家康の母(於大の方)の菩提寺 「伝通院」に埋葬された人々(つづき) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda April 25 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 歴代徳川将軍家家系 |
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-25 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-25 ◆伝通院に埋葬された著名な人たち(つづき)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-4-25
◆その他、伝通院に埋葬されている人々 葛西因是 (1764年 - 1823年) 儒学者。 千種任子 (1855年 - 1944年) 明治天皇側室(権典侍)・滋宮韶子内親王(明治天皇第三皇女)・増 宮章子内親王 (明治天皇第四皇女)の生母。 浪越徳治郎 (1905年 - 2000年) 指圧療法の確立者。 矢数道明(1905年 - 2002年) 医師。東洋医学、漢方医学者。 ◆文学、文型と「伝通院」 文豪 永井荷風は、明治12年(1879年)に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育ちました。その思い出は、随筆『伝通院』(明治42年頃)を生み出し、パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院があると賞賛しています。 また、荷風は明治41年(1908年)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れましたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記しています。 夏目漱石も若い頃にこの近くに下宿していたため、小説『こゝろ』で伝通院に言及しています。幸田露伴一家は大正13年(1924年)に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいます。 その他の「伝通院」を描いた文学作品 ・菊池寛『若杉裁判長』『納豆合戦』 ・佐々木味津三『右門捕物帖・首つり五人男』 ・徳田秋声『新世帯』、『黴』、『足迹』 ・岡本綺堂『有喜世新聞の話』 ・宮本百合子『一本の花』 ・中里介山『中里介山 大菩薩峠・禹門三級の巻』、『大菩薩峠・白骨の巻』 ・夏目漱石『琴のそら音』、『趣味の遺伝』、『こころ』、『それから』 ・夢野久作『街頭から見た新東京の裏面』 ・二葉亭四迷『平凡』 この後、伝通院を後に、私達は都営三田線の春日駅方向に向かいます。 なお、山門から入って左には、たくさんの歌人の歌碑があります。 下は橋下徳尋の歌碑があります。 橋下徳尋の歌碑 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-25 橋下徳尋の歌碑は左下になります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-25 下は、水町京子の歌碑の解説です。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-4-25 下は千樫山人の歌碑です。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-4-25 なお、伝通院の敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校である日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚があります。ほかにも境内には、書家・中村素堂の書による碑「如是我聞」があります。 浪越が寄贈した指塚 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-25 また伝通院は毎年春の桜や、7月に朝顔市が開かれることでも知られています。 途中、すばらしいツツジが咲いていました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-25 つづく |