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◆社殿は依然として修復中 下の写真にある165段の石段の上にある社殿(本殿・幣殿・拝殿)は、台風によって壊れ、前回来たときも修復中だったが、今回も修復中とのことで社殿が見られなかった。 石段の上にある随神門は、3間2間の単層切妻造で、左右表間 には随神がおかれ、木鼻などよりみて寛文期の ものと推定される。 撮影:青山貞一 本殿に通ずる階段は改修のため立入禁止となっていた。 撮影:池田こみち ◆社殿と唐門 以下は群馬県公式ホームページの社殿、唐門の紹介文である。 なお、改修工事は今後もつづくとのことであった。
◆旧宮家御殿 妙義神社は古くから皇室の信仰も厚かったそうだ。妙義神社は東叡山寛永寺の別院元光院の兼帯となり、 1636年以来、寛永寺座主輪王寺宮の隠居所となったとのこと。 下は波己曽社の近くにある旧宮家御殿である。現在は資料館と社務所となっている。 旧宮家御殿、現在は社務所 撮影:青山貞一 旧宮家御殿、現在は社務所 撮影:青山貞一 旧宮家御殿、現在は社務所に通ずる門 撮影:青山貞一 ◆石垣 妙義神社境内には精巧にできた石垣がある。誰でもここに城があったかと推測するが、妙義神社には城はない。これは江戸中期に妙義山で産する安山岩を使い、江戸や信州高遠の石工たちが築いたと言われている。実に精巧な石積であり、学術的にもきわめて重要な石垣であるとボランティアの方が説明してくれた。 石垣は何期かに分けて造られたが、総門脇の巨石 を使用した精巧な石積は群馬県随一の石垣である。 石垣に刻まれた銘文は、本社前は「延享元甲子 六月、石階造修工武州江府霊岸島近藤利兵衛」、 随神門下の石段は「宝永二乙酉歳霜月吉祥日」、 総門前石垣に「明和六暦丑」と刻まれている。 また宝暦6年銘の棟札には「信州高遠石切二六 人、江戸石切一人」とあり、1705〈宝永2) 年から1769(明和6)年までの半世紀にわたっ て築かれたとされている。 石垣の背景に見える波己曽社 撮影:青山貞一 石垣側から総門を見る 撮影:青山貞一 石垣 撮影:青山貞一 石垣 撮影:青山貞一 ◆妙義山への登山道 なお、上の165段の石段は通行禁止となっているものの、グルーと山側を登れば工事中の社殿などを遠巻きに見られると説明を受けたが、私たちは遠慮することにした。 撮影:鷹取敦 撮影:鷹取敦 撮影:青山貞一 撮影:青山貞一 つづく |