シルクロードの今を征く Now on the Silk Road ヴェネツィア( Venezia、イタリア) サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)1 (Abbey of Santa Giustina in Padua) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
<ヴェネツィア総合メニュー> <教会8> サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)1 サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)2 サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)3 サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)4 サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)5 サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)6 ◆サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ、Padova)1 位置と外観 以下はグーグルマップでみたサンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ、Padova)の位置です。ヴェネツィアの西にあります。ヴェネツィア市にも同名の教会がありますが、ここで紹介するのはパドヴァ市にあるベネディクト派の修道院であり大聖堂です。 出典:グーグルマップ 出典:グーグルマップ 出典:グーグル・ストリートビュー 出典:グーグル・ストリートビュー 出典:グーグル・ストリートビュー 外観 下は正面から見たサンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)の外観です。 これはサンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ市) Abbey of Santa Giustina in Padua Italy. Source:Wikimedia Commons Abbey of Santa Giustina in Padua - view from Prato della Valle Source:Wikimedia Commons ンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ市)の鐘楼 北イタリアで最も美しい鐘楼といわれています。 Source:Wikimedia Commons 下はパドヴァの教会周辺の景観です。 View Prato della Valle in Padua. View on the channel that include the isle (Isola Memmia Source:Wikimedia Commons パドヴァ( Padova)は、イタリア共和国ヴェネト州にある都市で、その周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)です。パドヴ市はパドヴァ県の県都であり経済・通信の中心地です。パドヴァ( Padova)には、サンタ・ジュスティーナ教会はじめパードヴァのドゥオーモ、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂など、多数の著名なカソリック寺院があります。 またパドヴァ大学はコペルニクス、ガリレオ・ガリレイはじめ多くの時代を画した著名な科学者、医学者、社会科学者、人文科学者を輩出しています。 以下はパドバのサンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ)の概要について紹介します。 概要 パドヴァ - サンタジュスティーナ像 StatueSanta Source:Wikimedia Commons サンタ・ジュスティーナ教会(Chiesa di Santa Giustina)は、ヴェネツィア市のすぐ西側にあるパドヴァ(Padova)市の中心にあります。 サンタ・ジュスティーナ大聖堂・教会はベネディクト派の修道院であり、プラート・デッラ・ヴァッレ(Prato della Valle)に面しておりその歴史は10世紀に遡ります。 修道院は、サンタ・ジュスティーナ教会に付属しており教会は、6世紀に建設されました。現在の建物の形状は17世紀のものです。 修道院は、パドヴァの聖ジュスティナ遺品物(304年10月7日)とまちのそのほかのキリスト教殉教者の遺跡を収容するために、520年代にオピリオス県によって建てられた大聖堂に付属してしています。 豪華な装飾が施された建物は、詩人ヴェナンティウス・フォルトゥナトゥス(Venantius Fortunatus)が565年に書いた「聖マルティヌスの生涯(Life of St. Martin)」に記述がありあす。