エントランスへはここをクリック   


モリ・カケ戦争最終局面3

 
加計孝太郎は岸信介の子だった!?

青山貞一 Teiichi Aoyama
掲載月日:2018年3月13日、 15日、17日更新 
独立系メディア E−wave Tokyo

◆特集:モリカケ三大スクープの威力!
◆青山貞一:モリカケ戦争最終局面1 麻生氏と籠池家族との関係
◆青山貞一:モリカケ戦争最終局面2 やりたい放題の「公文書改竄」
◆青山貞一:モリカケ戦争最終局面3 加計孝太郎は岸信介の子だった!?

 以下は財界にっぽん大スクープ!?

 
出典:ばら色の人生                   出典:社会科学者の随想








 以下は「財界にっぽん」の最終号(2018年4月号)を読まれ概略を書かれた某氏のコラムです。詳しくは「財界にっぽん」の最終号をお読み下さい。何と、加計孝太郎は岸信介の晩年の子だった!?とあります。

◆安倍晋三と甥・叔父関係の加計孝太郎の遺伝学的な
  鑑識と比較文献学の威力

 国民が疑いなく贈賄犯罪だと考えているモリカケ事件は、近畿財務局の赤木俊夫・上席国有財産管理官首吊り自殺により、辞任した佐川国税庁長官だけでなく、監督責任を持つ麻生財務相や安倍首相の共犯行為として、ようやく責任追及が行なわれようとするに至っている。
,
 そんなさなかに国税庁が言論弾圧したことで、差し押さえで廃業に追いやった「財界にっぽん」が、最後と思われる四月号で重要な情報を国民に残してくれた。それは謎の男として出自を隠し続けてきた加計孝太郎が、岸信介が晩年に作った子供であり、安倍晋三の叔父に当たる縁者であるだけでなく、浜田まき子までが岸信介の娘で晋三の叔母であることまで、遺伝学と観相術などの法医学的な鑑識に基づき、真相に迫っているという情報がネット上で報じられたことである。
,
 そこで情報を確認するために紀伊国屋書店に駆けつけ、問題の「財界にっぽん」四月号を手に入れて読んだら、文芸春秋が内閣調査室の手先として情報工作をしてきた歴史を始め、驚くべきことが山のように書いてあった。特に実名を挙げて報告されていたのは、竹下登がサンケイの工作員の福本邦雄という、マスコミ界の児玉誉士夫でもあるフィクサーを使い、三宝会と言う情報操作機関を総動員して、現代版の民間思想警察と大本営発表をしていたと言うことが、詳細な証言に基づいて書いてあった。それを証言していたのが平野貞夫元参議院議員だったから、これは驚くべき極秘情報の暴露であると言えた。
,
 長大な記事のために全文は図書館で読んで貰うことにして、安倍に関係している岸信介の秘せられた庶子に関しての部分だけだが、「日本を破壊したゾンビ政治と愚民化のための言論統制」の記事から以下に引用する。(また、最も貴重な二組の証拠の顔写真が貼り付けられなかったのは、残念至極なことであるが、コンピューターの操作の不都合のために、折角の証拠資料をここに提示し得なかった。誰か有志の人がそれを別の機会に実現してもらいたいと願うばかりである)

