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家康の母(於大の方)の菩提寺

「伝通院」に埋葬された人々(つづき)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

April 25 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
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歴代徳川将軍家家系




撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


◆伝通院に埋葬された著名な人たち(つづき)

(八)  清河八郎
  (1830年 - 1863年) 幕末の勤皇志士、浪士組の創設者。首だけ埋葬。

 清河 八郎は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となりました。

 幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗りました。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られています。位階は贈正四位。

出典:Wikipedia

   阿蓮(おれん、1839年 - 1862年) 清河八郎の妻。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25



(九) 佐藤春夫
  (1892年 - 1964年) 詩人・作家。永井荷風に師事。

 佐藤 春夫は、近代日本の詩人・作家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動しました。筆名を潮鳴、沙塔子、雅号を能火野人と称しています。初代新宮市名誉市民。

出典:Wikipedia


(十) 高畠達四郎
  (1895年 - 1976年) 洋画家。

 高畠 達四郎は、日本の画家。独立美術協会会員、「暮色」で毎日芸術賞を受賞。林武、野口弥太郎と並ぶ3大巨匠の一人です。

出典:Wikipedia


(十一) 沢宣嘉
  (1835年 - 1873年) 幕末の公卿(七卿落ち・生野の変)、明治期の政治家。

 澤 宣嘉(さわ のぶよし)は、幕末期の公卿、明治の政治家。天保6年(1836年)、権中納言姉小路公遂の五男として生まれます。

 後に澤為量の娘・藤子と結婚し、その婿養子(継養子)となる(為量の実子宣種は、宣嘉の養嗣子となる)。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は養父と共に勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わります。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動しました。

出典:Wikipedia


(十二) 橋本明治
  (1904年 - 1991年) 日本画家。

 橋本 明治は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)生まれです。1929年より帝展に出品、1931年東京美術学校日本画科卒、松岡映丘に師事。1937年新文展で特選。1940−1950年法隆寺金堂壁画模写に従事。戦後、日展に出品。1948年創造美術結成に参加しますが、後に脱退して官展に戻ります。

 1951年芸術選奨文部大臣賞受賞。1952年日展審査員。1955年日本芸術院賞受賞。1958年日展評議員。1969年日展理事。1971年日本芸術院会員。1972年日展常務理事。1974年文化勲章受章、文化功労者。

出典:Wikipedia


(十三) 柴田錬三郎
  (1917年 - 1978年) 直木賞作家。「眠狂四郎無頼控」の作者。

 柴田 錬三郎は、日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名は齋藤 錬三郎。シバレン(柴錬)という通称でも名高い。

 歴史小説に新風を送ったことで業績は名高い。『イエスの裔』は芥川賞と直木賞の両方の候補となったが天秤にかけて直木賞を受賞し、その後選考委員となる。代表作に『眠狂四郎』『御家人斬九郎』『水滸伝』『徳川太平記』など多くがあり、戦国・幕末を扱った作品が多く、剣客ブームを巻き起こした。

出典:Wikipedia


(十四) 簡野道明
  (1865年 - 1938年) 漢学者。

 簡野 道明は日本の漢文学者(漢字学者)・言語学者・教育者です。

 江戸八丁堀で伊予国吉田藩藩士の子として生まれる。幼名は米次郎です。4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字に学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。卒業後は南予地区で教鞭を執っています。

 1892年に上京後苦労の生活の日々を送り、30歳で東京高等師範学校に入学し、卒業後は東京で再び師範学校教師になる。在任中に「漢文読本」「故事成語大辞典」の編集を担当しました。

 1923年に漢和辞典「字源」を編集し刊行した。辞典の編纂を専念すために広大な別荘を建設しました。

 戦前の中等教育の漢文教育の権威であり、彼の編纂した教材は多くの中学校などで使用された。高見順の作品「わが胸の底のここには」、加藤周一の回想記『羊の歌』には、簡野の教材が使用された記述がみえる(いずれも府立一中である)。墓所は東京都文京区の伝通院。

出典:Wikipedia


(十五) 古泉千樫
  (1886年 - 1927年) 歌人。

 古泉 千樫は、日本の歌人。本名は幾太郎。貧困と病弱に苦しみながら創作を続けたことで知られています。

 1886年9月26日、千葉県安房郡吉尾村(現・鴨川市)に生まれました。父弥一30歳、母きく19歳の長男。家業は中位の自作農。1900年、吉尾村高等小学校を卒業し、直ちに母校の代用教員に採用されています。

