済利益優先主義、拝金主義)的な基準によってのみ計られるようになる。』

 『マテリアリストの基準によってのみ社会が進歩しているかどうかが計られる。

 公徳(Public Vertue)や公正(Public fairness)というコンセプトは空洞化していく。経済的な繁栄の追求は徳のある生き方とは無関係なものになる。そして人々は競争に勝つ、もしくは成功することが生きる目的となる。このような生き方によって人間は獣化していく。』と彼は言っている。

 しかも、もっとすごいのは、『マテリアリズムは精神の病である。マテリアリズムという病気は人間に内在している利己心という欠陥とすばらしい共存共栄関係にある。物質的肉体的な快楽主義を増強させて、文明を劣化させていく。民主主義体制では文学も劣化していく。作家は、大量に著作を売って金儲けすることを目指すようになり、大衆受けする文章を書きまくる。アリストクラシー社会の文学は少数の読者を喜ばせるために洗練されたスタイルで高貴な理想を描いた。当時の文学は金儲けとは無縁の行為であった。しかし、現在の民主社会の文学は単なる商売に過ぎない。』

 彼が言うには、『しかも民主主義は言語そのものを変えてしまった。民主主義社会の圧倒的な多数波は学問や哲学には興味がない。彼らは商売と政治に関心をもっている。従って言語はこの多数派の好みを満足させる形に変化していって、形而上学や神学、哲学は廃れていく。言語は決められたスタイルを失い、洗練と下品が無秩序に混在するようになる。そして、言語も社会も泥沼状態になっていくのだ。』と。

 これはトクヴィルの「マテリアリズムが文明の理解を破壊していく」という議論です。トクヴィルは19世紀はフランスでもギリシャ・ラテンの古典を読むことがはやらなくなったが、19世紀になってもギリシャとラテンの古典を学習することが民主主義に内在している数々の欠陥に対抗するために最も効果的な方法である』と指摘している。

 『古典をじっくり学ぶことが金銭欲にまみれた社会に、非常に洗練されて非常に危険な市民を生み出すからである。』

 Polished and dengerous person(洗練された危険な人物)が民主社会には必要という趣旨だが、これはトクヴィル自身ではないかと思える。

 啓蒙主義思想の言論の自由と表現の自由、報道の自由があればそれによって国民は啓蒙されて、すばらしい政治指導者を生み出すというのは100%嘘で、妄想に過ぎないと指摘している。このようなことを19世紀に言うのは非常に危険だが、さらってと述べている。彼自身が非常に洗練されていて危険な人物そのものだからだと思う。それを自覚していたと思う。

 トクヴィルはこういう啓蒙思想の自由主義、民主主義、平等主義を実践すれば国民の質は向上し、文明もよくなっていくだろう、人間の暮らしも政治もよくなっていくだろうというということに対して、彼の800頁の本のなかで、いろいろな欠点を非常に明瞭に説明して見せて、それは無理に決まっていると証明した。

 最後に彼がどう書いているかというと、やっぱり民主主義の劣化、低劣化、堕落、最終的には崩壊していくわけだが、それがどんどん悪くなっていくのを食い止めるのは、やはり宗教心を復活させなければダメだと、トクヴィルは言っている。

 トクヴィルとキリスト教の関係は非常に複雑で、彼は16~17歳まで熱心なキリスト教徒だったが、17歳の頃哲学書をたくさん読んで、キリスト教の教義にはフィクションに過ぎないものが多いと悟った。一時的に少年時代にキリスト教の信仰を失う。一生涯彼はキリスト教の教義に対して疑問を持っていた。なので、キリスト教の考え方をすべて肯定する立場には戻らなかったが、しかし、3・4世紀から14、15世紀までヨーロッパ文明の基盤となったのは、キリスト教的な人間観とキリスト教的な世界観である。
 
 キリスト教の教義に疑いを抱くようになったトクヴィルではあるが、キリスト今日的な人間観と世界観を捨てたら大変なことになると考えていた。これを捨てると人間はますます悪くなる、と悟った。キリスト教の教義に失望した後も、キリスト教的な人生観、世界観を捨ててはいけないと考え、言い続けていた。彼によれば、神もしくは究極の真善美という概念を持たない限り、人間は価値判断の基準を持てない。なぜならば、人間はみんな目先の利益、虚栄心とか欲を満たすために生きているが、目先の利益、権力を求めるために他の人と争うことしかできなくなる。そうするとそれが、目先の競争に勝つことが人間の価値判断の基準になるかというとそれはならない。

