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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

 
嘉峪関(かよくかん)

( Yulin Caves, 甘粛省嘉峪関市)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

◆嘉峪関(かよくかん)

 以下は河西回廊における楡林窟の位置であり、嘉峪関は楡林窟から東に約250kmのところにあります。


出典:2020-01-20 NHK シルクロード・美の回廊Ⅱ「“微笑み”がきた道」


 嘉峪関(かよくかん)は中華人民共和国甘粛省嘉峪関市に位置し、万里の長城最西部に位置する関です。山海関と共に万里の長城で要衝でした。


嘉峪関(かよくかん)
Source:Wikimedia Commons
User:Doron - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1746807による

地理

 嘉峪関は甘粛省嘉峪関市の南西6kmに位置する河西回廊西寄りの最も狭隘な地にあります。そこは2つの丘に挟まれた土地で一つは嘉峪山という。城壁の一部はゴビ砂漠を横切っています。


出典:グーグルマップ

概要


万里の長城の一部
Source:Wikimedia Commons
User:Doron - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 嘉峪関は周囲733mを高さ11mの城壁に囲まれ、内域は33,500m2以上あります。

 黄土を版築でつき固めた城壁であり、西側は煉瓦を積み重ねて出来ています。東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備え、東を光化門、西を柔遠門といいます。

 西門には「嘉峪関」の扁額がかかっています。関の南北は万里の長城とつながり、城壁の隅角部には櫓が設けられています。2つの門の北側には関の最上部に上ることが出来る通路があります。嘉峪関の防御設備は大別して内郭、外郭、堀の3つとなっています。


版築(一部日干し煉瓦)による城壁
Source:Wikimedia Commons
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 万里の長城につながる関の中で唯一建設当時のまま残される建造物です。

 最東端にある山海関が「天下第一関」と称されるのに対し、嘉峪関は「天下第一雄関」といわれています。東西シルクロードの要衝の一つであり、周囲には敦煌莫高窟のような著名な史跡が存在し、多数の漆喰壁画が見つかっています。また、ここから7.5km西に万里の長城の最西端があり、目の前は断崖絶壁となっており、眼下には討籟河(とうらいがわ)が流れています。

歴史

 伝承では、嘉峪関の建設工事にあたり、設計者が算出した煉瓦の必要数量に加え予備の1枚を準備し、建設に着手した。完成時には、正確に1枚だけが余ったといいます。その煉瓦は現在門上に残され、建設の精確性をいまに伝えています。

 明初の1372年(洪武5年)に建設された後、ティムール軍に対する防衛の必要性から関の防備は強化されました。しかしティムールは東進着手前に死去し実際に攻撃されることはありませんでした。

 1495年(弘治8年) - 内城に光化楼と柔遠楼を造作し、同時に官庁、倉庫等付属建造物を修築しました。

 1539年(嘉靖18年) - 城壁上に敵楼、角楼を増築し、両翼の長城、烽火台等を修築しています。


敦煌博物館2つづく