10世紀まで、教会に集められた聖人やその遺品物を礼拝するために大聖堂を訪れた多くの巡礼者たちに奉仕してきた修道院共同体を、最終的に聖ベネディクト(派)の管理下に置くことを971年にパドヴァの司教が決定しました。 その時点で修道院は、大聖堂の改装に取りかかることになりました。この作業の過程で、1052年8月2日に、証聖者聖マクシモス(Maximus the Confessor)、パドヴァの聖フェリシタス(Felicitas of Padua)、看護者聖ジュリアン(Julian the Hospitaller)、そして聖なる幼子殉教者(Holy Innocents)として特定されたものを含む様々な聖人の遺品跡が発見されました。 1110年に神聖ローマ皇帝ヘンリー5世は、修道院の修道士たちが教皇パスカル2世に忠誠を誓ったことを罰するため、彼の軍隊がロンバルディアに侵攻する途 中に襲撃され破壊されました。 大聖堂の建物群は1117年に、イタリア北部とドイツ全体に大打撃を与えた非常に強い地震によって荒廃しました。大聖堂と修道院が再建された後、発掘調査が再開され、1174年に修道院の後援者の遺跡跡が発見されました。その中には、1177年に福音書記者聖ルカのものと判明したものも含まれていました。 修道院のコミュニティにおける生活様式をみると、衰退の時代が始まっていることがわかります。同じ頃、修道士たちはリメナのアーノルド(Arnoldo ofLimena)のような崇高な修道院長によって導かれました。彼は、君主エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ(Ezzelino III da Romano)に投獄されている間に死去し、その名誉はプルシアのニコラス(Nicholas of Prussia)と同様に「祝福」されるべきであるとして、讃えられています。 しかしながら、修道院はルドヴィコ・バァルボ(Ludovico Barbo)の指導の下でその影響は頂点に達しました。彼は、修道士ではなく正規の司祭であるにもかかわらず、修道院で修道院生活の改革を行うために司教によって修道院長に任命されました。 彼は成功し、修道院はサンタ・ジュスティーナの会衆の核となり、サンタ・ジュスティーナ修道院の指導の下に集まったヨーロッパ中の修道院を含めて拡大していきました。会衆は後にカッシーナ会衆と呼ばれるようになりました。修道院は、大陸全体の学習の中心地との関係を発展させていくこととなりま す。 Padova - Santa Giustina - Mantegna - San Luca Evangelista (copia) Source:Wikimedia Commons 1797年、修道院の生活は終わりを迎えました。それは他のすべての宗教共同体と同様に、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス革命軍によってイタリアが占領され、チザルピーナ共和国(Repubblica Cisalpina)がを設立されたしたことによって抑圧されることになります。 注)チザルピーナ共和国(Wikipedia) 1797年から1802年までイタリア北部に存在したフランスの衛星国である。1802年にイタリア共和国と改称。1805年にイタリア王国へ移行した。国名は古代ローマ時代の北部イタリアの呼称、ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリア)に由来する。 修道院や教会にあった芸術作品とその貴重な所蔵品のコレクションは占領軍によってパリに送られました。1810年、修道士たちは追放され、建物や財産は売り払われました。その後、修道院の回廊は軍病院として使用され、後に兵舎として使用されました。 建物は1917年にカトリック教会に戻され、教皇ベネディクト15世は、すべての古来からの権限と特権をもって修道院を再建しました。彼はそれを近くのテオーロ(Teolo)の町にあるプラグリア修道院(Praglia Abbey)の下に置きました。 1942年11月1日に、このコミュニティは1943年1月22日から独自の修道院として設立された自治修道院となることが宣言されました。大聖堂と修道院は現在、国家遺跡としての地位を与えられ、市民遺産と祈念碑管理局の管理の下に置かれました。 内装 サンタ・ジュスティーナ大聖堂・教会の内装 Source:Wikimedia Commons Sacello di San Prosdocimoのドーム Source:Wikimedia Commons 建物は東から西に伸びるラテン十字架です。サンタ・ジュスティーナ大聖堂は、長さ118.5メートル(389フィート)、幅82メートル(269フィート)の広さを誇り、イタリアで7番目に大きい教会となっています。建物の壮大さは、プラト・デッラ・ヴァーレ(Prato della Valle)から見上げることによってさらに強調されます。 主な礼拝堂は3つあります。聖歌隊のための内陣、そして聖ルカと聖マテオのための2つの礼拝堂(チャペル)が翼廊となっています。それぞれ半円形の後陣(アスプ)を持ち、2つのチャペルによって挟まれる形になっています。 各通路には、正方形で平面の6つの小さな礼拝堂が備えられています。 