2014年 青森現地調査ルート案
青山貞一 Environmental Research Institute, Tokyo


第1日目案
第2日目案


130km
    


下北半島地形図


◆初日

午前8時00分 ホテル出発
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 レンタカーで青森→280号線で津軽半島北上
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蟹田港フェリーターミナル
   〒030-1302
   青森県東津軽郡外ヶ浜町字蟹田中師宮本160
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 津軽・下北フェリーで下北半島へ 1時間
   http://www.mutsuwan-ferry.jp/

  第一候補 蟹田発  9:20 脇野沢着 10:20
               10:50         11:50
    運賃 自動車3m以上 4m未満 7,880円
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 脇野沢港フェリーターミナル
   〒039-5327
   青森県むつ市脇野沢本村

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 下北半島 338号線北上
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 下北半島名所旧跡めぐり

 下北半島 大間原発建設現場視察
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 下北半島突端 大間岬
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 下北半島名所旧跡めぐり
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      279号線
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 下北半島 むつ市市内名所旧跡視察(斗南藩跡)

 矢立温泉泊



下北半島名所旧跡


大間岬


大間岬 衛星画像

◆Jパワー 大間原発

 大間原子力発電所は、電源開発(株)が下北郡大間町に138.3万kWの改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)を建設する計画となっています。



大間原発上空からの衛星画像   出典:グーグルアース

◆主な立地の経緯

 この計画は、当初、新型転換炉(ATR)の実証炉を建設する予定でしたが、平成7年8月、原子力委員会により、経済性等の理由からATR実証炉建設計画の中止が決定され、代わりに、全炉心MOX燃料(ウランとプルトニウムの混合酸化物燃料)装荷可能なABWR1基の建設計画となったものです。その後、平成11年8月には電源開発調整審議会に上程され、国の電源開発基本計画に組み入れられました。

 平成11年9月、電源開発(株)から通商産業大臣あてに原子炉設置許可申請が行われ、国の安全審査が開始されました。

 平成15年2月、電源開発(株)は早期の用地取得が困難と判断し、配置計画の見直しに伴う詳細な調査・設計を行い、平成16年3月、当初の原子炉設置許可申請を取り下げ、改めて経済産業大臣に原子炉設置許可申請を行い、国の安全審査が再開されました。

 平成17年6月、原子力安全・保安院による安全審査が終了し、その結果について、経済産業大臣から原子力委員会及び原子力安全委員会に対して諮問され、両委員会において、その妥当性の審査(2次審査、いわゆるダブルチェック)が開始されました。
 平成20年4月、経済産業大臣により、原子炉の設置が許可され、平成20年5月に着工しました。


海側から見た工事中の大間原発 出典:hatena





下北半島の温泉


◆恐山

、下北半島の中央部に位置する外輪山、霊場である。また、霊場内に数種類の温泉が湧き、湯治場としても利用されている。下北半島国定公園に指定されている。標高878m。

 恐山(おそれざん、おそれやま)は恐山は、カルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)を中心とした外輪山の総称である。外輪山は釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰。「恐山」という名称の単独峰はない。火山岩に覆われた「地獄」と呼ばれる風景と、美しい宇曽利湖の「極楽浜」との対比が特徴である。

 寺名は菩提寺、本坊はむつ市田名部にある曹洞宗円通寺である。本尊は地蔵菩薩。恐山は、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られる。下北地方では「人は死ねば(魂は)お山(恐山)さ行ぐ」と言い伝えられている。



出典:Wikipedia


出典:Wikipedia



むつ市内名所旧跡


斗南藩 史跡 出典:http://simokita.org/sight/tonami/

◆斗南藩について


◆江戸時代の青森県藩図

 戊辰戦争後、新政府により藩主松平容保と全家臣が東京や越後高田で謹慎の身となった。

 明治2年、版籍奉還が行われる中、会津松平家は再興を許されたが、領地として旧領内の猪苗代湖畔もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。その際「農業により領地の財政基盤を築け」との条件があったため、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。

 新しい藩名は「斗南」と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住したが、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。斗南藩大参事
山川浩、少参事広沢安任・永岡久茂らは農業施策を展開するが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発するものもあった。しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めた。

 明治4年、新政府は廃藩置県を実施、斗南藩も斗南県となり、藩知事だった松平容大も東京へ移住となった。山川らは斗南県の将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併し青森県となった。しかし藩が消滅、藩主も失った不毛な斗南の地に希望を持てない会津人の多くがこれを機に全国に散って行ったために、軌道にのりかけた斗南藩の農業政策は瓦解した。

 なかには旧斗南藩に留まり農業を続けた島影家、我が国初の洋式牧場を開設した広沢安任のような人物もいる。


◆山川浩

 弘化2年〜明治31年(1845〜1898) 会津藩家老職の家に生まれる。

 19歳で京都にいた藩主容保の命で上京し奏者番となる。幕府の樺太境界議定に随行、世界の体勢を学ぶ。会津戦争では新政府軍に包囲された鶴ヶ城を、彼岸獅子舞を奏して入城、総指揮をとる。明治2年松平家の家名を再興、翌年斗南藩大参事となり藩務にあたる。

