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   東マレーシア・サバ州現地予備調査

多民族国家

マレーシアの概要

Multiethnic Country Malaysia

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年2月24日
独立系メディア E-wave Tokyo


<全体目次>


◆マレーシアの多民族国家・民族構成の概要

 以下の解説のおもな出典は、Wikipedia(日本語、英語)です。


多民族国家・民族構成のマレーシア
地図:マレーシアガイドより
https://malaysiajp.com/



マレーシアの人口及び民族構成 
出典:多民族国家ならではの国家事情(奈良女子大学附属高等学校)

華人 マレー人 インド人 その他
1830年 6,555 7,640 1,913 526 16,634
1849年 27,988 17,039 6,284 1,580 52,891
1871年 54,572 26,141 10,313 3,790 94,816
1891年 121,908 35,956 16,009 7,729 181,600
1911年 219,577 41,806 27,755 14,183 303,321
1931年 418,640 65,014 50,811 23,280 557,745
1947年 729,473 113,808 68,967 25,901 938,144
1970年 1,579,900 311,400 145,100 38,100 2,074,500
1990年 2,239,700 406,200 230,000 126,900 3,002,800
マレーシアの人口及び民族構成 
出典:多民族国家ならではの国家事情(奈良女子大学附属高等学校)

 三つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成が極めて複雑な国の一つであり、多民族国家です。

 単純な人口比では、マレー系(約65%)、華人系(約24%)、インド系(印僑)(約8%)の順で多くなっています。

 マレー系の中には、サラワク州のイバン族、ビダユ族、サバ州のカダザン族、西マレーシアのオラン・アスリ (orang asli) などの先住民も含まれ、各民族がそれぞれの文化、風習、宗教を生かしたまま暮らしています。

 マレー半島北部(タイ深南部の国境周辺)では、かつてパタニ王国が存在したことから、同地域にはタイ系住民のコミュニティが存在しています。

 ただし、これらの住民は「タイ王国に出自を持つマレー人」といった存在であり、一種の政治難民です(cf. パタニ連合解放組織)。

 もっとも、隣国同士だけに一般的な人的交流も盛んであり、主な大都市に存在するタイ系コミュニティは上記の歴史的経緯と特に関係はありません。

 他にも、先住民ではない少数民族として民族間における混血グループが複数存在し、華人系の混血(主に華人系とマレー系)(ババ・ニョニャ)やインド系とマレー系の混血(チッティ)、旧宗主国などのヨーロッパ系移民とアジア系の混血(ユーラシアン)が少数民族集団(マイノリティグループ)を形成しています。

華僑系住民

 華人系やインド系がそれぞれ「華僑」や「印僑」と称されることも多いのですが、その大半がイギリス統治下において奴隷的な立場で連れられてきた賃金労働者の子孫(cf. 苦力)です。

 また、華僑としての出自を持つ華人系の多くは、シンガポールを拠点に貿易業を営んでいた者や清朝崩壊(あるいは中国国民党の追放)後の政治難民が多いと言えます(cf. 浙江財閥)。

 事実、華人系マレーシア人の多くが話す中国語は、広東語や福建語、客家語、潮州語(まれに上海語)といった南方系方言であり、中国本土で一般的に使われる普通話(北方系方言)とは異なります。

 但し多くの華人系の子女は中華系の学校に就学し、北京語(華語、Mandarinと呼称される)を学ぶので、北京語をベースとした普通話との意思疎通は可能です。

 一方、プラナカン(海峡華人)のように中国語がまったく話せない華人系住民も少なくなく、また中国語での会話はできるが漢字が読めない華人系は多数存在します。

 ちなみに、かつてマラッカ海峡を拠点とした海賊(後期倭寇)の末裔もいるとされるが、統計的に言えば「華人系」のカテゴリに吸収されます。また華人系には極少数であるがイスラム教徒もおります。

プラナカン(海峡華人)

 華人系の中には英語のみを母語とする家系が存在します。

 これら英語話者の華人系住民は、英国統治下の時代に「英国人」として海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)において支配階層(英籍海峡華人公会)を形成していた華僑の末裔であり、出稼ぎ労働者として移り住んだグループ(トトックと呼ばれる)と区別してプラナカン(海峡/英語派華人)と呼ばれ、その多くが旧宗主国に忠誠を誓ったため、故郷(中国本土)との関係が希薄となっています。

 現在でも本土との関わり合いはほとんどなく、逆にシンガポールやインドネシアに住む華人グループとの結び付きが深いようです。

 例えば、シンガポールの人民行動党は、独立以前のシンガポール周辺地域におけるプラナカン系の民族政党という出自を持ち、現在でもマレーシアの華人系政党(民主行動党)と友好関係にあります。

 ちなみに、シンガポールの初代首相リー・クアンユーは、プラナカンの代表的な人物でする。

 プラナカンとマレー人や英国人などの他の民族との混血のことをババ(男)・ニョニャ(女)と呼びます。いずれも華人系であり、混血化が起きてからかなり経つ場合もあるため、プラナカンとババ・ニョニャの区別は曖昧なこともあります。

インド系住民

 「印僑」とも呼ばれることのあるインド系は南インド出身者(タミール人)が多く、マレーシアにおけるインド文化もタミール人の風習を色濃く受け継いでいます。

 ただし、かつてはアーリア系の北インド出身者も少なくなく、高い社会的地位を享受していました。しかし、70年代を通してマレー系の地位が飛躍的に向上したことから、富裕層であった北インド出身者の帰国が相次ぎ、結果として貧困層が多い南インド系が主流となったといわれています。

 現在はサイバージャヤといった地域でIT系の技術者として働くために本土から移民してきた新世代も増えつつあります。ごく小規模ですが、パンジャーブ人(シク教徒)のコミュニティも存在し、弁護士・会計士などの職業についているものも多いようです。