屋根のドームを支える26本の柱は、それぞれが、直接ドームの半円筒天井に接着固定されています。中央礼拝堂は、鉛で覆われた8つの丸天井(ドーム)で覆われています。 中央の1つはランタン付きで、高さは約70メートル(230フィート)で、一番上には、高さ約5メートル(16フィート)のサンタ・ジュスティーナの銅像があります。大聖堂の床は黄色、白、赤の大理石の幾何学模様で1608年から1615年の間に造られました。大聖堂オピリオーネからは、多くのギリシャの大理石の石片が見いだされています。 注)ラテン十字とは(Wikipedia) ラテン十字は、ギリシャ十字と並んでキリスト教で最も頻繁に用いられる十字の一つ。主に西方教会を中心に用いられることから「ラテン十字」もしくは「ローマ十字」の名があるが、東方教会でも用いられる。 縦長に構成され、横木が軸木のやや上方に付けられている。 Padova, chiesa di Santa Giustina, interno, navata laterale Source:Wikimedia Commons 身廊の左側 サン・ジャコモ礼拝堂(Capella di San Giacomo) 最初の礼拝堂は聖小ヤコブ(St.James the Less)に捧げられています。祭壇は17世紀のコルバレッリ(Corbarelli)家のスタイルの多色石で作られています。 白い大理石の祭壇画は、カルロ・カリアリ(Carlo Caliari)によるもので、キャンバスに殉教者聖ヨハネの油絵が描かれています。 Chapel of St. James the Less 聖小ヤコブの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Altar in polychrome stones 多色彩大理石の祭壇 Source:Wikimedia Commons Martyrdom of St. James the Less by Carlo Caliari カルロ・カリアリ(Carlo・Caliari)による聖ヤコブの殉教 Source:Wikimedia Commons 聖グレゴリオ・マグノ礼拝堂(Capella di San Gregorio Magno) 第二礼拝堂は、20世紀のカルバレッリ(Corbarelli)家好みの多色鉱物細工でできた祭壇があり、教皇グレゴリー1世に捧げられています。祭壇の石は、アフリカとカララ白から緑の大理石で建てられています。 絵はをセバスティアーノ・リッチ(Sebastiano Ricci)による油絵で、18世紀の初めにローマでのペストの収束のために聖母を呼び出す教皇グレゴリー1世の姿を描いたものです。リッチの絵は、「間違っていた」とされたカルロ・チニャーニ(Carlo Cignani)による最初の絵に替わって描かれたものでした。 Chapel to Pope Gregory I 教皇グレゴリオ1世に捧げる礼拝 Source:Wikimedia Commons Altar in polychrome stones 多色彩大理石による祭壇 Source:Wikimedia Commons Pope Gregory I who invokes the Virgin Sebastiano Ricci セヴァスティアノ・リッチによる教皇グレゴリー1世が聖マリアに呼びかける図 Source:Wikimedia Commons サン・ダニエレ・レヴィタ礼拝堂(Cappella di san Daniele Levita) 第三礼拝堂はパドヴァのダニエル(Daniele)に捧げられています。祭壇の建築は、フランス産の赤い大理石と、カララとパドヴァの大理石を使用しています。 祭壇画の絵はイタリアの画家アントニオ・(Antonio Zanchi:1677)によるもので、殉教者聖ダニエルを描いています。祭壇はコルバレッリ(Corbarelli)兄弟の作品です。 Chapel of St. Daniel of Padua パドヴァの聖ダニエルの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Martyrdom of Saint Daniel by Antonio Zanchi アントニオ・ザンチによる聖ダニエルの殉教 Source:Wikimedia Commons 聖プラシド礼拝堂(Cappella di san Palcidu) 第四の礼拝堂は聖パルシド(Palcidus)殉教者に捧げられています。聖モーラスの祭壇に似ています。 祭壇画は、ルカ・ジョルダーノ(Luca Giordano)によるキャンバス油絵で、1676年聖パルシドとその仲間の殉教を描いています。祭壇の裏側には多色の石が敷き詰められたコルバレリ家の洗練された装飾に注目して下さい。 Chapel of St. Placidu 聖プラシドの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons The martyrdom of Saint Placide and his companions by Luca Giordano ルッカ・ジョルダーノによる「聖プラシドとその仲間たちの殉教」 Source:Wikimedia Commons 聖マウロ/マウルス礼拝堂(Cappella di san Mauro) 第五礼拝堂は聖マウロに捧げられています。