ウズベキスタン現地予備調査 サマルカンド3日目 博物館 サマルカンドの郷土史 Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi サマルカンドの歴史 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月7日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
◆旧サマルカンドの歴史 マラカンダ時代 紀元前10世紀ころからイラン系民族のオアシス都市として発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」(古代ギリシア語: Μαρακ?νδα)は、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"(古代ギリシア語: βρ?χου τη? Σογδιαν??)で最後まで抵抗した(Siege of the Sogdian Rock)とあります。
アフラシヤブ(Afrosiab) 『後漢書』などの漢文資料では康国として表れ、昭武九姓の一つに挙げられ、王族は月氏の子孫とされています。玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナ、マーワラーアンナフルの中心と呼ばれています。
都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っています。 712年にクタイバ・イブン・ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まりました。 イスラーム時代を通じてブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市としてサマルカンドは発展しました。 751年のタラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられています。 1060年に成立した中国唐の歴史書新唐書西域伝には「康国は又の名を薩末あるいは颯秣建という」という意味の記載があります。以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服されてからはテュルク化も始まります。 カラハン朝時代は有力王族の所領として、1210年頃にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによって西カラハン朝が滅ぼされその支配下となり、ムハンマドは首都をウルゲンチからこのサマルカンドへ移しました。 カラハン朝の版図 サマルカンドは商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも、数世紀にわたって繁栄を続けてきました。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されました。 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料 下の絵地図を見ると、アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンドは、中国の万里の長城のような城壁、それも三重の城壁に囲まれていたことが分かります。すでにアフラシヤブ(Afrosiab)考古学博物館のところで書いたように、このアフラシヤブ(Afrosiab)地域は考古学者等により発掘が進められており、多くの遺跡、文物が発見されております。 アフラシヤブ(Afrosiab)の丘にあった旧サマルカンド 出典:サマルカンド考古学博物館頒布資料
アフラシャブの丘では発掘作業が続いています。アフラシャブの丘からサマルカンド市街を見た様子です。現在は国から保護されているため新しい建物を造ることが禁止されており、今でも発掘調査は続けられています。まだまだ荒地の下には多くの遺跡が眠っているようです。ここで発掘された土器、貴金属、貨幣などは、サマルカンド歴史博物館に展示されています。 出典:http://illumination.web.fc2.com/samarqand/samarqand_9.htm その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないしアフラシヤブ(の丘)と呼ばれ、現在の市街地の北側にありました。 後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟は、このアフラシアブの丘の東南遇に位置しています。 ティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 その後、サマルカンドはモンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、カイドゥの乱が終結してからはドゥア家のチャガタイ・ウルスの所領として確定しました。 1333年、イブン・バットゥータは北方のジョチ・ウルスからホラズム、ブハーラーを経由してタルマシリンが治めるチャガタイ・ウルスを訪れています。 イブン・バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドにも滞在していましたが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になり、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べています。郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べています。 ◆その後のサマルカンド(新市街地) サマルカンドは、14世紀末から15世紀にかけてはティムール朝の首都として繁栄します。 市街地の内部にはティムールの墓廟であるグーリ・アミール廟やビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラシヤブにはシャーヒ・ズィンダ廟群が築かれました。 サマルカンドのグーリ・アミール廟 出典:ウズベキスタン大使館配付資料 ビビ・ハニム・モスク モスクのドーム部分の高さは40mに達します。 出典:Wikipedia さらに郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられました。 西域番国志によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れています。 ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれました。その当時の建物を含めて文化交差点としてユネスコの世界遺産(文化遺産)になっています。 ウルグ・ベク天文台 出典:Wikipedia ウルグ・ベク天文台 出典:Wikipedia ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後のムガール朝の始祖となったバーブルも故地のフェルガナから度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有しています。 その後、1500年にジョチ・ウルス系のウズベク勢力であるシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンによって征服された さらに。その後はジャーン朝などテュルク系のウズベク人の国家ブハラ・ハン国に属し、首都の地位はブハラに奪われましたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加され、現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能しました。 レギスタン広場の一角にありますサマルカンドにあるウルグ・ベク・マドラサ(イスラム学院) 出典:Wikipedia レギスタン広場 (トリップアドバイザー提供) しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらにイランからアフシャール朝のナーデル・シャーの侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなりました。 19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、1868年にはロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入されました。 サマルカンドはもともとブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわちタージーク(タジク人)の多い都市でしたが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までその首都となりました。 つづく |