Memorandom 1.シルクロードの中央アジアの交易点 ウズベキスタン・サマルカンド Samarkand, Uzbekistan 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年1月19日 独立系メディア E−wave Tokyo |
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サマルカンド市の市章 ウズベキスタンの国章 この2015年2月から中央アジア諸国を現地視察します。 中央アジアと言えば、すぐに思いつくのはシルクロードの中心地、そしてティモール朝です。 以下はウズベキスタン政府観光局の公式Webに見る「シルクロードと世界遺産の都」です。 かつてユーラシア大陸東西貿易の重要な交通路とされてきたシルクロード。 ルートをはじめシルクロードには様々な説があり、未だ多くの学者が調査をしています。 そんな神秘的でもあり、多くの謎が隠されシルクロードの十字路とされているのが、ウズベキスタン。 「シルクロードのオアシス」とも呼ばれシルクロード沿いに成立した都市国家のウズベキスタンは、 遊牧生活が基本の周辺中央アジア諸国に比べて早い段階で定住化されました。 ウズベキスタン独特の文化と歴史深さはもちろんのこと、 シルクロードの繋がりやどこか懐かしさを感じたりもできる不思議な国。 魅力が溢れているウズベキスタンには、ヒヴァ、ブハラ、シャフリサーブス、サマルカンドの各地区がユネスコ世界文化遺産に指定されています。 そんなウズベキスタンの歴史ロマンを感じる旅行はいかがですか? さて今後、私達が視察を計画している中央アジア諸国の最初の国はティモール朝の一大拠点で有名なサマルカンドなどウズベキスタンです。 すでにビザ申請もしております。今回は敢えてサマルカンドに3泊するなど、ゆっくりしっかりと在りし日のティモール朝の史蹟、遺跡、イスラム建築物、文化を堪能してきたいと思っています。 まずシルクロードです。 シルクロード(絹の道、英語:Silk Road,ドイツ語:Seidenstrase)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称です。 絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられました。その一部が「シルクロード : 長安=天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録されています。 そのシルクロードには、中国を出て西側にはいくつかのルートがあります。そのなかに「草原の道」と「オアシスの道」があります。そのいずれも中央アジアのウズベキスタンあるいはそのすぐ北を通っています。
なお、以下は少々長文になりますが、日本ウズベキスタン協会の公式Webに見る「シルクロードへの道」の詳細です。 ◆シルクロードとは何か(参考) 太古以来、アジアとヨーロッパ、アフリカを結んできた、東西交通路に与えられた総称が、「シルクロード」、すなわち絹の道である。 「シルクロード」という言葉を初めて用いたのは、ドイツの地理学者 F. リヒトホ−フェン(1833 〜 1905 )である。リヒトホ−フェンは 19 世紀後半に中国各地を踏査し、1877 年から中国の地理に関する書物『中国』を著した。 その第 1 巻の中で、中国と西トルキスタン、および中国と西北インドとの絹貿易を取り結んだ中央アジアの交通路を「ザイデンシュトラーセン( Seidenstrassen )」と呼んだ。「シルクロード( Silk Road )」とは、その英訳である。 リヒトホ−フェンがこのように名付けた理由は、東西貿易における中国側の最も重要な交易品が絹であったことに目をつけたからだ。リヒトホ−フェンがザイデンシュトラーセンと呼んだ交通路は、西域を通る隊商路を指しており、現在考えられているシルクロードよりもずっと範囲が狭い。 後に中央アジア全域を調査したスウェーデンのスウェン・ヘディン( 1865 〜 1952 )やイギリスのオーレル・スタイン( 1862 〜 1943 )らは、この交流路が西域のオアシス地帯だけでなく、さらに西のイラン高原からイラク、シリアに出、その後、海路または陸路でローマに至っていたことに着目、中国とローマを結ぶ交易路全体をシルクロードと呼ぶようになった。 今日では、中国から中央アジア、西アジアを経てイスタンブールやローマに至る交易路全体を指し、さらにユーラシア大陸北方のステップ地帯を通る草原の道や、インド、東南アジアを迂回する海の道も加えるようになった。 つまりシルクロードは大別すると草原の道、オアシスの道、海の道の 3 つの道から成り立っているのである。しかし狭義にはシルクロードというとオアシスの道を指す場合が多い。 草原の道 南ロシアの草原地帯から、カザフ高原、天山山麓、モンゴル高原、長城地帯を結ぶ大ステップ地帯をつらぬく最も古い東西交易路。