 タミール系移民がイスラムに改宗した「ママック(英語版)(あるいはママッ)」と呼ばれる民族グループもいます。ママックは「ママック・ギャング(英語版)」で知られる通り、インド系に横たわる貧困問題を背景としてマフィア化が進んでいます。「ママック」は蔑称とされることもあります。

 なお、マハティール元首相は母親がマレー系、父親がインド南部のケララ州からの移民であり、「マレー系」であるのか「インド系」であるのか出自問題が議論されたこともあります。



混血系住民

 ユーラシアンとは「ヨーロッパ (Euro-) とアジア (Asian)」を意味する少数民族のことであり、旧宗主国からやって来たヨーロッパ人とマレー人あるいはアジア系移民との混血系を指します。

 他に、ポルトガル系とマレー系の混血をクリスタン(英語版)と呼称し、オランダ系あるいは英国系との混血のみをユーラシアンとする考え方もあります。これらユーラシアン系の大半はマラッカおよびペナン周辺に居住区を構えています。

 また、華人系とインド系の結婚もみられ、両民族間で生まれた子どもをチンディアンと呼んでいます。

民族対立

 マレーシア史上最大の民族対立事件である1969年5月13日事件以降、華人系とマレー系の対立構造が鮮明となりました。詳細は「5月13日事件」を参照

 マレー系の保守政治家の一部が「他民族が居座っている」または「間借り人である」といった趣旨の差別発言することがありますが、マレーシア建国時(憲法上「マレーシアの日」と呼ぶ)の協定(1957年制定マレーシア憲法第3章)において、マレー半島およびボルネオ島の該当地域で生まれたすべての居住者に国民となる権利が認められているため、正確な理解とは言えません。

 この発言にも見られるように、マレーシアは多民族社会とはいえ、その内情は必ずしも平和的なものではなく、民族間の関係は常に一定の緊張をはらんだものとなっています。

 実際、各民族の居住地域は明らかな偏りがあり、例えば華人系はジョホール・バルやクチン、ペナン(ジョージタウン)、イポー、コタ・キナバルといった都市部に集団で居住していることが多く、インド系は半島南部やボルネオ島西部の農村部、あるいは大都市圏のスラム化した地域に多くなっています。

 唯一、最大都市クアラルンプールのみが国全体の民族比率に準じていますが、生活習慣の違いといった理由から、民族間の交流はあまり盛んではありません。

 2008年には、住民を起訴なしで無期限拘束できる国内治安法に対する大規模な反対集会が開かれ、翌年にも同様のデモが行われています。


5月13日事件の背景

マレー人側の不満

 事件勃発の背景の第1として挙げられているのが、建国の父であるラーマンの老齢による衰えです。

 独立以来のラーマンの政策は基本的にはレッセ・フェールであり、政治的には民族間(マレー人・華人・インド人)の融合政策でした。

 その基盤は、独立前夜から続く統一マレー国民組織(UMNO)-マレーシア華人協会(MCA)-マレーシア・インド人会議(MIC)の3党からなる国民戦線による連立政権であり、「政治はマレー人、経済は華人」という原則を建てていました。

 しかし、ラーマンの次の世代に当たるマハティールらUMNO第2世代にとって、ラーマンの民族宥和政策は不満の残るものでした。先述の原則に基づけば、マレー人は経済的に常に華人に対して劣位に立たされている状況が変わらず、貧困に瀕しているという認識を持つに至っていました。

 その結果、マレー人の農村部の開発と商工業部門への参入を補助する政策を盛り込んだ第2次5カ年計画(1961年から65年)が始まりました。

華人側の不満

 事件勃発の背景の第2としては、マレー人優遇政策への反発があります。公用語をめぐる問題で華人内部の対立も明らかとなっていました。

 UMNOと連携してレッセ・フェールの経済政策を推進した華人はあくまでも英語教育を受けたエリート層であり、当時の華人内部においては上流階層に属していました。

 彼らの経済政策は、中下流階層の華人住民を満足させるものではなかったのです。中下流層はマレー語及び英語を使うことができなかったが、マレーシアの公用語が憲法153条条項でマレー語のみと定められ、なおかつ1957年教育令において中等教育以降の華語教育の存続が不明確だったため、危機意識を持つにいたったのです。

暴動の発生と議会機能の停止

 1969年総選挙の結果、UMNO-MCA-MICを中心とする国民戦線政権は大きく議席を減ずることとなりました。

 1964年総選挙時点での各党の議席数から1969年総選挙時点での議席数の推移は以下の通りとなりました。総定員は、104議席です。

与党 国民戦線 89→67
・UMNO 59→51
・MCA 27→14
・MIC 3→2

野党
・グラカン(マレーシア民政運動) 8 ※1964年総選挙時は未結成
・人民進歩党(PPP) 2→4
・全マレーシア・イスラーム党(PAS) 9→12
・民主行動党(DAP) 1→13

 グラカン、DAP、PPPといった華人勢力が大きく勢力を伸ばす一方、今まで華人勢力の受け皿となっていたMCAが大きく議席数を減らしました。

 華人系住民は意気軒昂となり、野党勝利の行進が行われました。

 この動きに対抗する形で、UMNOを支持したマレー人青年が行進を行います。その両者の衝突が首都クアラルンプールで起き、流血の惨事になりました。

 これが5月13日事件です。

 この結果、UMNO内における指導力が大幅に低下したラーマンは1970年9月に首相を辞任、アブドゥル・ラザク副首相が第2代首相に昇格しました。

 この政変のため、マレーシアの議会機能は1971年2月まで21カ月間の間停止しています。


つづく
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