祭壇全体の石はジェノヴァからの白黒大理石で、祭壇は緑の大理石、ジェノヴァの大理石、フランスの赤い大理石から造られています。ヴァレンティン・ル・フェーブル(Valentin Le Febvre)による「病人に呼び出された聖マウロ」(1673)を描いた祭壇画があります。 Chapel of Saint Maurus 聖聖マウロ/マウルス礼拝堂 Source:Wikimedia Commons "Saint Maurus invoked by the sick" by Valentin Le Febre ヴァレンティン・ル・フェブルによる「病人に呼び出される聖マウロ」 Source:Wikimedia Commons 殉教者ジュリアーノ礼拝堂(Cappella di Giuliano martire) 第六礼拝堂は聖ジュリアーノに捧げられています。祭壇には聖ジュリアーノの墓があり、棺の頭部に置かれた聖人の像ともに、ジョバンニ・コミン(GiovanniComin:1680)の作品です。聖人アンドレとマテオ(Saints Andrew and Matthew)の美しい彫像を含むその他の彫刻の装飾は、ベルナルド・ファルコーネ(Bernardo Falcone)による作品です。 Chapel of Saint Julian 聖ジュリアーノの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons 聖フェリシタ礼拝堂(Cappella di santa Felicita) 身廊の左側にある第七番目と最後の礼拝堂は、聖フェリシタに捧げられています。礼拝堂は、1502年にパドヴァの聖プロズドチモ(Prosdocime)礼拝堂で発見された、聖人の遺品を含む骨董品が納められた記念すべき祭壇を収容しています。 彫刻は彫刻家オラツィオ・マリナーリ(Orazio Marinali)によるもので、フランスからの白と赤の大理石を用いています。祈っている聖人の像は骨壺の上に、脇には、2人の天使と聖マルコと聖サイモンの像が置かれています。祭壇は非常に洗練されたもので、コルバレッリ(Corbarelli)兄弟によって装飾されており、噴水、庭園と大聖堂の未完成のファサードを表現しています。 Chapel of Saint Felicity 聖フェリシタ礼拝堂 Source:Wikimedia Commons 左の翼廊 聖ルカ礼拝堂 広大な礼拝堂は第二バチカン公会議の年に行われた典礼に対応できるように再編成されました。中心部には聖ルカ福音伝道者の遺跡がある記念碑があります。 ガルペリーノ・ムッサート大修道院長(Abbot Gualpertino Mussato)が依頼した1313年のピサノ - ベネチアン派の非常に注意深い仕事で、元々は1562年に古いゴシック様式の礼拝堂として建てられました。記念碑はヴェロナの蛇紋岩と大理石で作られています。それは聖人にまつわるシンボルと天使を描いた浅浮き彫りを施した8つの雪花石膏(アラバスター)の板で装飾されています。 全体が2つの花崗岩の柱と2つの雪花石膏の螺旋柱の上にあり、中心はカリアティード(女人像柱)の天使像を彫ったギリシャ大理石が全体を支えています。現在、16世紀の祭壇は、遺跡の基準時間を示すものとして、別のものに置き換えています。その回りにはぐるりと、現代的で議論の余地がある聖歌隊席となっています。 Chapel of Saint Luke 聖ルカ礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Altar and Reliquary of St. Luke the Evangelist 福音伝道者聖ルカの祭壇と聖骨箱(棺) Source:Wikimedia Commons Reliquary of St. Luke the Evangelist and transept organ 福音伝道者聖ルカの聖骨箱と翼廊のオルガン Source:Wikimedia Commons Reliquary of St. Luke the Evangelist (rear) 福音伝道者聖ルカの聖骨箱(後部) Source:Wikimedia Commons The old cage of St Luke ルカの古い篭 Source:Wikimedia Commons Madonna of Constantinople Sixteenth-century version コンスタンティノープルのマドンナ 16世紀の作品 Source:Wikimedia Commons ''Madonna of Constantinople original version コンスタンティノープルのマドンナ オリジナル Source:Wikimedia Commons 一番上には、「Virgin Salus Populi Patavini Constantinople(ラテン語)」の16世紀版-アレッサンドロ・ボンヴィチーノ(Alessandro Bonvicino)によるもの-が設置されています。