,
<原稿の一部引用>
遺伝子が語る血脈と時の転位を教える観相術の妙
 パームスプリングスに25年住み、ペパーダイン大学の総長顧問だし、ロスの国際空港を利用したので、月に2度3度は用事があって、私はロスに出かけて取材をした。また、『加州毎日』に記事を書いたし、日本人街や韓国人街には、読者が沢山いた関係もあり、ロスについての情報について、かなりのものが集まったから、それを『小泉純一郎と日本の病理』に使った。 だから、かつてロスに遊学していた安倍晋三が、KCIAの朴東宣に可愛がられ、親しい関係を結んだお陰で、統一教会と親密だった話や、ロスに進出した暴力団が、いかに盛況だったかも書き込めた。 また、当時の南カ大(UCS)の言語センターは、イランやサウジからの学生で賑わい、金持ち子弟が集まって騒ぎ、言葉を習うと帰国して行く、パーティ学校として知られ、そこで安倍は英語を習ったが、単位を取得した記録はない。おそらく幼な馴染みの加計孝太郎と、愛好するゴルフに明け暮れていて、勉強する暇がなかったので、単位を取れなかったのだろう。
,
 三十数年後に「モリ・カケ事件」が起き、安倍と加計の関係について、色んな形で憶測を生んでいるが、奇妙な歴史の相似象が現れた。それはロンドンに逃避した小泉が、三十数年後に首相になった時に、過去の秘めた出来事と符合する形で、私の想像力を刺激したのと、同じような興奮を掻き立てる。この件に関しての記録は、『財界にっぽん』2002年6月号に、「大杉栄と甘粕正彦を巡る不思議な因縁」と、『真相の深層』2004年春号に出た、「小泉純一郎の破廉恥事件にまつわる日本のメディアの腰抜け」があり、共に『賢者のネジ』に収録して置いたが、言論弾圧で抹殺されてしまった。
,
 ここで再び歴史の相似象として、岸信介と安倍晋三の間で、遺伝子に関わる問題が蘇ってくるのは、法医学と観相学の面から、とても興味深いことである。 それにしても文献学的に見て、笹川良一に関した記録では、多くの庶子の存在が知られており、その幾つかは活字になっている。だが、岸信介に関しては発掘が遅れて、その秘密は未だ埋もれたままだ。そこに日本での調査報道が、世界から立ち遅れている現状があり、それが詐欺や犯罪の摘発を始め、それ法の公正な適用の面から見た後進性が露呈した理由なのではないのか。
,
 それでも有力情報筋によると、晩年の岸信介には子供があって、その一人は元自民党代議士の夫人であるし、日本航空のスチュワデスをやり、東京大学では歴史学を学んだ後で、大蔵省に入り職場結婚をして、彼女自身も自民党議員になった。岸信介と笹川良一は刎頸の友で、アヘンと結ぶ満州人脈だし、共にA級戦犯として巣鴨体験と、CIAにスカウトされており、半島から勝共連合を日本に持ち込んだ、極右思想の仲間でもある。
,
 しかも、伝記作家の工藤美代子は、二人について伝記を執筆しており、笹川については『悪名の棺』で、京に住む大津法子という女を描き、岸は『絢爛たる醜聞』において、浜田マキコが隠し子であると、思わせぶりな筆致でほのめかした。二人の巨魁の晩年の足跡は、笹川はニクソンとの交友でカリフォルニアに、岸はインドネシアの石油利権や、デュッセルドルフの日本館経営を含む、利権網を世界に確立している。
,
 そして、老いて益々お盛んだったのだが、熟年の性愛に迫っている工藤でも、肝心な今一歩に踏み込まないで、歴史の謎を放置しているのは、戦後史を綴る上での瑕瑾である。私がフランスで習得した生理学では、「個体発生は系統発生を繰り返す」や、「優性と劣性は隔世遺伝する」が法則だった。また、2年住んで学んだ台湾の観相術では、「幼相は孫に現れ、老相は祖父に重なる」と教え、それが私に2枚の引用写真を注目させたのである。
,
 こうした直観力は現場で鍛えた、刑事が持つ円熟したカンと同じで、情報学科で習った付け焼刃の知識とは、一味違うプロの洞察力に属す。だから、私は高島易断に入門していないので、その真偽は図りかねるけれど、司法と検察当局は何かを見落として、洞察に代えて忖度に頼りすぎ、国民を裏切ったのではないだろうか。
,
 歴史修正学派の伝記作家の工藤美代子の情報源が、ロサンゼルスのサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)を始めとして、統一教会や創価学会などであることに関し、アメリカに30年以上も住む国際ジャーナリストの藤原博士が触れていないのは、なぜだろうかと言う疑問が残った。単行本でなくて雑誌の記事だから仕方がないが、そうした能力を持つ研究者たちの仕事が現れない限り、戦後の日本の裏社会の歴史闇に包まれたままで、売国奴たちによる支配と偽れる盛装による隷属状態は、これからも長く続くのではあるまいか。



 以下は、「財界ニッポン」2018年4月号のスクープ記事の中にあった2枚の写真です。写真のタイトルは、一枚目は「若き日の加計孝太郎(左)と安倍晋三」、二枚目は「加計孝太郎(左)と岸信介」です。いうまでもなく、一枚目は世紀の大スクープ写真です。



「若き日の加計孝太郎(左)と安倍晋三」 

 出典:リーランス・ジャーナリスト、慧智研究センター所長 藤原肇
     特別寄稿 日本を破壊したゾンビ政治と愚民化のための言論統制
     「財界にっぽん」 2018年 4月号



