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初秋の上州を行く

E信越本線碓氷峠
熊ノ峠駅

青山貞一
掲載月日:2012年10月7日
 独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁


出典:青山貞一、CoolPix S8 2010.8.15が撮影した写真をもとに筆者が独自に作成

今回の視察は、現在位置より左(西)のオレンジ色部分が全面整備されたことから
上図の現在位置から熊ノ平駅(左端)までをトレッキングした。

 熊ノ平駅近くのトンネル出口。

 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6

 トンネルを出たところに1950年の大規模崩落事故の慰霊碑があった。


1950年の大規模崩落事故の慰霊碑
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6


1950年の大規模崩落事故の慰霊碑
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6


1950年の大規模崩落事故の慰霊碑についての説明
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6

 1950年の大規模崩落事故の詳細は、以下のとおりである。50人がこの事故で亡くなられている。

◆大規模崩落事故(1950年)

 1950年(昭和25年)6月は碓氷峠周辺で降雨が続き、上旬だけで軽井沢測候所で150ミリメートルもの雨量が観測された。そのような中、6月8日の午後8時半頃に熊ノ平駅構内の第10号トンネルで約3,000立方メートルの土砂が崩壊して本線・突込線が埋没した。

 この時点で人的被害はなかったが、含水量が多いことなどから作業が難航した上、翌6月9日午前6時6分頃にその上方で7,000立方メートルほどの崩落が発生し、作業中の人員や宿舎4棟・8戸が埋まった。

 その後、手作業での救出作業が行なわれたが、6月11日午後11時半頃に3回目、6月12日午前7時24分に4回目の崩落がそれぞれ起きた。最終的にこの事故による死者は50名、重軽傷者は21名に上り、線路は延長70メートルにわたって幅60メートル、深さ2メートルの土砂が堆積した。遺体は6月22日までに全てが回収され、信越本線は6月20日に開通、6月23日に完全復旧した。

 同年には飯田線でもトンネル崩落が起きており、国鉄がローカル線の保守を軽視しているという意見も出た。一周忌にあたる1951年(昭和26年)6月9日におよび同職員寄付で「熊ノ平殉難碑」が建立された。

出典:Wikipedia

 下の写真は、現在の信越本線熊ノ平駅。この駅で単線の信越本線がすれ違った。


現在の信越本線熊ノ平駅
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6


撮影:青山貞一

 下は明治・大正期の熊ノ平駅である。


明治・大正期の熊ノ平駅
出典:Wikipedia


現在の信越本線熊ノ平駅。かがんで写真を撮っているのは鷹取さん
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6

◆熊ノ平の歴史

 駅から信号場に降格したという歴史を持つ。現在もトンネルやホームなどの遺構が残っている。信号場時代は熊ノ平信号場(くまのたいらしんごうじょう)として、国鉄と国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)が管轄していた。

年表
1893年(明治26年)4月1日 - 信越本線横川 - 軽井沢間が開通し、給水
     給炭所として設置される。
丸山 - 矢ヶ崎間(共に信号場)は単線のため、列車交換設備も設けられた。
1906年(明治39年)10月1日 - 鉄道駅に昇格。
1918年(大正7年)3月7日 - 駅構内で脱線事故が発生(後述)。
1937年(昭和12年)7月 - 熊ノ平変電所が設けられる。
     同変電所は、アプト式廃止後も改修されて横川 - 軽井沢間の
     廃線まで使用された。
1950年(昭和25年)6月9日 - 駅構内で土砂崩れが発生(後述)。
1966年(昭和41年)2月1日 - 信号場に降格。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、JR東日本に継承。
1997年(平成9年)9月30日 - 長野新幹線(北陸新幹線)開通に伴い、信越
     本線横川 - 軽井沢間廃線と共に廃止。

駅の構造
 相対式ホーム2面2線(信号場降格時にホームは使用停止)の地上駅。大正時代には上下線の間に通過線が敷設されたが、第二次世界大戦後に撤去されている。
 トンネルに挟まれ有効長を十分に確保できないため、アプト式鉄道時代の列車は突込線によって一旦トンネルに突っ込んでから本線脇の引上線に後退して停車する、一種のスイッチバック駅だった。 信号場としての末期は複線だったため、閉塞境界としての機能だった。

出典:Wikipedia


1918年(大正7年)3月7日に発生した熊ノ平駅列車脱線事故現場の様子
出典:Wikipedia

 なお、熊ノ平駅から国道18号線へは、下の写真にあるような手すり付きの階段があり、18号線沿いに整備された駐車場まで降りることが出来る。

 
熊ノ平駅から国道18号線へ下津ための手すり付き階段
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6

 これで、横川駅〜丸山変電所〜めがね橋〜熊ノ平駅の間がすべてトレッキングできるようになった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2012.10.6

 残る整備は、下の示すように、上信越自動車道(高速道路)の横川SAから、この信越本線碓井線の歴史的遺産がある横川駅近くへの出入り口を設置することである。

◆具体的政策提言をひとつ!

 このところ、はからずもそれらの地域の歴史、文化遺産に接する機会が増え、経済の論理一辺倒でなく、歴史、文化、環境を残しながら、地域経済の活性化にも結びつけることの大切さを改めて思い起こしてみる必要があると強く感じている。

 たとえば、すでに私たちは何度も政策提言しているが、既存の高速道路も米国のように無料化するだけでなく、多くの一般道路と相互乗り入れができるようになれば、今までただ通り過ぎていたちいさな町や村に足を伸ばし、歴史や文化、環境との接点が多くなる。また、そこにある旅籠や温泉宿に宿泊し、のんびり地元の食材を使った料理に舌づつみをうつ楽しみも増えるだろう。

 現状がどうかと言えば、下図にあるように上信越自動車道には横川サービスエリア(SA)はあるもののランプはない。その結果、高速の長野道は横川駅の「アプトの道」の起点近くを通りながらアクセスできない。きわめておかしなことだ。





 具体的には上信越自動車道の横川SAから一般道に車が出られるようにすればよい。すでに同じ上信越道の佐久平SAでサービスエリアから一般道に出る方策がとられている。ぜひ、実現してほしい!
 
 小さいことかも知れないが、高速道路のランプや鉄道の駅をつくることひとつをとってみてもそれは「歴史」や「文化」的配慮なしに考えられないのではなかろうか。

つづく