その額は、ハムレット・サルトリ(Hamlet Sartori:1960- 1961)による青銅製の天使たちによって支えられています。 原作のビザンチン時代のアイコンは、伝説によると、聖ルカによって描かれ、コンスタンティノープルの因習を打破する怒りから救うためにパドヴァにもちこまれたものであるとされており、今日では、修道院の神聖な場所となっています。 ビート・アルナルド・ダ・リメナ礼拝堂(Capella Beato Arnaldo da Limena) この礼拝堂は、祝福されたアルノー・カタネオ(アルナルド・ダ・リメナ)に捧げられています。祭壇は、1681年にベルナルド・ファルコーネが天使のグループと祝福されたアーノルド・デ・リメナの遺品を収容している骨壷の上に置かれた像を授与した際に建てられたものです。聖者ペテロと聖パウロの側面の像は、オラツィオ・マリナーリ(Orazio Marinali)とミケーレ・ファブリス(MicheleFabris)の作品です。祭壇の多色石による寄木細工の仕事はコルバレッリ(Corbarelli)家の仕事です。 右側の大きな壁には、アントニオ・バレストラ(Antonio Balestra)による素晴らしいキャンバス画があります。それは、1718年の「聖コスマスと聖ダミアヌスの殉教」を描いた作品です。 反対側の左側の壁には、16世紀半ばに署名されたセヴァスティアーノ・ガルヴァーノ(Sebastiano Galvano)による「幼子殉教者」。 最初、この作品は聖ベネデット・ノヴェル(San Benedetto Novello)の教会にありました。 Martyrdom of Saints Cosmas and Damian by Antonio Balestra アントニオ・バレストラによる「聖コスマスとダミアヌスの殉教」 Source:Wikimedia Commons Massacre of the Innocents by Sebastiano Galvano セバスティアーノ・ガルヴァーノによる「無垢の幼子の虐殺」 Source:Wikimedia Commons Chapel to Blessed Arnaud Cataneo (Arnaldo da Limena) 祝福されたアーナウド・カタネ(アルナルド・ダ・リメナ)の礼拝堂 Source:Wikimedia Commons 聖歌隊席 御聖体の礼拝堂(La cappella del Santissimo Sacramento) この礼拝堂は御聖体(ブレスト・サクラメント:Blessed Sacramento)に捧げられています。御聖体を祀る前は、礼拝堂は幼児殉教者たちの遺物を奉納していました。天井には、天使と使徒たちが祝福された御聖体を崇拝している様子を描いたフレスコ画が飾られています。その作品は1700年頃に製作されたもので、バスティアーノ・リッチ(Sebastiano Ricci)によるものです。 その絵は、トロンプ・ルイユ(Trompe-l'oeil、騙し絵)の使っていることが特徴です。祭壇の上の丸天井には、使徒たちに先導された永遠なる父(神)が礼拝堂の壁の上に居られるかのように目一杯に描かれ、御聖体が大勢の天使たちによって勝ち誇ったように運ばれて来る様子が描かれています。 祭壇は17世紀の40年代に数回に分けて作られた作品です。デザインは、1956年頃に、ロレンツォ・ベドーニ(Lorenzo Bedogni)とピエトロ・パオロ・コルバレッリ(Pietro Paolo Corbarelli)、そしてその息子のシモーネ(Simone)、アントニオ(Antonio)、フランチェスコ(Francesco)によるものです。 幕屋の青銅製の彫像をカルロ・トラブコ(Carlo Trabucco:1697年)に命じてつくらせている間、祭壇は1674年までに、ジュゼッペ・サルディ(GiuseppeSardi)とジョセ・ザ・コート(Josse the Court)によって完成されました。他の彫刻はミケーレ(Michele)とアレッサンドロ・ファブリス・トレミニョン(Alessandro Fabris Tremignon)によるものです。 Chapel of the Blessed Sacrament 御聖体の礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Chapel to the Blessed Sacrament - Altar 御聖体の礼拝堂−祭壇 Source:Wikimedia Commons Chapel to the Blessed Sacrament - Ceiling 御聖体の礼拝堂−天井画 Source:Wikimedia Commons 聖歌隊席(クワイヤー席) 聖歌隊席は、建物の他の部分に比べて高くなっており、堂々とした階段から入るようになっています。下は大きな地下室で、今では、冬の礼拝堂となっています。手すりはフランチェスコ・コンチチ(Francesco Contini:1630)の作品です。 両側面上部の壁龕(ニッチ)の内部には、2体の胸像があります。これらは、申し分なく2人のローマの貴族ヴィタリアーノ(Vitaliano)(右)とオピリオーネ(Opilione)(左)を描いたもので、1561年のジョバンニ・フランチェスコ・デ・スルディス(GiovanniFrancesco de Surdis)の作品です。 