 それは本当の永続性をもつ価値判断の基準にはならない。だからトクヴィルは神もしくは究極の真善美というようなコンセプトを維持しない限り、人間は価値判断の基盤となるものを持てない、ということを指摘した。

 彼が言うには、『神に関するアイディアが明確でないのなら、人間が生きる意味と目的そして、義務の観念も曖昧になってしまう。その結果人間は懐疑心にとりつかれて動揺し、無責任になったり、臆病になったり、無思考状態になったりする。神の概念、つまり、人間の利害を超えた崇高なもの、こそ人間にとって最も重要なことである。しかしながら、この概念は人間にとって最も困難な概念であり、人間の理性をもっても答えが出てこない問題である。』

 トクヴィルは、神に対する信仰、尊敬心、神の視点からの判断を大切に思っていたが、しかし、理性というもので、神の存在が証明できるかというとそれはできない。ただし、神が存在しないということも証明できない。人間の目先の利害打算を超えた、勝ち負けを超えた超越的な価値(Transcendental Value)というものが存在するか否かも人間の理性を使っては肯定も否定もできない。

 だから彼は、これが人間にとって最も重要なことであるが、もっとも困難であり、しかも理性を使ってもイエスかノーかという答えが出てこない。科学的な実証主義を使っても答えは出ない、と指摘している。

 例えば、パスカルは有名な数学者、物理学者だったが彼は神の存在を信じた。最近ではホワイトヘッドという有名な数学者も信じていたし、アインシュタインも神の存在を肯定していた。有名な数学者、物理学者にも神の存在を信じている人もいる。自然科学の実証主義を使っても答えが出てこない。トクヴィルによると、神はいるかいないか、神の基準からみると別に見えるという思考が可能かどうかは、理性によっては答えが出ない問題。つまりBrain/頭脳を使って判断するか、霊魂か精神(人間のSoul or spirit )によって直感するしかない、と考えていた。

 Intuition(直感)を肯定するか否定するかによって立場が変わってくる。スピノザ、ライプニッツ、パスカル、アインシュタインといった科学者は肯定していた。頭のいい人は宗教を信じないが頭の悪いやつが信じていると言うことは言えない。

 最終的には民主主義、自由主義、平等主義の欠陥を本当に是正しようとするならば、トクヴィルは、神の存在というものをもう一度考え直して、信じる必要があると、また、魂の存在を信じるべきであると言っている。

 彼は、『宗教心を失った近代人がマテリアリズムや快楽主義といった罠にはまっていくなら、自由主義、平等主義、民主主義を実行しても社会はいずれ、道徳的な麻痺状態に陥っていくであろう。宗教を失った民主主義は価値判断力を失って不安定で無秩序になる。従って社会に古くからある宗教を慌てて捨てない方がよい。宗教を慌てて捨てて、新思想を注入してもろくな結果にはならない。人々は心の空洞を埋めるために、快楽主義に飛びつくであろう』、と言っている。

 最終的には神学論争的にはなるが、宗教心をもつことが民主主義、進歩主義、平等主義、自由主義による人間の腐敗、堕落、文明の劣化に対抗するためにも、そういう考えを持たなければいけない、ということ。

 アメリカは少なくとも1950年代まではキリスト教的な価値判断が正しいというのが一般的な世論だったが、1960年代からすでに60年間キリスト教的な価値判断は笑いものになってきた。

 特に大学の教授とかマスコミはキリスト教的な価値判断を嘲笑してポリコレとかフェミニズムとかgender equolityかwokenessとか新しい思想を持ち込み、お互いに喧嘩ばかりしている。今のアメリカでは社会的なこと政治的なことについてまともな討論がなりたたない。共通の価値規範とか文明観を失った国民はお互いに罵るだけでまともな議論にならない。トクヴィルも言ったように、慌てて古くからある宗教を捨てて新思想を注入するとろくでもないことになる、というのはほんとにほんと!

 アメリカの今の価値判断の錯乱状態=キャンセルカルチャー、(おまえの話は聞きたくない、あんたの意見に耳を傾けるつもりはない)では、民主主義は成り立たない。アメリカはここまで来ている。私はアメリカのこの状態をみるたびにトクヴィル先生は正しかった、180年前に今のアメリカがこういう状態になることがすでにわかっていたのだとつくずく思う。


本稿終了