グアム島現地総合調査 グアム島米軍上陸地点2 アポリナリオ・マビニ像 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2019年1月24日公開 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
グアム島全体目次 米軍上陸地点1 米軍上陸地点2 米軍上陸地点3 ◆フィリピン建国の英雄 アサンの米軍上陸地点には、以下のアポリナリオ・マビニの彫像があります。アポリナリオ・マビニはフィリピンの建国の英雄ですが、一時期、グアムに追放されていたため、アサン海岸に記念碑があります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4 アポリナリオ マビニ アポリナリオ マビニはフィリピンの弁護士でフィリピン独立革命 (1898年)に拘わった人物でフィリピン・ペソ紙幣に描かれている人物です。 アポリナリオ・マビニ(Apolinario Mabini, 1864年7月23日 - 1903年5月13日)は、1898年 - 1899年の短命で終わったフィリピン共和国の憲法構成を書いた、フィリピン人理論家です。かつてフィリピンで発行されていた10ペソ紙幣に肖像が使用されていました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4 アポリナリオ・マビニは1881年に特別奨学生としてサンファン・デ・レトラン大学に入学しました。 1888年から1894年にかけてサント・トーマス大学で法律を学びます。マビニの初期の政治的活動は、リサールが1892年に結成した「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン人同盟)」を復活させた事に始まります。 アギナルド大統領は彼の才能を認め首席顧問に任命しました。彼の思想はフィリピン共和国の憲法および政治的基礎となり、このため「革命の頭脳」とも呼ばれました。 1896年に革新主義者との関連で逮捕されましたが、当時ポリオで両足が麻痺していたため病院で逮捕後自宅軟禁とされました。彼は身体的制約から第一期の革命には参加できませんでした。 1898年2月の米比戦争が勃発した際にヌエバエシハ州へ逃れましたが、12月クヤポで米軍に逮捕され1900年まで捕虜収容所で過ごしました。 その後、彼はナグタハンの小さなニッパ・ハウスに住み、地方新聞に記事を書いて生計を立てていました。一時グァムに追放されましたが帰国後の1903年5月13日にコレラで死亡しました。 出典:フィリピン・インサイド・ニュース 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4 フィリピンの1ペソコインに刻まれたアポリナリオ・マビニ アポリナリオ・マビニはフィリピンの1ペソコインにもその顔が刻まれています。 「APOLINARIO MABINI CENTENARY」「NATIONAL HERO」 「1864〜1964」portraitアポリナリオ・マビニ(APOLINARIO MABINI) 。 「CENTRAL BANK OF THE PHILIPPINES」「ONE PESO」 フィリピンの紋章 1964年 1 PESO 1964年にアポリナリオ・マビニ生誕100年を記念して発行。材質(Material):90%銀(Silver) 、直径(Diameter):38mm、重量(Weight):26.6g。 アポリナリオ・マビニは、フィリピン共和国の憲法構成を書いた、フィリピン人理論家。 1864年:バタンガス州タラガで貧農である父イノチェンチオ・ マビニと母ディオニシア・マラナンの間に誕生。 1894年:サント・トーマス大学で法律学の研究を行う。 1896年:ポリオに罹患し、下肢が麻痺。スペイン人により、 サンフワンデディオス病院に移送。 1898年:アギナルド将軍の首席顧問となり、命令を立案し、 憲法構成をフィリピンのために推薦。革命政府のために 計画を立案。 1899年:アメリカ人によって捕らえられ、後に釈放。 1901年:グアムに追放。 1903年:米国に忠誠の誓いをたて、フィリピンに復帰。 1903年5月13日:コレラによりマニラで死亡。 ◆フィリピン革命とは 1896年8月末から 1902年4月頃まで続いたフィリピン独立のための武力闘争。戦いの相手は最初スペインであったが,アメリカ=スペイン戦争の結果,フィリピンがアメリカ合衆国の植民地となると,アメリカに対して行なわれた(フィリピン=アメリカ戦争)。 アンドレス・ボニファシオが組織したカティプナンはかねて武力革命の準備を進めていたが,1896年8月末,マニラ郊外で蜂起した。当時監禁されていた穏健派の志士ホセ・リサールがこの蜂起と関係があるとされ,12月30日に処刑されたので,最初ルソン島の 8州にかぎられていた反乱はしだいに他の地域に波及した。 しかし,指導者ボニファシオは軍事的才能に欠け,カビテ地区の若い指揮官エミリオ・アギナルドがこれに代わって人望を得,革命指導者となった。アギナルドは 1897年5月にボニファシオを反逆罪のかどで処刑した。 スペイン軍との激しい戦闘の末,革命軍は敗北したが,1898年1月改革案を含むビアクナバト条約をスペインとの間で締結,アギナルドはホンコンへ追放された。4月キューバの統治をめぐる衝突からアメリカ=スペイン戦争が起こると,アギナルドはアメリカ艦隊に同乗してマニラに入り,スペインとの闘争再開を声明。 フィリピンは,6月12日スペインからの独立を宣言,アギナルドを大統領とする臨時共和制を布告した。アメリカ軍は最初は革命軍を助けたが,マニラ占領の頃からこれを遠ざけ,スペインと秘密交渉を重ねてフィリピンの奪取を策し,パリ講和条約によりスペインからフィリピンの統治権を譲り受けた。 革命政府はこれに憤慨して首都をルソン島のブラカン州に移し,1899年1月21日にマロロス憲法を発布し,アギナルドを大統領,アポリナリオ・マビニを首相に定めた。アメリカはこのフィリピン共和国政府をまったく無視し,2月ついに両軍が衝突。革命軍は苦境に立ち,1901年3月アギナルドは捕虜となり,抵抗は 1902年4月頃終わった。(→フィリピン史) 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 米軍上陸地点3につづく グアム島全体目次 |