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家康の母(於大の方)の菩提寺

小石川の伝通院

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

April 25 2015
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歴代徳川将軍家家系


 2015年4月25日(土)、青山貞一、池田こみちで東京都文京区小石川にあります伝通院を現地視察しました。

 場所は都営地下鉄三田線春日駅・東京メトロ南北線・丸ノ内線後楽園駅を下車して徒歩約10分です。拝観時間は10:00〜17:00。拝観料は無料となっています。

 下のグーグルマップにあるように、都営三田線の春日あるいは南北線・丸ノ内線の後楽園から徒歩で10分ほどのところにあります。地図の右下が文京シビックセンター、文京区役所となります。


出典:グーグルマップ

 伝通院(傳通院)は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある仏教浄土宗の寺です。

 正式名称は、下の写真にありますように、無量山 傳通院 寿経寺といいます。また小石川 伝通院とも言われ、徳川将軍家の菩提寺となっています。江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所とも書かかれます。

 江戸には芝の増上寺、上野の寛永寺とともに、小石川の伝通院の3つの菩提寺があります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25


◆伝通院の開山

 室町時代の応永22年(1415年)秋に、浄土宗第七祖の聖冏が、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺としました。現在、この場所には徳川家康の側室茶阿の局の菩提寺・吉水山宗慶寺があります。

 開山は、弟子である聖聡(増上寺の開山上人)の切望によるものといわれています。本尊は、平安時代の僧・源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来像となっています。


再建された伝通院の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


善光寺坂から見た伝通院の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


徳川家の家紋「三ツ葉葵」

 下は山門の瓦を撮影した写真です。見ておわかりのように瓦一枚一枚に徳川家の家紋「三ツ葉葵」があります。


瓦一枚一枚に徳川家の家紋「三ツ葉葵」
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


◆将軍家の菩提寺

 慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた)が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬しました。

 その位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立しました。

 慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院としました。

 家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりでしたが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受けて、伝通院の建立を決めたといわれています。

 慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工し、観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名されました。


再建された山門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25

 下は境内にある鐘楼です。
 

鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25

 その後、伝通院は江戸幕府から寺領約600石を与えられ、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められました。その結果、伝通院は増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となったのです。

 増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称されました。

 境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされています。

 元和9年に830石に加増され、また慶長18年(1613年)には増上寺から学僧300人が移されて、関東十八檀林の上席に指定されました。伝通院は檀林(仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれています。

 正保4年(1647年)に三代将軍家光の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されてゆきました。

 享保6年(1721年)と享保10年(1725年)の2度も大火に遭っています。

 なお、伝通院の威容は、『江戸名所図会』、『無量山境内大絵図』、『東都小石川絵図』の安政4年(1857年)改訂版でも知ることができます。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたといいます。

 下は『無量山境内大絵図』に描かれた伝通院です。山門前の道を東側に行くと「慈眼院」があります。この「慈眼院」は現在もその場所にあります。


『無量山境内大絵図』に描かれた伝通院


「江戸名所図会」 伝通院 大黒天 念仏堂

 幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の塔頭処静院(しょじょういん)で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まりました。

 当時の処静院住職・琳瑞は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われていますが、後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃されました。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったといわれています。

◆於大の方
 (おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日))

 於大の方は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。松平広忠の正室で、
徳川家康の母親でもあります。

 晩年は伝通院と称しました。実名は「大」、または「太」「たい」と言います。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としています。


阿久比町立図書館所蔵「於大の方」絵画。
日本美術院院友安沢阿弥作『母情仏心』。

生涯

 享禄元年(1528年)、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた(青山政信の娘で忠政の養女であったという説もあります)。

 父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を出産しました。

 しかし忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文14年(1544年)に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁され、実家・水野氏の三河国刈谷城(刈谷市)に返されました。

 於大は天文17年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁しています。これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていましたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で帰趨が定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられています。

 俊勝との間には三男三女をもうけています。また、この間にも家康と音信を絶えず取り続けています。

 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えました。

 於大は俊勝の死後、剃髪して伝通院と号しました。

 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後、子の松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上しましたが、強く反対し、家康に断念させています。

 慶長7年(1602年)には、高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示しました。同年、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去しています。

 遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬されました。法名は傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。菩提寺は各地に建てられています。

 なお、於大の出生地・愛知県知多郡東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催しています。

出典:Wikipedia


◆明治以降の衰勢

 明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われました。

 明治2年(1869年)に勅願寺となりますが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなりました。

 同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つ縁受院が善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっています。

 縁受院は明治17年(1884年)に善光寺と改称して現在に至っています。


◆戦災・戦後

 昭和20年(1945年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失しました。

 かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。昭和24年(1949年)に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建されたものです。平成24年(2012年)3月には山門が再建されました。


昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建された現在の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


出典:いきいきクラブ・フォト・ニュース 2015-4-1号


出典:いきいきクラブ・フォト・ニュース 2015-4-1号


つづく