第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6 A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune 初夏のアマルフィ海岸を行く 9日目 カーヴァのみどころ(教会・修道院)1 青山貞一・池田こみち 2013年6月14日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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2013年アマルフィ海岸現地視察調査報告<125本 全体メニュー> アマルフィの位置 カーヴァの紋章 イタリア国旗 以下はカーヴァ・デ・ティッレーニのみどころの概要です。 ◆大聖堂 1517年に深刻な地震で損傷を受けましたが、1571年に大聖堂の建設を開始し、その後1590年代に大聖堂は市民権を取り戻しました。 ◆聖フランシス会の教会、聖フランシスと聖アントニー Franciscan sanctuary of St. Francis and St. Anthony フランシスコ会は1450年に土地の寄進を受け、1542年から教会と修道院の建設を始めました。彼らは、その地を開発するうえで将来的に発展する場所を見極めるかなりの洞察力を発揮させ、彼らの指示はしばしば将来の発展を予感させるものでした。 16世紀に入ると、地元自治体の議会を主催していました。当然のことながら、教会と修道院はこの地域のなかで最も愛され、町の紋章にもなっていました。また、しゅろの主日(Palm Sunday;復活祭直前の日曜日)には、初めてそこにあつまってくるであろう市長と選らばれた人々が厳粛な祝福を受けるという伝統的な儀式もありました。 聖フランシス会の教会、聖フランシスと聖アントニー Franciscan sanctuary of St. Francis and St. Anthony 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 Facciata del Santuario di San Francesco e Sant'Antonio 聖フランシスコと聖アンソニー教会のファサード 出典:Wikipeida Italia 1544年に奉献された教会は、一時、イエスの聖マリアに捧げられ、そして、今日では、アッシジの聖フランシスとパドヴァの聖アントニウスに捧げられましたがその間、自然災害やさまざまな戦争によって繰り返し破壊されました。1980年の地震では、灰燼に帰するほど破壊されました:波はほとんど36メートルの高さまで達しましたが、1571年につくられた教会のファサードと鐘楼、また、教会の翼廊部分とベリサリオCorenzioに由来する16世紀のフレスコ画と聖具室は助かりました。 フランシスコ会は、1542年から教会や修道院の建築を開始しました。具体的には、土地の寄付を受け入れた1450年に教会や修道院開発のため良好な景観で環境に優れた立地の選択を行いました。それは、教会や修道院の将来における拡張の備えること、さらにまた市長と選出された市民の代表による手続きを満たすためです。このカーヴァ・デ・ティッレーニにはこのような地元市民による民主主義的な手続きを必要とする伝統があったのです。 16世紀、市長と選出された市民の代表は驚くことではないが、教会や修道院が最も愛した地域の中にあった、市の紋章にちなんだ自治体議会の会議を開催しましたしゅろ(パーム)の主日、彼らは厳粛な祝福を得ました。 ◆バディア カバデティレニの三位一体の領土修道院、ベネディクト修道院 Badia della SS Trinita http://www.badiadicava.it/index.php?option=com_content&view=article&id=38&Itemid=22 修道院はモナコの隠修士ベネディクト・アルフェリスによって1011年に創建されました。彼は、他の最初の大修道院長であるレオ、ピーター一世、そして、コスタビレの三人と一緒に1893年に聖人を列せられました。 現在のファサードの建設は18世紀の後半に遡ります。ドーム、合唱団席、そして十字架は、19世紀にヴィンチェンツォ・モラニによるフレスコ画が描かれていました。 12世紀のモザイク装飾のある説教壇は大変興味深く、聖マテオと聖フェリシタスの彫刻が浅く浮き彫りにされています。聖餐の礼拝堂の17世紀の多色大理石の祭壇、聖アルフェリオの洞には壺があり、14世紀の壁画の遺跡などが残されています。 Abbazia Benedettina ベネディクト修道院 出典:Wikipedia Italia カーヴァのベネディクト修道院 出典:http://www.badiadicava.it/ 18世紀のhacklersを備えたルネッサンス様式の表玄関から入ると聖具室があります。ロマネスク様式の回廊(13世紀)は石棺で飾られています。図書室には、5万冊もの図書が備えられ、多くのインキュナブラ(いわゆる『42行聖書』をグーテンベルクが1454/55年頃に完成させてから、1500年末までにヨーロッパで活版印刷された印刷物を指す)や16世紀の重要な図書が収蔵されていました。保存された資料には、貴重な暗号・記号、手書きの原稿など15,000以上にものぼる、羊皮紙や書類のかなりの量が含まれていました。 792年から1065年までの文書の全文はCodex Diplomaticus Cavensis として出版されています。 12世紀に創られた広い部屋は、美術館とマドンナ及び聖人たちの部屋となっており、15世紀のシエナ派の手によるテーブルが置かれています。 象牙の棺は11世紀のものです。ラファエル派による祭壇の画はアンドレア・サバチーニに捧げられたものです。画家カラヴァッジオによる絵画、数多くの考古学的な発見があり、それらの中には、コインもあります。また、完璧なまでのサレルノのロンバードとノルマン人たちの整然とした規則正しい時の流れが感じられます。アブルッツォやヴィエトリのマジョリカ焼き、菜食された手書きの写本などがあります。
つづく |