 旧制千葉師範学校入学の希望があったが果たされませんでしたた。1901年4月、千葉町(現千葉市)の教員講習所に入所して10月に卒業した。小学校准訓導の資格を得ました。

 1902年2月、安房郡田原村の竹平校に奉職して、生家から朝夕往復60町ばかりの道を通いました。月給は7円、校長は理解のある漢人幸政でした。その後安川文時に師事し、1905年に彼から「千樫」の号を授かります。萬朝報、心の花、日本などに作歌を投じました。正岡子規の風を慕い、のち上京して伊藤左千夫に敬慕師事します。斎藤茂吉、島木赤彦、中村憲吉と共に大歌集「アララギ」を支えていました。

出典:Wikipedia


(十六) 杉浦重剛
  (1855年 - 1924年) 思想家・教育者。

 杉浦 重剛は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。

 父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講します。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立しました。

出典:Wikipedia


(十七)  藤井紋太夫
  (? - 1694年) 光含院。水戸徳川家の家老。主君徳川光圀によって刺殺される。

 藤井 徳昭は、水戸藩家老。旗本・荒尾久成の四男で、水戸徳川家に仕える親戚の老女藤井の養子となります。兄に旗本荒尾久次、荒尾成継。伯父に鳥取藩家老の荒尾成利、荒尾嵩就、和田三正。通称の藤井紋太夫として知られています。

 水戸徳川家に仕える老女藤井の養子となり、2代藩主・徳川光圀に小姓として仕えます。光圀に重用され、延宝6年(1678年)に小姓頭、天和元年(1681年)に中老、貞享4年(1687年)に大番頭と累進。光圀の隠居後も、3代藩主・綱條に引き続き仕えて、元禄6年(1694年)には禄高800石の大老となります。

 元禄7年11月23日(1695年1月8日)、小石川水戸藩邸で行われた能会において、前藩主・光圀に刺殺されます。戒名は光含院孤峯心了居士。墓所は小石川傳通院。

 光圀が刺殺した理由は、講談や小説、時代劇等では徳昭(紋太夫)が、光圀失脚を画策する柳沢吉保に内通したためなどとされることが多いのですが、真相は不明です。

出典:Wikipedia


その他、伝通院に埋葬されている人々

 葛西因是
 (1764年 - 1823年) 儒学者。

 千種任子
 (1855年 - 1944年) 明治天皇側室(権典侍)・滋宮韶子内親王(明治天皇第三皇女)・増

 宮章子内親王
 (明治天皇第四皇女)の生母。

 浪越徳治郎
 (1905年 - 2000年) 指圧療法の確立者。

 矢数道明(1905年 - 2002年)
   医師。東洋医学、漢方医学者。


◆文学、文型と「伝通院」

 文豪 永井荷風は、明治12年(1879年)に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育ちました。その思い出は、随筆『伝通院』(明治42年頃)を生み出し、パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院があると賞賛しています。

 また、荷風は明治41年(1908年)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れましたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記しています。

 夏目漱石も若い頃にこの近くに下宿していたため、小説『こゝろ』で伝通院に言及しています。幸田露伴一家は大正13年(1924年)に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいます。

 その他の「伝通院」を描いた文学作品

・菊池寛『若杉裁判長』『納豆合戦』
・佐々木味津三『右門捕物帖・首つり五人男』
・徳田秋声『新世帯』、『黴』、『足迹』
・岡本綺堂『有喜世新聞の話』
・宮本百合子『一本の花』
・中里介山『中里介山 大菩薩峠・禹門三級の巻』、『大菩薩峠・白骨の巻』
・夏目漱石『琴のそら音』、『趣味の遺伝』、『こころ』、『それから』
・夢野久作『街頭から見た新東京の裏面』
・二葉亭四迷『平凡』


 この後、伝通院を後に、私達は都営三田線の春日駅方向に向かいます。

 なお、山門から入って左には、たくさんの歌人の歌碑があります。
 
 下は橋下徳尋の歌碑があります。


橋下徳尋の歌碑
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25

 橋下徳尋の歌碑は左下になります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25

 下は、水町京子の歌碑の解説です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25

 下は千樫山人の歌碑です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-4-25

 なお、伝通院の敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校である日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚があります。ほかにも境内には、書家・中村素堂の書による碑「如是我聞」があります。


浪越が寄贈した指塚
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25

 また伝通院は毎年春の桜や、7月に朝顔市が開かれることでも知られています。

 途中、すばらしいツツジが咲いていました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-4-25


つづく