 廃藩後は陸軍省に入り、少将まで進む。この間、東京高等師範学校長などを兼務。弟健次郎と共に編集した「京都守護職始末」は維新史の新生面を開いた。

戊辰戦争の終結

 会津では「戦争に負けた」とは、戊辰戦争で薩長(新政府軍)に敗れたことをいう。第2次世界大戦で敗れたことではない。この敗戦ほど会津人にとって痛恨と怨念に満ちたものはない。130年がたった今でも、この悔しさをぬぐい去ることはできないだろう。

 明治は、倒幕の実現によって誕生した。その後、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」という政策により、軍国主義の道を歩み始めた。こうしてこの100年 間で幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出した。日本の悲劇は幕府を倒したときから始まっていたのではないだろうか。

◆斗南への移住

 会津藩の新しい藩名は「斗南」と命名された。この命名には諸説があるが、「北斗以南皆帝州」から採られたというのが定説になっている。

 つまり、北にある北斗七星より南の土地は、すべて天皇の治める国土であり、我らも天皇の民である。というのだ。そして、明治3年4月から旧会津藩士とそ の家族の1万7千人の大移動が始まった。会津から青森県の斗南までは約590キロもある。東京から、越後高田から、そして会津から、海路や陸路を辿って彼らは北へ北へと向かった。政府から支給された路銀は乏しく、食うや食わずの苦しい旅だった。

 斗南の藩領は現在の下北半島と五戸郡・三戸郡だった。ふたつに分断された藩領の間に、南部の支藩である七戸藩と八戸藩が挟まっている。

 そしてようやく辿り着いた斗南で、彼らは初めて愕然とした。そこは表向きは3万石といっても、実質は7千5百石ほども見込めない不毛の地だった。御家再 興を許されたとはいっても、実態は会津藩そのものを流刑にしたに過ぎないことを、西郷らは思い知らされたにちがいない。

◆新天地での生活

 斗南藩庁は、とりあえず五戸の南部藩大官所があてられ、この9月、2歳の松平容大も会津から五戸に着いた。そして翌年4年2月、新たに藩庁となったむつ 市田名部にある円通寺に移った。新政府は諸藩の職制を改め、従来の家老に代わる大参事、小参事という役職を置くように指示していた。それに従い、新生の斗 南藩も職制を改め、山川浩が大参事、広沢安任(やすとう)・永岡久茂らが小参事に就任して、わずか2歳の容大を補佐して斗南藩政を指導していくことになっ た。西郷頼母は当時上北郡五戸の隣の伝法寺に住まいすることになる。


◆新斗南藩の消滅

 明治2年の藩籍奉還によって大名の領地は朝廷に返上されてはいたが、実態は藩知事と名を変えた藩主が旧領を治めていることに変わりがなかった。そこで政府は完全に封建制を破壊するために、廃藩置県を断行した。これによって青森県に存在していた弘前・黒石・七戸・八戸・斗南の諸藩はそれぞれ県に改められた。

そして、藩と旧藩主を切り離すため、旧大名はすべて東京に召還された。斗南藩知事だった容大も東京に移住となった。このときの容大が斗南の人々との別れの挨拶をしたためた手紙が今でもむつ市に残っている。

 その後、9月4日に斗南藩は他の諸藩とともに弘前県に合併され、同月23日、さらに青森県と改称された。こうして斗南藩は、わずか1年数カ月にして消滅してしまった。


 朝敵の汚名を着せられ廃藩となった会津藩 藩士が御家復興の地と選んだ下北半島には 当時を偲ぶ史跡がいくつか残っています
まずは、新潟より海路をたどり藩士たちが上陸したとされる大湊 この記念碑は会津鶴ヶ城の石垣にも使われている岩を使い会津若松市の方に向けて建てられたそうです

続いては、斗南藩出身で後には陸軍大将にまで出世した柴五郎一家の居住跡テニスコート横の小路を進むと、一家が下北半島に来た当初に身を寄せた神社と柴五郎の家があったとされる場所があり立て札には当時の境遇が綴られています
続いて、斗南藩の藩庁が置かれた円通寺とその隣にある徳玄寺円通寺の境内には戊辰戦争の三十三回忌に建立された奮戦むなしく亡くなった会津藩士を弔う招魂之碑があります

そして、藩士が復興を夢見た斗南ヶ丘にある斗南藩史跡地200世帯が暮らす街並みであったが今では、かすかに残る土塀跡のみがその当時を伝えます
最後は、わずかに残る旧斗南藩士らのお墓。史跡地より800mほど進んだ場所にあり階段を目印にすると良いでしょう過酷な生活に志半ばで亡くなった藩士達が静かに眠っています
斗南藩 史跡 出典:http://simokita.org/sight/tonami/


つづく