Choir and High Altar 聖歌隊席と主祭壇 Source:Wikimedia Commons 主祭壇 真珠層、サンゴ、ラピスラズリ、カーネリアン、パール、その他の貴重な素材が配置されている大理石の細かい象嵌を組み合わせた「フィレンツェ風」で装飾されています。 この繊細な作業は、1637年から1643年の間に、有名なマッテオ・ニゲッティ(Matteo Nigetti)の兄弟であるジョバンニ・バチスタ・ニゲッチ(Giovan Battista Nigetti)が設計し、ピエトロ・パオロ・コルバレッリ(Pietro Paolo Corbarelli)によって行われたものです。1627年10月7日、荘厳に、聖ジャスティン(サンタ・ジュスティーナ)の遺体が祭壇の下に安置されました。1576年には、祭壇画のとしてキャンバス油絵、「殉教者聖ジャスティン」がパオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)によって描かれました。 High Altar 主祭壇 Source:Wikimedia Commons The martyrdom of Saint Justine by Veronese ヴェロネーゼによる聖ジャスティンの殉教 Source:Wikimedia Commons ピエタの礼拝堂(Cappella della Pieta ) この礼拝堂は1689年のジェノバの芸術家フィリッポ・パロディ(FilippoParodi)の作品です。芸術家は漆喰の天使の群衆で飾られた天井を含む建築、装飾、そして彫刻のデザインを担当しました。中央にはピエタがあり、マグダラのマリア(Mary Magdalene)と使徒ヨハネの二体の彫像に囲まれています。 Chapel of La Pieta ピエタの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Pieta by Filippo Parodi フィリッポ・パロディによるピエタ Source:Wikimedia Commons Celling (ピエタの礼拝堂の)天井 Source:Wikimedia Commons 右の翼廊(袖廊) パドヴァの聖マキシム礼拝堂(Chapel of Saint Maxime of Padua) 祭壇にはパドヴァの第二司教、聖マキシム(Saint Maximus)の遺品が入った墓があります。一群の彫像は:聖マキシム、ビショップと聖ジャックの紋章を握る天使たち、そして聖ヤコブ(St.Jacques)はミシェル・ファブリス(Michele Fabris:1681)の作品であり、聖バーソロミュー(St. Bartholomew)の像はベルナルド・ファルコーネ(Bernardo Falcone:1682)の作品です。多色石の寄木細工の祭壇は、コルバレッリ(Corbarelli)家の作品です。 Chapel of saint Maximus of Padu パドヴァの聖マキシム礼拝堂 Source:Wikimedia Commons 聖マティアス礼拝堂(Chapel of Saint Matthias) 右側には、2つの堂々とした絵画があります。右側には、バッティスタ・ビスソニ(Battista Bissoni) の「使徒の使命」(1631)( The mission of the Apostles :1631)とアントニオ・バレストラ(Antonio Balestra)による「聖コスマスと聖ダミアンが天使に救われる」(1718)の2作があります。 絵画の下には、17世紀に造られた告白台と説教壇があります。礼拝堂の一番下には、使徒聖マティアスの遺体が置かれているギリシャとアフリカの大理石の慰霊碑遺跡があります。この作品は、前方にある聖ルカの墓の遺跡から発想を得ています。 それは1562年に使徒を表す浅浮き彫りを彫ったGiovanni Francesco de Surdisによって完成されました。箱舟の向こうには、殉教者の部屋に通じる扉が開いています。15世紀の丸天井はルネッサンス様式で装飾されています。浅浮き彫りはバルトロメオ・ベラーノ(Bartolomeo Bellano)の円?聖母子(circle of Bartolomeo Bellano)に由来しています。緻密で豪華な鉄細工部分を有する小さな雪花石膏(アラバスター)製の拝殿には聖母マリアが描かれています。 Chapel of Saint Matthia 聖マティアス礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Saints Cosmas and Damian saved by the angel (1718) Antonio Balestra 「聖コスマスと聖ダミアンが天使に救われる」(1718)アントニオ・バレストラ Source:Wikimedia Commons The mission of the Apostles (1631) Battista Bissoni 使徒の使命(1631)バッティスタ・ビッソーニ Source:Wikimedia Commons Tomb of Saint Matthias 聖マティアスの墓 Source:Wikimedia Commons 殉教者の廊下(Il Corridoio dei Martiri) 右の翼廊から入ることができます。