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家康の母(於大の方)の菩提寺

「伝通院」に埋葬された人々

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

April 25 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
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歴代徳川将軍家家系


 徳川将軍家の江戸三大菩提寺となっていた伝通院には、芝増上寺、上野寛永寺に埋葬されなかった徳川家康の母親、於大の方はじめ徳川将軍の子女達、それに宗教関係者、文化人など多くの人々が埋葬されています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25

 下は境内の一角にありました境内・墓地参拝図です。

 この参拝図を見ると、すぐに「於大の方」はじめ千姫、亀松などの墓地に行けそうですが、実際にはなかなか容易に行けませんでした。

 何回か試行錯誤し、最終的に行くことが出来ました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


◆伝通院に埋葬された著名な人たち


(一) 於大の方 
 (おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日))
 傳通院殿蓉誉光岳智香(智光)大禅定尼。家康の母。墓は本堂の左側に五輪の大塔がある。

 於大の方は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。松平広忠の正室で、
徳川家康の母親でもあります。

 晩年は伝通院と称しました。実名は「大」、または「太」「たい」と言います。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としています。


阿久比町立図書館所蔵「於大の方」絵画。
日本美術院院友安沢阿弥作『母情仏心』。

 
なお、於大の方の詳細については前頁をご覧下さい!


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


(二)  千姫
 (1597年 - 1666年) 天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。

 千姫は、安土桃山時代から江戸時代の女性です。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院です。

 慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれます。慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入ります。

 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出されます。その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助けます。

 元和2年(1616年)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎家は改易処分となっています(千姫事件)。

出典:Wikipedia



千姫



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25

(三)  徳川亀松
 (1643年 - 1647年) 月渓院殿。3代将軍徳川家光の次男。

 徳川 亀松は、江戸時代前期の徳川氏の一族。徳川家光の4男。徳川家綱、徳川綱重の異母弟。徳川綱吉の同母兄。徳川鶴松の異母兄。生年には2説があります。

 『徳川幕府家譜』では寛永20年、江戸幕府日記』では正保2年2月29日(1645年3月26日)とあります。前者の場合は綱重より年長となるため、同史料では家光の3男とされていいます。生母は綱吉と同じ玉(桂昌院)です。生まれた年の9月11日に宮参りをするが、正保4年8月4日に5歳(または3歳)で夭逝しています。

出典:Wikipedia


(四)  鷹司孝子
 (1602年 - 1674年) 本理院殿照譽円光徹心大禅定尼。3代将軍徳川家光の正室。

 鷹司 孝子は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の正室。院号は本理院(ほんりいん)。父は鷹司信房、母は佐々成政の娘・輝子(岳星院)。兄に鷹司信尚、弟に鷹司信平(鷹司松平家の祖・松平信平)がいます。家光の息子である5代将軍徳川綱吉の正室の鷹司信子は信尚の孫であり、孝子の姪孫にあたります。

 家光との仲は結婚当初から非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無であり、結婚後程なくして事実上家光から離縁されました。大奥から追放されて称号を「御台所」から「中の丸様(中の丸殿)」と変えられ、吹上の広芝に設けられた邸宅で長期にわたる軟禁生活を送らされるなど、家光の在世中は終始忌み嫌われ、冷遇され続けました。 

 当然ながら家光との間に子供は儲けませんでした。家光が死去する際、形見分けとして孝子へ与えられたのは、金わずか50両と幾つかの道具類のみでした。また家光は家綱や綱吉たち自らの息子と孝子との養子縁組も一切結ばせなかったため、将軍家綱は家光死後より、母親に準じる手厚い庇護と敬意を孝子に贈り続けていたにもかかわらず、孝子が死去した際はその喪に服することができなかったといいます。

出典:Wikipedia


(五)  お夏の方
 (1581年 - 1660年) 於奈津、清雲院殿。家康の側室。

 順性院は、江戸幕府3代将軍徳川家光の側室。甲府宰相・徳川綱重の生母。6代将軍徳川家宣の祖母。通称はお夏の方です。父は京都の町人の弥市郎と言い、娘の夏が家光の子を出産したことで士分に出世、はじめ岡部八左衛門重家、のち藤枝重家と改名しました。

 夏は元々徳川家光の正室・鷹司孝子付の女中で「御末」という将軍お目見え以下の役職でしたが、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を任せられ、その際家光の手がつき懐妊します。

 しかし、夏が懐妊した年はちょうど家光の厄年で、家光は産まれてくる子に災厄がかからないようにと姉の天樹院(千姫)と相談し、天樹院を夏の子の養母とすることを決めました。やがて夏は天樹院の住居である竹橋御殿へと移り、正保元年5月24日(1644年6月28日)、竹橋御殿にて男児を出産しまし。

 幼名は長松(祖父・秀忠の幼名)と名付けられました。後の甲府宰相徳川綱重です。慶安4年4月20日(1651年6月8日)、家光が死去すると、夏は落飾して順性院と名乗るようになりました。順性院は天和3年7月29日(1683年9月19日)、この世を去りました。同じく家光側室だった桂昌院とは犬猿の仲だったと言われます。

出典:Wikipedia



お夏の方


初姫
 (1602年 - 1630年) 2代将軍徳川秀忠の四女。

 初姫は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。徳川秀忠の四女。小浜藩主京極忠高の正室。号は興安院。母は継室の江。忠高とは又従兄妹の関係に当たりました。徳川家光は弟にあたります。

江戸城西の丸(一説には伏見城二の丸)で誕生しています。

 慶長11年(1606年)7月に若狭小浜藩主の京極忠高の元へ嫁ぎます。忠高の父・高次の正室・初(常高院)には実子がなかったため、初の実妹・江の生んだ初姫を養女として忠高と娶わせることで、徳川家と姻戚関係を結ぶと共に、京極家での初の立場をも安泰なものにするという、一石二鳥の政略だったと思われます。

 一説には、江が伏見で女児を出産すると、祝いに訪れた初がその場でこの女児を京極家の嫁に迎えたいと懇願し、江が同意すると初はそのまま初姫と名づけたこの子を連れて帰ってしまったとも伝えられています。

 夫婦仲は悪かったらしく、2人の間に子供はおりませんでした。寛永7年(1630年)3月4日に病没、享年29。葬儀は同月14日に小石川伝通院で行われ、同地に葬られました。

 戒名は興安院殿豊誉天清陽山大姉。細川忠興が息子・忠利に送った手紙によると、初姫の臨終の時、夫・忠高はそれを無視して相撲見物に興じていたといわれています。また、初姫の葬儀を行い墓所となった伝通院は徳川氏縁の寺院であり、京極氏は葬儀への立ち会いすら秀忠や弟の家光に許可されなかったことから見て、忠高が初姫をむげに扱っていたのは事実と見て良いといえましょう。

出典:Wikipedia


(六) (七)   了誉聖冏
  (1341年 - 1420年) 浄土宗第七祖で、伝通院の開山上人。三日月上人・繊月上人ともいいます。 正誉廓山(1559年 - 1625年) 伝通院の中興第一世。増上寺の十三世。
 

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25


つづく