「加計孝太郎(左)と岸信介」

 出典:リーランス・ジャーナリスト、慧智研究センター所長 藤原肇
     特別寄稿 日本を破壊したゾンビ政治と愚民化のための言論統制
     「財界にっぽん」 2018年 4月号







 以下は青山貞一の推測です。

 岸信介と加計孝太郎との関係については、ネット上では加計孝太岸信介は岸信介の外孫論が多数あります。しかし、以下の推計からして、加計孝太郎は岸信介の外孫ではなく子供あることが濃厚だと思います。
.,
 加計孝太郎の誕生日は1951年7月2日〜 )、また岸信介の生誕、没年は1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)です。万一加計孝太郎が虚偽の誕生日の可能性もないとは言えませんが。
,
 上記から計算すると、加計孝太郎は岸信介が昭和26年の時に(本妻以外に)産ませたことになります。そのときの岸の年齢は54歳、十分子供は可能です。
 
 なお、以下は、関係者の誕生データです。
,
◆関係者の誕生データ

 岸信介
     1896年〜1987年 90歳で没
 岸良子(妻)     

 安倍晋太郎   1924年〜1991年 67歳で没 
 安倍洋子(妻) 1928年〜 (岸信介32歳のとき)

 浜田 マキ子   1942年 - (岸信介46歳のとき..〇)

 安倍 晋三    1954年

 加計勉      1923年〜2008年(岸信介27歳のとき?..×)

 加計孝太郎   1951年〜 (岸信介55歳のとき..〇)

 岸信介  没年 1987年 90歳

 なお、岸信介のこの辺の情報は、小林吉弥著天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 岸信介・良子夫人(上)
」を読むとよくわかる。以下に、関連部分を転載します。

 その岸はA級戦犯として、3年3カ月を東京・巣鴨の拘置所に収容された。人間、位階勲等を取り上げてしまうと、素の姿が見える。元大臣・元大将もさすがに「巣鴨プリズン」では多くが意気消沈、“青菜に塩”の体であった。その中でケロリと元気のよかったのが岸、もう1人がのちに日本船舶振興会会長としてラツ腕を振るうことになる笹川良一だった。 笹川はプカプカ、ドンドンの楽隊に送られて“巣鴨入り”した男であり、むしろ獄中生活を楽しんでいるといった風情であったと言われている。その笹川をつかまえて、ある日、岸はこうこぼしたのだった。 「わしは、毎晩イチモツが隆起して困っている。1週間に一度は夢精する。その洗濯がつらくてね。なんとかならんものだろうか」 笹川も、女性の嫌いなほうではない。戦時中は「東洋のマタハリ」と言われた美貌の川島芳子との付き合いもあった男である。しかし、巣鴨では、もとより“聖人君子”で通していた。笹川は自分より3歳年上の岸のそんな言葉に、さすがに「参った」としてカブトを脱いだというエピソードがある。生前の岸と親しかった政治評論家の今井久夫は、岸の「巣鴨プリズン」出所時の話を次のように記している。「(出所とともに)田布施に飛んで帰った岸は、その晩、良子を寝かせなかったという噂が流れた。田布施の古い家は、かなり震動したに違いない。その晩の夫婦和合の回数が、とんでもない数字になって友人間の話のタネになった」(『月刊ペン』昭和55年10月号) ここでは“心技体”亭主操縦術にたけた良子の「良妻」ぶりが浮き上がるが、一方、その後の岸の政治家としての豪胆ぶりもまた窺えるのである。

 出典:小林吉弥著 「天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 岸信介・良子夫人(上)」


◆浜田マキ子氏について

 一方、岸信介が本妻以外に産ませたもう一人の子と推定される浜田マキ子氏は、浜田 マキ子(1942年3月19日 〜 )なので、こちらは岸信介が45歳のときの子となり、年齢的には十分可能な歳です。すなわち、ともに外孫ではなく実子(子供)のはずです!