スキタイ、鮮卑、フン、アヴァ−ル、マジャール、突厥、ウイグル、モンゴルなどの遊牧騎馬民族の活躍舞台となる。 南疆鉄道(新疆ウイグル自治区) 出典:NHKBS3シルクロード アルタイ山脈(カザフスタン他) 出典:NHKBS3シルクロード イシ・ククル湖(キルギス、天山山脈) 出典:NHKBS3シルクロード 草原の道では、機動力を利用した騎馬民族が東西に移動して支配権を争うと同時に、中継貿易にも従事した。情報の収集に熱心で、積極的に新しい文化を受け入れようとした遊牧騎馬民族は、東西文化交流のうえで、直接・間接に大きな役割を果たした。スキタイ民族の金属器文化が東アジアに影響を与え、ネストリウス派のキリスト教やマニ教がトルコ系民族に伝えられたのはその例である。 スキタイ文化の東漸紀元前 8 世紀頃、南ロシアに栄えたスキタイ文化が、ステップ路を経て東漸し、モンゴル高原や華北に大きな影響を残した。紀元前 4 〜 3 世紀に、モンゴル高原には匈奴や丁零の文化がスキタイ文化の影響を受けて生まれ、やがて華北やマンチュリア(中国東北地方)、朝鮮半島に、騎馬民族文化が大きな影響を及ぼした。 オアシスの道 リヒトホ−フェンが最初に指摘した中央アジアを東西に横断する道。 中国の古都・長安(現在の西安)から、中央アジアの砂漠を通り、パミール高原を越え、西トルキスタン、イランの砂漠を経て、地中海岸に達し、ここからアナトリアを通るか、地中海経由でイスタンブールまたはローマに達する。 莫高窟(敦煌) 出典:NHKBS3シルクロード 敦煌、莫高窟の位置 出典:グーグルアース 中央アジアにはゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、カラクム砂漠、イラン砂漠など砂漠が多く、点在するオアシス都市が中継地の役割をなす。普通シルクロードというと、この道を指していう。 ベゼクリク千仏洞(新疆ウイグル自治区) 出典:NHKBS3シルクロード 新疆ウイグル自治区のベゼクリク千仏洞の位置 出典:グーグルアース アルキン(新疆ウイグル自治区) 出典:NHKBS3シルクロード タクラマカン砂漠 出典:NHKBS3シルクロード 張騫が西域事情を中国に伝えてから活発となり、唐代までの東西交渉の主幹線をなした。特に 7 〜 8 世紀にはイラン系のソグド人の貿易活動が盛んであった。 サマルカンド(ウズベキスタン) 出典:NHKBS3シルクロード サマルカンド(ウズベキスタン) 出典:NHKBS3シルクロード フンザ(パキスタン北部) 出典:NHKBS3シルクロード パキスタンのフンザの位置 出典:グーグルアース カイバル峠(アフガニスタン) 出典:NHKBS3シルクロード アフガニスタンとパキスタンの国境沿にあるカイバル峠の位置 出典:グーグルアース 古く、中国から西方へ生糸や絹が伝えられ、西方からヘレニズム文化やイラン系の文物が、インドから仏教が、おくれてイスラム教が中国に伝えられたのも主としてこの道によっている。 イスタンブール(トルコ) 出典:イスタンブール空港 4K映像 また、インドに赴いて仏教をおさめ、仏典を入手した中国僧の法顕や玄奘、中国に来たヴェネツィアの商人マルコ・ポーロ父子などもこの道を利用した。 ヴェネツィア(イタリア) 出典:青山貞一 コロッセオ(円形闘技場,ローマ、イタリア) 出典:池田こみち 海の道 紅海・アラビア海・インド洋沿岸から、マライ・スマトラ・インドシナ半島沿岸を経て中国南部に至る海上ルート。接岸航行を主としたが、危険性が高く、内陸コースより利用度が低かったと考えられる。唐とイスラム文化圏の成立以後、このルートは活発となった。15 世紀末に始まる新航路の発見以後は、一挙にメインルートの地位を占めるに至った。 マラッカ(ムラカ、マレーシア) 出典:Wikidpedia 海の道においては、南インドが貿易の重要な中心地となっており、また、マラッカ海峡・インドシナ半島東南部は航海の要衝にあたっていた。北方民族の活動によって陸上交易路が妨げられた 10 世紀(中国の宋代)以後は、ますます海の道が栄えた。 コロンボ(スリランカ) 出典:Wikidpedia 海の道によって、南方産の象牙・犀角・香辛料(とくに胡椒)などが中国やヨーロッパに運ばれ、中国からは絹・陶磁器・銅銭などが大量に南方諸国に輸出された。また、東南アジアに、インドから仏教・ヒンドゥー教が伝わり、おくれてイスラム教が広まったのも、この海の道によっている。 ウズベキスタンのシルクロード サマルカンド 天山山脈の麓に 2500 年前より東西交通の要衝として栄えたシルクロードの最重要都市である。 ウズベキスタンには、オアシスの道を結んだかつてのオアシス都市が点在しており、いまも多くの観光客がこの地を訪れている。
下はウズベキスタン大使館で頂いた資料にあるサマルカンドです。 4世紀、アレキサンダー大東の遠征がサマルカンドに到着した時、アレキサンダー大王は、聞いていた通り美しい、いやそれ以上に美しいとして、サマルカンドの町を破壊しなかったとされています。
つづく |