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●妙義山中腹にそびえる妙義神社 私たちは妙義神社の山門前に到着した。この神社は、今まで見たことがないほど広大で立派な社家などがあるにもかかわらず、なぜか観光的色彩がない。参道とおぼしき道沿いには一軒もおみやげ屋さんも食べ物を売る見せもない。 駐車場もあるのかないのか分からないようなところにあった。 神社は確かに妙義山の中腹にある。それにしても妙義山の形は奇妙である。 撮影:池田こみち 行ってみて分かったのだが、現在、妙義神社は、大改修中で日光の東照宮に負けず劣らぬ大社殿(本殿・幣殿・拝殿)や唐門はまったく見ることが出来ず残念無念であった。 見れたのは総門、波己曽社、石垣などだったが、噂に違わず妙義神社は、さまざまな意味で日光東照宮を凌ぐ秀逸な社殿、建築物があり、長い歴史をもつ希有な寺社であることが分かった。 なお、戦前、各神社は国の保有物として扱われていたが、敗戦後GHQにより「政教分離」により神社仏閣は宗教法人のもとで保護されることになった。その関係で、妙義神社には、神社だけでなく境内には由緒ある寺もあった。 下は妙義神社参道入口。この先に総門がある。 妙義神社入り口 撮影:池田こみち まずは、妙義神社の概要。 妙義神社の創建は、宣化天皇2年(西暦537)に開かれたのが始まりと伝えられており、非常に歴史がある。 古社で、当初は波己曽大神として平安時代に編纂された歴史書"日本三代実録"にもその名が記されているという。 鎮座する妙義山は上毛三山の1つで、後に日本三大奇勝、日本百景に数えられる程、特異な景観で古くから山岳信仰や自然崇拝的な信仰の対象として広く知られる存在であった。ちなみに、上毛三山とは、赤城山(赤城神社)、榛名山(榛名神社)、妙義山(妙義神社)である。 特に江戸時代に入り妙義神社が上野東叡山宮御兼帯の格式を得ると、歴代将軍や皇室などから崇敬、庇護され社運が隆盛し妙義千軒と称されるほど繁栄したと言われている。実際、よく見ると妙義神社の社殿のいくつかには、菊の御紋が付いている。 妙義神社の社殿は宝歴2年(西暦1752)に大改修されているが、権現造り、黒漆喰に金箔や極彩色で彩られ、多彩で精巧な彫刻は上毛の日光と称されるほどである。 以下は、群馬県の公式サイトにある妙義神社の紹介文である。
◆総門 以下の写真にある総門 は3間1戸の八脚門、切妻造で、平面積62,358 平方b、棟の高さ11.659bの大きな門である。 この門は江戸時代には当社の別当寺の仁王門で あったが、神仏分離により総門に改められた。 屋根は最近まで檜皮葺であったが、今回の修理 により創建時の銅板葺に改められた。 妙義神社の総門 撮影:青山貞一 総門の前で 撮影:池田こみち 撮影:池田こみち 私たちが妙義神社を訪れている最中、広大な境内には人がほとんど見受けられなかった。たまたま2人の男性が座って談笑していた。近づくと、そのうちの一人が、もう一人の男性がボランティアで妙義神社の説明員をしているので、ぜひお願いしたらと言う。そこで下の写真の男性に妙義神社の説明をお願いした。 残念なことに、今回、下の写真にある165段の石段の上にある社殿(本殿・幣殿・拝殿)は、大改修とのことで社殿が見れなかった。また 石段の上にある随神門は、3間2間の単層切妻造で、左右表間 には随神がおかれ、木鼻などよりみて寛文期の ものと推定される。 撮影:青山貞一 本殿に通ずる階段は改修のため立入禁止となっていた。 撮影:池田こみち 残念ながら今回は妙義神社のメインである社殿、唐門は視察が出来なかった! 以下は群馬県公式ホームページの社殿、唐門の紹介文である。なお、改修工事はここ数年つづくとのことであった。 なお、上の165段の石段は通行禁止となっているが、グルーと山側を登れば工事中の社殿などを遠巻きに見れると説明を受けたが、私たちは遠慮することにした。
