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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

真冬のアマルフィ海岸を行く


ポンペイ遺跡(1) 
Il Monte Vesvio di Camania, Italia

    青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo  
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ポンペイ遺跡(Wiki)1   ポンペイ遺跡(Wiki)2
ポンペイ遺跡・ギャラリー1  ポンペイ遺跡・ギャラリー2  ポンペイ遺跡・ギャラリー3

 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

    
アマルフィの位置    ポンペイの紋章     イタリア国旗

ポンペイ遺跡(1) 

概要

 ポンペイ(ラテン語: Pompeii、イタリア語: Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市です。

 西暦79年のある昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されています。


作者 フリードリヒ・フェデラー、1850年
Source:Wikimedia Commons
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アボンダンツァ通り
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歴史

 イタリア先住のオスキ人とヒーコ人によって集落が形成された。紀元前7世紀頃はサルノ川の河口付近の丘に集落があった。その後紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。

 ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが、現在この説を裏付けるものはない。

 カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。

 ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。


娼館に残っていた壁画
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 町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。

 ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える(現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあった)。

 碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。


79年のヴェスヴィオ火山噴火


ヘルクラネウムなどヴェスヴィオ火山の周りの複数の都市が噴火により被害を受けた。黒い雲は灰と噴石の降下の大まかな分布を表している。
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遺跡内の通り。車道と歩道が区分され、飛石状の横断歩道もある。
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 79年のヴェスヴィオ山(ラテン語名:ウェスウィウス)噴火による降下火山灰の被害地区(黒色部分)。火砕流による被害地域よりもはるかに広い。

 遺跡内の通り。車道と歩道が区分され、飛石状の横断歩道もある。
62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で79年8月24日以降(噴火日については後述)の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し[1]、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。

 翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降下火山灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。

 当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。

 これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩のように流れる現象である。プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。

 ただし、当時のヨーロッパ人は津波 (Tsunami) という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。

 噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに役人を派遣するが、市は壊滅したあとだった。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。


ポンペイの発掘


19世紀に発掘されるポンペイ
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発掘された肖像画、フレスコ、国立ナポリ考古学博物館
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