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真夏の上信州、歴史探訪

〜官製富岡製糸場〜

青山貞一  池田こみち
掲載月日:2011年8月21日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


 私たちはこの日の最終目的地でもある富岡市の官営製糸場に向かった。妙義神社も富岡市にあり、それほど時間はかからなかった。途中、車にガソリンを補給する。

 到着後、近くに民間駐車場に車を置き、歩いて製糸場に行く。入場料は大人一人、500円である。午後4:30で閉館するが、午後3時からボランティアの説明ガイド付きのツアーがあるというので、それに参加することにする。
 

撮影:青山貞一 CoolPix S8


動画撮影:青山貞一 CoolPix S8

製糸工場設立の歴史的背景

 まず、設立の経緯について触れよう。

 明治政府発足直後の日本にとって、輸出品となるものは茶と生糸であった。しかし、蚕の繭(まゆ)から生糸をつくる製糸工程は、当時、人力や前近代的な小規模な器具によるところが大きかった。

 以下は以前、明治初期から大正期まで同じく養蚕が栄えた埼玉県の秩父にあるちちぶ銘仙館で撮影した当時の日本の糸操である。


糸操室
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


映画「草の乱」ではこんな感じ


糸操室
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 日本の製糸は、明治初期の生糸づくりの本場であったフランスやイタリアよりも製品の質の面で大きく劣ると評されたため、明治政府は大規模な器械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが、当時の「殖産興業」の推進のために不可欠と考えられた。
 そこで明治政府は、フランス・リヨンの商社、エシュト・リリアンタール商会の横浜駐在員であり、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)の指導のもとフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入することで、もともと養蚕業の盛んな富岡に日本初の器械製糸工場を設置したのである。

 明治政府が官営製糸場を群馬県富岡の地に造った理由は、ひとつに養蚕農家の近くにあること、ふたつに広大な土地があることなどにあったという。その規模は、約1万5千坪、敷地内には開設当時、東西繭倉庫(12メートル×104メートル)、繰糸場(12.3メートル×140メートル)、それに事務所、外人宿舎など煉瓦建造物が入ることになっていた。


撮影:青山貞一 CoolPix S8

 下は明治時代の富岡製糸場。


創業当時の富岡製糸場 

 これら官営の富岡製糸場は、現在、ほぼそのままの形で残っている。下は明治時代の富岡製糸場。


現在の富岡製糸場

 この富岡製糸場は明治5年に竣工している。


撮影:青山貞一 CoolPix S8

 日本側の責任者となって資材の調達や建設工事の総指揮をとったのは、初代所長になる尾高惇忠であった。

 当時、この富岡製糸工場は世界でも有数の規模であった。

 和田英ら数百人の工女が日本全国から集められた。工女の労働環境は充実しており、六工社など後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。

 しかし、当時大蔵民部省官吏として建設に尽力した渋沢栄一は後年自己批判も込めて、「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書いている。


明治初期の富岡製糸場
出典:Wikipedia

 当初は民部省が設置し、大蔵省、内務省、農商務省と所管が移り、明治8年に日本人による操業が始まったが、大規模すぎたために十分な機能が果たされず、官営工業の払い下げ令により、明治26年(1893年)に民間(三井家)に払い下げられた。

 この間、日本で初めての洋式器械製糸場を前橋に作った速水堅曹が内務省に移り、2度、所長に就任、民営化されるまで操業を支えた。

 そして明治35年(1902年)には横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)に渡り、昭和14年(1939年)、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となると昭和62年(1987年)3月5日まで約115年間操業を続けた。

製糸場内の各移設

 以下は敷地内にある製糸場の各施設である。




現在の東倉庫 撮影:青山貞一 CoolPix S8


動画撮影:青山貞一 CoolPix S8


現在の女工館 撮影:青山貞一 CoolPix S8


現在の検査人館(3号館) 撮影:青山貞一 CoolPix S8




現在の操糸場  撮影:青山貞一 CoolPix S8


現在の操糸場  撮影:青山貞一 CoolPix S8


動画撮影:青山貞一 CoolPix S8


現在の操糸場 撮影:青山貞一 CoolPix S8


動画撮影:青山貞一 CoolPix S8


往事の操糸場 出典:Wikipedia




操糸 動画撮影:青山貞一 CoolPix S8


自動操糸装置 撮影:青山貞一 CoolPix S8

工法(公式ホームページより)

 主要な建物は、木で柱と梁を組み、壁にレンガを積み入れて造る 「木骨レンガ造」で建てられた。レンガという西洋の新しい技術を取り入れながら木材をふんだんに使用し、屋根は瓦で葺ふくなど、日本と西洋の建築技術を見事に融合させ建てられた。


撮影:青山貞一 CoolPix S8

 建造物の主要資材は 礎石そせき、木材、レンガ、瓦かわらで構成され、鉄枠のガラス窓や観音開きのドアの蝶番などはフランスから仕上げて運び込まれたものであったた。しかし、資材の調達は大規模な建築のため多くの困難が伴っていた。

 中心となる材木は主に官林で伐採した。杉の木の大きいものは 妙義山、松の木は吾妻から調達し、小さい材木は近くの山林に集めた。また礎石の石材は連石山(甘楽町)から切り出してつくった。
 