1564年に中世の古代修道院教会の廃墟の上に建てられたもので、それはパドヴァの聖プロズドチモ(Prosdocime)の聖域への通過が可能なように設計されました。 16世紀と17世紀に設計された廊下は逆アーチ型で、中央にはジャコモ・セルッティ(Giacomo Ceruti)のフレスコ画で飾られたドームで覆われた八角形の空間があります。 中心部には殉教者たちの井戸があります:1565年に修道院長アンジェロ・サングリーノ(Angelo Sangrino )の命令で建てられた中世の井戸の上(まだ地下に見えます)は、元の大聖堂の身廊の真ん中にありました。 ヴェローナ大理石と雪花石膏の八角形の大理石は、きちんと機能しています。1269年にここで祝福されたジャコマ(Blessed Giacoma)によって発見されたディオクレティアヌス時代の殉教者の骨を格子で下から見ることができます。 西の隅には、6世紀のオピオーネ大聖堂の床を飾ったモザイク装飾の一部がまだ見えています。下部には、ピエトロ・ダミニ(Pietro Damini)による絵画が描かれた16世紀の祭壇があります。 殉教者たちの井戸の発見と12人のろうそくの奇跡的な力は、芸術家の最高の作品の一つです。また目に見えるのは、聖ルカの遺跡を含む中世にさかのぼる大きな鉄の檻です。ペテロとパウロの二つの聖人像は、フランチェスコ・セガラ(Francesco Segala)の作品です。 The corridor of the martyrs 殉教者の廊下 Source:Wikimedia Commons The well of the Martyr 殉教者の井戸 Source:Wikimedia Commons Fresco by Giacomo Ceruti ジャコモ・セルッティによるフレスコ画 Source:Wikimedia Commons Altar with The discovery of the well of martyrs by Pietro Damini ピエトロ・ダミニによる殉教者の井戸の発見と祭壇 Source:Wikimedia Commons プロズドチモの聖なる場所 プロズドチモの聖なる場所(The sanctuary of Prosdocimus) 殉教者の廊下に続くのは、パドヴァのプロズドチモ(Prosdocimus)の聖域またはサンタ・マリアの聖域です。ヴェネトで最も古い建物の一つであり、6世紀のものです。それは、オピリオーネ大聖堂で唯一、保存された遺跡です。もともとこの礼拝堂は、遺品の保存のために捧げられたものでした。 空間はギリシャ十字を平面上に設計したもので、元のモザイク装飾に代わるものとして16世紀にグロテスクにペイントされたドームに設けられた非常にエレガントな日よけ用天幕を特徴としています。それはパドヴァの初代の司教の埋葬地でもあり、その最初の遺体も含めパドヴァの聖プロズドチモの遺体は、1564年に造られた祭壇の中に眠っています。 棺は、右側(後陣との関係で)に置かれているローマの石棺で造られています。祭壇の上には、5世紀に遡るローマ時代の貴族であったパドヴァの聖プロズドチモを描いた浅浮き彫りが施されています。後陣の前には、ギリシャ大理石で造られたパーゴラ(四阿)があり、それは、当初のイコノスタス(聖障:聖所と至聖所を区切る、イコンで覆われた壁)の位置がそのまま保持された6世紀の驚くべき作品です。 小さなエントランスホールの壁に沿って、12世紀からのフレスコ画の残骸、16世紀からの装飾品などが並びます。大聖堂オピリオニアの扉に設けられたティンパヌム*は、6世紀の作品です。 ※ティンパヌム 建物入口上にあり、まぐさとアーチによって区画された装飾的な壁面のことで、半円形か三角形をしている。しばしば彫刻などによって飾られている。ギリシャ・キリスト教建築においては、ティンパヌムには宗教的情景が描かれているのが通例である。 The sanctuary of Prosdocimus 聖プロズドチモの聖域(聖なる場所) Source:Wikimedia Commons Bas-relief depicting St Prosdocime from the 5th century 5世紀以降の聖プロズドチモを描いた浅浮き彫り Source:Wikimedia Commons Tomb of Saint Prosdocimus 聖プロズドチモの墓 Source:Wikimedia Commons The tympanum of the door of the basilica opilionea of the sixth century 16世紀のオピリオニア大聖堂の扉のティンパヌム Source:Wikimedia Commons 身廊の右側 聖ウーリオ礼拝堂(Chapel of sant'Urio) 祭壇(1682年)の上に置かれた弓形の部分にはコンスタンティノープルの聖使徒教会の守護司祭であったウーリオの遺品が納められています。