◆妙義神社の大杉の子孫 総門のすぐ近くに大杉の子孫”がある。 妙義神社の境内には、樹齢千年以上の天然記念物の大杉があったが、老衰腐朽のため昭和46年で倒壊してしまった。その大杉の穂を保存、接ぎ木し、大杉の子孫として復活させた話しをボランティアの方から伺った。 正確には国の天然記念物に指定されている妙義神社の大杉の子孫である。昭和8年に天然記念物に指定された大杉は老木のため衰弱し、昭和46年1月の台風により倒壊、その後、関東林木育種場にこの杉の健全な穂がつぎ木で保存され、群馬県林業試験場がつぎ穂としてもらい受け、昭和48年つぎ木し49年にとり木をし、大杉の子孫を作り植栽したとのことである。 撮影:青山貞一 撮影:青山貞一 ◆波己曽社(はこそ) 下の写真は妙義神社波己曽社殿と石垣である。 これらは1968(昭和43) 年5月4日、群馬県重要文化財に指定されている。 波己曽社は 妙義神社の元社である。永年腐朽にまかせ、拝 殿は分離され妙義神社の神楽殿として利用されてきたが、1969く昭和44)年、銅鳥居脇の養蚕 社の位置に復原された。 本社殿は妙義神社社殿より一時代前の様式をもった建造物で、入母屋 造で正面屋根に千鳥破風をもった拝殿、それに 幣殿・本殿が接続し、完全に原型に復した。 重要文化財、旧本殿で今は祈祷殿となっている波己曽社。 撮影:青山貞一 撮影:青山貞一 波己曽社・御本殿 撮影:青山貞一 波己曽社・御本殿 撮影:青山貞一 波己曽社前の青銅製の灯籠 撮影:青山貞一 ◆旧宮家御殿 妙義神社は古くから皇室の信仰も厚かったそうだ。妙義神社は東叡山寛永寺の別院元光院の兼帯となり、 1636年以来、寛永寺座主輪王寺宮の隠居所となったとのこと。 下は波己曽社の近くにある旧宮家御殿である。現在は社務所となっている。 旧宮家御殿、現在は社務所 撮影:青山貞一 旧宮家御殿、現在は社務所 撮影:青山貞一 旧宮家御殿、現在は社務所に通ずる門 撮影:青山貞一 ◆石垣 妙義神社境内には精巧にできた石垣がある。誰でもここに城があったかと推測するが、妙義神社には城はない。これは江戸中期に妙義山で産する安山岩を使い、江戸や信州高遠の石工たちが築いたと言われている。実に精巧な石積であり、学術的にもきわめて重要な石垣であるとボランティアの方が説明してくれた。 石垣は何期かに分けて造られたが、総門脇の巨石 を使用した精巧な石積は群馬県随一の石垣である。 石垣に刻まれた銘文は、本社前は「延享元甲子 六月、石階造修工武州江府霊岸島近藤利兵衛」、 随神門下の石段は「宝永二乙酉歳霜月吉祥日」、 総門前石垣に「明和六暦丑」と刻まれている。 また宝暦6年銘の棟札には「信州高遠石切二六 人、江戸石切一人」とあり、1705〈宝永2) 年から1769(明和6)年までの半世紀にわたっ て築かれたとされている。 石垣の背景に見える波己曽社 撮影:青山貞一 石垣側から総門を見る 撮影:青山貞一 石垣 撮影:青山貞一 石垣 撮影:青山貞一 以下はボランティアの方に紹介受けた墓所だ。代々のご住職の墓所で珍しい石積だとのことであった。 撮影:青山貞一 撮影:青山貞一 大改修終了後、ぜひ再度、妙義神社を訪れたい!! つづく |