撮影:青山貞一 CoolPix S8

 レンガは、ブリュナが瓦職人に手まねで教え込み福島町(現甘楽町福島)の 笹森稲荷神社東側に窯かまを築きずき瓦と共に焼き上げた。中心となったのは埼玉県深谷からやってきた瓦職人だった。レンガの目地は、セメントの代用として 漆喰を使った。原料となる石灰は下仁田町青倉あおくら・栗山くりやま産のものであった。レンガは、フランス積みと呼ばれる工法で積まれ、建造物に 流麗さをもたらした。


操糸場の木の骨組 撮影:青山貞一 CoolPix S8

 富岡製糸場では、動力源として欧州で発明された蒸気エンジンを使っていた。下は、ブリューナ・エンジンである。


蒸気エンジン 撮影:青山貞一 CoolPix S8

 以下の動画は上の蒸気エンジンを含む動力装置を含む蒸気釜室と煙突。これらの施設は遠巻きに見学が出来るだけで内部に入れなかった。


動画撮影:青山貞一 CoolPix S8

その後の富岡製糸場

 富岡製糸場は、平成17年(2005年)7月14日付で「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)7月5日には明治8年(1875年)以前の建造物が国の重要文化財に指定された。

 全ての建造物は平成17年(2005年)9月30日付けで地元富岡市に寄贈され、市が管理(富岡製糸場課)を行っている。

 なお、現在、群馬県・富岡市を中心に富岡製糸場とそれに関連する絹業文化遺産を、世界遺産に登録する取り組みが進められている。

 平成19年(2007年)1月30日には「富岡製糸場と絹産業遺産群」(The Tomioka Silk Mill and Related Industrial Heritage)として、赤岩養蚕農家群などとともに日本の世界遺産暫定リストに加えられている。

エピローグ

<感想:青山貞一>
 
 富岡製糸場は、官営、すなわち明治政府が肝いりで養蚕地近くの広大な土地に金に糸目をつけず造った感が否めないことを先に述べた。それは明治政府がトップダウンで上州の過疎地につくったことである。

 富岡市はまったくこの官営製糸場をまちづくりに生かしているとは言えず、まちのなかにただぽつんと見せ物的に一角に史跡としての製糸場があるに過ぎない。現在でもまったく富岡のまちにこの製糸場に根付いていないと感じた。

 これは同じ群馬県内の世界遺産候補の赤岩養蚕農家群や横川の旧碓氷峠線保存と比べればよく分かる。

 最低限でもメインストリートの町並みの景観に工夫が必要である。その意味で、今に至るまで富岡市は単に<官製>工場にだけ依存し、自らの歴史的なまちづくりをしていないどこにでもあるつまらない地方都市に過ぎないと感じた。

 せっかく希少な歴史的、文化的資源がありながらそれをまちづくりに生かしていないという意味で残念なことである。これは養蚕農家などが最終的に明治政府に一揆を起こす秩父事件の故郷、秩父のまちと対比するとよく分かるはすだ。

<感想:池田こみち>
 
 「富岡製糸場」は産業遺産としてUNESCOの世界遺産への登録を目指しているとのことで、是非一度訪れてみたいと思っていたところである。

 茶道を嗜み、着物を愛するものとして、生糸生産が日本の産業を担っていた頃の歴史や地域と密着した絹の文化を知ることも楽しみだった。

 しかし、残念ながら富岡市の市民生活や町そのものと製糸場との関係がほとんどないように見受けられた。製糸場までの沿道には、群馬県の観光PRの幟が「これでもか」とはためいて、かえって町並みを壊していると感じられた。

 やっと駐車場に車を止めて、炎天下を歩いて製糸場までいく数100mの町並みも、これといった店はなく、観光客が足を休めたり、一服できるような御茶やもない。塀に囲まれた製糸場と富岡の町はまさに、塀で隔離されているようだ。

  同じ絹とゆかりのある町として、埼玉県の秩父や群馬県の六合村、群馬県の桐生市などを訪れると、人々が苦労して桑を育て蚕を育て、絹織物をつくって生活を支えてきた暮らしが見えてくる。

 群馬県が養蚕や生糸生産などをキーワードとして産業遺産を大切に地域のシンボルとしたいのなら、県内各地の関連の歴史や文化、人々の暮らしをネットワークして見せない限り、「世界遺産」は難しいと感じた。

 官製工場から財閥系民間企業への払い下げという歴史をたどった富岡製糸場は施設、設備としては価値があっても人々の暮らしや町ととどう拘わってきたのか、そこから見えてこなければ興味は半減する。まして、町民がそれを中心に町を盛り上げようという意欲が見えてこない。

 参考のため、以下に秩父事件について書いたブログを示しておこう。

温故知新・秩父事件
秩父というまち・秩父神社 事件の現場を歩くB半納・石間
秩父というまち・武甲山 事件の現場を歩くC龍勢会館資料
地場産業のちちぶ銘仙 映画「草の乱」について
事件の概要と背景・原因 当時の生糸の生産・流通
事件の現場を歩く@井上伝蔵 自由民権運動と農民蜂起
事件の現場を歩くA椋神社