ウーリオは、パタウィウム(Patavium:パドゥバの古称)に至るまで、聖ルカ、聖マテオそして、聖像製造破壊(偶像破壊)の対象となった聖母マリアのイコンなどすべてを保存してきました。 聖ウーリオ(Sant'Urio)の像、天使たちの像、そして聖人のトーマス(Thomas)とタダイ(Thaddeus)はベルナルド・ファルコーネ(Bernardo Falcone)によるものです。多色石の寄木細工の仕事はコルバレッリ(Corbarelli)によるものです。 Chapel of sant'Urio 聖ウーリオの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons 無辜の幼児殉教者のための礼拝堂(Chapel of the Holy Innocents) 17世紀前半に建てられたこの礼拝堂は、もともとは聖餐式の秘跡のために使われていたものが、後陣の礼拝堂のひとつに移されました。現在の様相は、幼児殉教者(Saints Innocents)(ヘロデの3人の犠牲者の遺跡)の遺物のための聖域で1675年からのものです。 ? Chapel of the Holy Innocents Source:Wikimedia Commons 聖ベネディクト礼拝堂(Chapel of Saint Benedict) 祭壇は、ジェノヴァの黒と白の大理石を用いて造られています。祭壇のテーブルには、若い方のパルマ(Palma the Younger)により、聖ベネディクトが聖プラシドと聖マウロを迎える様子が描かれています。 Chapel of Saint Benedict 聖ベネディクト礼拝堂 Source:Wikimedia Commons St. Benedict welcomes his disciples, Maurus and Placidus 弟子の聖マウロとプラシドを迎える聖ベネディクト Source:Wikimedia Commons 聖スコラスティカ礼拝堂(Chapel of Saint Scholastica) 祭壇を支える柱は、(ロンバルディア地方の)サロの大理石で造られています。祭壇の石に描かれた絵は、「聖スコラスティカの死」を描いたもので、1674年にルカ・ジョルダーノ(Luca Giordano)によるものです。 Chapel of Saint Scholastica 聖スコラスティカの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Death of St. Scholastica by Luca Giordano ルッカ・ジョルダーノによる聖スコラスティカの死 Source:Wikimedia Commons 聖ジェラルド・サグレド礼拝堂(Chapel of saint Gerard Sagredo) "聖ラケルの混乱(The disarray of Santa Rachel)"はジョバンニ・コミン(Giovanni Comin:1690)の作品です。二人の聖人:小ヤコブ(James the Minor)と聖ヨハネはミケーレ・ファブリス(Michele Fabris)による作品です。多色石の寄木細工の仕事はコルバレッリ(Corbarelli)によるものです。 聖ジェラルド・サグレド礼拝堂(Chapel of saint Gerard Sagredo) ヨハン・カール・ロス(Johann Carl Loth)による1674年の祭壇画は、「聖ジェラルド・サグレドの殉教」を表しています。 Chapel of saint Gerard Sagredo 聖ジェラルド・サグレドの礼拝堂 Source:Wikimedia Commons Martyrdom of St. Gerard by Carlo Loth カルロ・ロスによる聖ジェラルドの殉教 Source:Wikimedia Commons 聖ゲトルデの礼拝堂(Chapel of saint Getrude) ピエトロ・リベリ(Pietro Liberi)による「恍惚の聖ゲトルデ(Gertrude)」 の祭壇画 Ecstasy of St. Gertrude by Pietro Liberi ピエトロ・リベリによる恍惚の聖ゲルトルード Source:Wikimedia Commons 聖パウロの回心の礼拝堂(Chaeple of the conversion of St. Paul) 祭壇のテーブルはパオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)が学生と協働で作成したものであり、「聖パウロの回心」を表現しています。左の壁には、三日月型のキャンバス画に同じ主題が描かれています。この作品は、以前、テレサ教会(Chiesa delle Terese)にあったもので、ガスパーレ・ジツィアーニ(GaspareDiziani)によるものです。 Conversion of St. Paul by Gaspare Diziani パオロ・ヴェロネーズの聖パウロの回心 Source:Wikimedia Commons Conversion of St. Paul by Paolo Veronese パオロ・ヴェロネーズの聖パウロの回心 Source:Wikimedia Commons |