旧中山道、信州 宿場探訪 長久保宿(長和町)2 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda May 15, 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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下は長久保宿の高札場跡です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4
長窪宿は当初、西方段丘下の依田川沿いの地でありましたが、寛永7年(1630)依田川の洪水で流失してしまったこともあり、大沢山口の新設の長窪宿に移住しました。 当初の町並みは竪町のみでしたが、宿の外延的な拡大に伴い横町が作られました。 長久保宿は宿のほぼ中央でL字型に屈がり、東の笠取峠の芦田宿に向かう竪町に本陣、脇本陣、問屋など宿場の基本施設が置かれましたが、南に延びる横町には旅籠屋が多く存在しました。 享和元年(1801年)の宿方明細帳には本陣・脇本陣が各1軒づつ竪町にあり、問屋場は2ヶ所あり、月の上半分を九右衛門が下半分を平右衛門が勤めました。旅籠屋は40軒で(大13軒・中10軒・小17軒)、その他の商人27軒とあります。 長窪宿の旅籠屋が多いのは中山道の和田峠・笠取峠、諏訪道の大門峠への登り口であったこと、上田・松代への北国街道の分岐点であったため、人馬の往来が多かったためと思われます。 家数・人数は延宝3年(1675)97戸、正徳6年(1716)191・922、寛延3年(1750)215・904、宝暦8年(1758)188・966、安永10年(1781)185・876とあります。 飯盛女は安永9年(1780)の問屋日記に、飯盛女が3名来たと見え、文化8年(1811)には21人、万延2年(1861)67人も抱えられていました。 天保14年(1843)の「中山道宿村大慨帳」では、宿の長さ7町52間、人数721、家数187のうち本陣1、脇本陣1、旅籠屋43、問屋場1で、旅籠屋の数が中山道筋で下諏訪宿に次いで多い宿場でした。前述の二の峠を控えていたのと、飯盛女の存在があるのではないでしょうか。 出典、参考:http://matinami.o.oo7.jp/kousinetu/nagakubosyuku.html 長久保宿の風景 出典:Wikipadia
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4
つづく |