シルクロードの今を征く Now on the Silk Road ヴェネツィア( Venezia、イタリア) カ・ドーロ( Ca' d'Oro)1 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェネツィア総合メニュー> <宮殿・邸宅2> パラッツォ・カヴァッリ=フランケッティ パラッツォ・コルネール パラッツォ・ジュスティニアン カ・ドーロ1 カ・ドーロ2 カ・レッツォーニコ1 カ・レッツォーニコ2 カ・レッツォーニコ3 カ・レッツォーニコ4 カ・ダ・モスト 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートギューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆カ・ドーロ1( Ca' d'Oro、正式にはパラッツォ・サンタ・ソフィア Palazzo Santa Sofia)) 下はグーグルマップで見たカ・ドーロ (Ca' d'Oro)の位置です。 出典:グーグルマップ 出典:グーグルマップ 下はカ・ドーロ (Ca' d'Oro)の外観です。 カナル・グランデからカ・ドーロのファサードをのぞむ Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる カ・ドーロ (Ca' d'Oro, 正式にはパラッツォ・サンタ・ソフィア Palazzo Santa Sofia)はヴェネツィアのカナル・グランデに面する邸宅であり、このうちで最も美しいものの一つといわれています。 最も古いものの一つでもあり、かつて外壁に金箔と多彩色の装飾が施されていたことから、カ・ドーロ(黄金の館)と呼ばれてきました。 歴史と経緯 邸宅は1428年から1430年にかけ、ヴェネツィア貴族コンタリーニ家のために建てられました。 コンタリーニ家は1043年から1676年までの間に8人のヴェネツィア元首(ドージェ)を輩出しています。選挙で新たに元首となった者はこの館から離れてドゥカーレ宮殿へ移り住むのが通例でした。 建築を行ったのは、ジョヴァンニ・ボンと彼の子バルトロメオ・ボンです。彫刻家・建築家であったこの2人の仕事は、ヴェネツィアにおけるゴシック様式建築の縮図となっています。 彼らはドゥカーレ宮殿の建築でもよく知られ、特に『ソロモンの審判』像のあるポルタ・デッラ・カルタ(Porta della Carta)が著名です。 1797年にヴェネツィア共和国が終焉を迎えると、カ・ドーロの所有者は数度にわたって変遷しました。19世紀の所有者の一人であるバレエダンサーのマリー・タリオーニは、中庭のゴシック様式の階段および、中庭を見下ろす華麗なバルコニーを取り除いた(今日ではこの改修は暴挙と見なされています)。 1922年、カ・ドーロは1894年から所有者であったジョルジョ・フランケッティ男爵から国家に遺譲されました。往時の華やかさを取り戻すべく大々的な修復が行われ(階段の再建も含む)、現在はギャラリーとして一般に公開されています。 様式 Galleria Ca d'Oro in Venice, Italy Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる カナル・グランデに面したカ・ドーロの主ファサードはボンによるヴェネツィア風の花模様を用いたゴシック様式で構成されています。 近隣にはこれと同様の様式のバルバーロ館とジュスティニアン館があります。この優美な線状の様式はヴェネツィアの建築家に好まれ、16世紀末まではバロック様式の勃興にも耐えて存続していました。 ヴェネツィアにおけるゴシック様式は、ビザンティン建築の影響を受けています。 カ・ドーロの地上階には列柱を有し建築線から後退したロッジアがあり、運河とエントランス・ホールを直接つないでいます。この柱廊の上部は主階(ピアノ・ノビーレ)の主サロンのバルコニーです。 このバルコニーの柱列はアーチで結ばれた柱頭を持ち、これらは繊細な四弁花上の開口の列を支えています。このバルコニー上部にはさらにもう一層、やや軽やかながら共通したデザインのバルコニー(もしくはロッジア)があります。この館の建築様式を端的に表現するならば、「中世の教会とムーア風の神殿の融合」といった趣きです。 華麗な外装は、この邸宅が多くの邸宅と同様に小さな中庭を囲んで建っているということを全く感じさせません。 カ・ドーロ2 につづく |