 以下は、Wikipediaにおける浜田マキ子氏の来歴です。

来歴
 東京都文京区出身。父親は実業家の娘に生まれる。清明学園初等学校を経て森村学園初等科、中等科、高等科卒業。 1960年4月、日本航空に入社し、国際線スチュワーデスとなる[2]。翌1961年2月、10か月で日本航空を退社し、東京大学に入学。1965年3月、東京大学文学部東洋史学科を卒業後、植竹の秘書となるが、同年大蔵省に勤務していた卓二郎と結婚。長男をもうける。

 1973年、花嫁学校「芝アカデミー[3]」を設立し学長に就任。以後、2008年秋まで貿易や人材育成コンサルティング関連など複数の会社を経営しながら、1990年、ハーバード大学外交センターのフェローになる。著作出版、月刊『ぺるそーな』の発行、ワイドショーのコメンテーター、講演活動を行って来た。

 2008年10月10日付で、同じ大学の先輩で勉強会仲間であった日本ラッドの大塚隆一から依頼され、株式会社シアター・テレビジョンの代表取締役社長に就任[4]。シアター・テレビジョンのメインスポンサーが株式会社DHCの吉田嘉明及びDHCグループ傘下になって以降も社長職は継続。

 2017年3月末迄、同社にてテレビ放送、動画配信し、自らも制作統括(エグゼクティブプロデュース)を行っていた、『やらまいか?真相はこうだ!?』及び『日本らしい国づくり』を同社の元社員とでYoutubeにて別スポンサー企業を見付け配信[5]しかし、DHCテレビに無断で番組制作、及び「やらまいか」の続編を匂わす説明をしていたため、取締役会にて2017年10月18日付で社長職を解任された[6][7]。但し、浜田は自身のブログを更新し、「元々、番組立ち上げ前から行っていた勉強会が、『やらまいか』の原点だったので、その模様を勿体無いからそのままネットで配信しただけである」と否定している。また、DHCテレビの社長職を解任された事で、運営母体である林原LSI株式会社の取締役に就任した[8]。

出典:Wikipedia

 一方、以下はDHCシアター関連のWebにおける浜田マキ子の経歴です。

浜田マキ子 (本名 濱田麻記子)
1973年、花嫁学校「芝アカデミー」を設立し学長に就任。芝アカデミーの名誉学長は岸信介。
1990年2月、第39回衆院選に当時の埼玉5区から無所属(党籍は自民党)で初出馬し落選。
1993年7月、第40回衆院選に当時の埼玉2区から自民党公認・宏池会支援で再出馬するも落選。

浜田麻記子は1965年(昭和40年)3月に植竹春彦(参院議員)の秘書となる。
植竹春彦は1959年(昭和34年)第2次岸内閣の改造内閣で郵政大臣。
植竹春彦は濱田麻記子が設立した花嫁学校「芝アカデミー」の理事長。

 上記のWebには、写真の下「濱田麻記子 花嫁学校 芝アカデミー 名誉学長 岸信介 理事長 植竹春彦」とあります。

 やはり加計幸太郎氏同様、浜田マキ子氏も、岸信介氏と顔の輪郭、骨格、造作がよく似ています。


 
出典:DHCシアター社長 濱田麻記子 花嫁学校 芝アカデミー 岸信介

 以下の経歴も上記のDHCシアター社長 濱田麻記子 花嫁学校 芝アカデミー 岸信介に掲載されていたものです。

浜田マキ子 [ハマダマキコ]
昭和35年、森村学園初・中・高等学校卒業。日本航空入社。第18期スチュワーデスとして10ヶ月勤務。昭和36年、日本航空退社後、東京大学(文科二類)入学。在学中に東大学生能力研修会を設立し、主に小・中学生を対象に「学び方を学ぶ」ことをスクーリングする学生組織を育てる。昭和40年、東京大学東洋史学科卒業。卒業と同時に参議院議員植竹春彦(叔父)の秘書となる。昭和48年、芝アカデミー(フィニシング・スクール)を設立。元内閣総理大臣岸信介氏を名誉学長に迎え、自らは学長として女子成人を対象に和洋マナー、実用英仏会話、手紙の書き方、家事料理一般、実用の茶道・華道の教育にあたる。平成2年、ハーバード大学外交センターフェローに任命される。現在はクオリティ・マガジン月刊「ぺるそーな」の発行人を務めるかたわら、精力的な講演活動と執筆活動を行っている。株式会社P.R.D(国際コンサルティング会社)Chairman。ロンドン国際研究(IISS)正会員。中国生態学会副会長。MDネットMD設計(マキコデザイン株式会社)代表取締役社長。ジョージワシントン大学客員教授・評議員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

掲載、更新月日:2018年3月13日、 15日、17日更新