伝通院の前にある 処静院跡の石柱 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda April 25 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 歴代徳川将軍家家系 |
この後、山門から出て左に向かいます。左側の伝通院の一角には淑徳SC中等部・高等部があります。この淑徳SC中等部・高等部は、伝通院の境内からもよく見えます。 これは明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校を元に淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部を創立したことによります。また、明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになっています。
下の写真は淑徳SC中等部・高等部の一部です。左側に伝通院の山門が見えます。 淑徳SC中等部・高等部の一部です。左側に伝通院の山門が見えます 出典:グーグルストリートビュー 実は、門を出て左折する前に、右折して少し行ったところに、下の写真にあります石碑がありました。 下がグーグルのストリートビューで見た伝通院の山門となりの入口の写真です。左端に石碑がありました。 出典:グーグルストリートビュー ◆処静院跡の石柱 不許葷酒入山門、読み方ではクンシュサンモンニイルヲユルサズとある石碑です。これは禅寺や律院などで、山門や総門の前の石柱に刻んだ標語らしいのですが、その石碑の隣に東京都文京区の教育委員会による解説がありました。 なお、"葷"とはニンニク・ラッキョウ・ネギ・ショウガを意味し、これらは強精食品で酒とともに人間の魂を乱すものとして、寺に持ち込みが禁じられていることを示しているようです。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-4-25 ◆処静院跡について 浄土宗処静院は伝通院の塔頭の一つでしたが、明治に入り、現在の淑徳学園あたりに移され、その後廃寺となりました。今は伝通院門前に「不許葷酒入門内」(くんしゅもんないにいるをゆるさず)の文字が刻まれた処静院の石柱を残すのみとなっています。 文久三年(1863)二月四日、浪士隊の結成が、ここ処静院で行われました。浪士隊は幕末、京都守護職(会津藩主 松平容保)のもと活躍した新選組の前身です。 隊結成にあたり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭(鳩翁)が目付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締の職に就きました。鉄舟と懇意であった処静院の住職琳瑞は結成の趣旨に賛同し、結成の場所として本院を提供しました。 後に新選組幹部となる試衛館道場の近藤勇、土方歳三、沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上りました。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃されました。 享年34歳でした。現在墓は伝通院にあります。また、住職琳瑞も慶応三年(1867)小石川三百坂で刺殺されました。享年38歳でした。 出典:文京区教育委員会 平成十六年一月 、 文京ふるさと歴史館 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-4-25 ◆処静院跡の石柱について この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものです。石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えています。処静院は、その後、廃寺となりました。 文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織−”浪士隊”の結成大会が処静院で行われました。 山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていました。 一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことです。 出典:東京都文京区教育委員会 平成元年三月 、 文京ふるさと歴史館 以下は、伝通院に埋葬されたひとびとからを拡充した再掲です。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-4-25
つづく |