シルクロードの今を征く Now on the Silk Road サマルカンド3日目郷土史博物館5 野生生物・昆虫 Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月7日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(中央アジア) 郷土史博物館1 郷土史博物館2 郷土史博物館3 郷土史博物館4 郷土史博物館5 郷土史博物館6 郷土史博物館7 郷土史博物館8 郷土史博物館9 郷土史博物館10 郷土史博物館11 郷土史博物館12 郷土史博物館13 郷土史博物館14 郷土史博物館15 郷土史博物館16 郷土史博物館17 郷土史博物館18 ◆旧サマルカンドの歴史 ◆モンゴル帝国時代 モンゴル帝国はチンギス・カンのもと、13世紀前半に中央アジア一帯を征服しました。中央アジアに対するモンゴル帝国の侵攻はこの地方の歴史のターニングポイントの一つです。モンゴル帝国はあらゆる中央アジアの正統な支配者にはチンギス・カンの血族のみがなる事ができるとする伝統を築いていたため、同地域に長く続く影響を与えることになりました。 ![]() チンギス・ハーン。モンゴル帝国はチンギス・カンのもと、13世紀前半に 中央アジア一帯を征服した。 モンゴル帝国 ![]() モンゴル帝国の中央アジアへの侵入は1219年から1225年まで続き、マーワラーアンナフルの人口に劇的な変化をもたらします。 チンギス・カンの軍隊はモンゴル人の将校に率いられていたものの、配下の兵士の多くはモンゴル軍に取り込まれたテュルク系民族により構成されていたため、征服地のいくつかの部分に急速なテュルク化をもたらしました。モンゴル軍がマーワラーアンナフルの都市を占領した際、彼らは逃亡しなかった現地の住民を自分たちの軍に取り込んだのです。 モンゴル帝国の征服のもう一つの影響は、ブハラをはじめとする都市やホラズムのような地方に対し、モンゴル軍の破壊がもたらした深刻な被害であったのです。 ホラズムは甚大な被害をこうむり、ホラズム内の灌漑網は何世代にも渡り修復できないほど破壊されました。そして、多くのペルシア系の知識人は迫害を逃れて南の土地への逃亡を強いられることになりました。 ◆モンゴル帝国による支配とティムール朝 1227年にチンギス・カンが没した後、彼の帝国は彼の一族により分割されました。帝国が瓦解する可能性もありましたが、モンゴル帝国における伝統的な法は何世代にも渡る秩序だった継承を維持しました。 マーワラーアンナフルの大部分は、チンギス・カンの次男であるチャガタイの子孫に継承されました(チャガタイ・ハン国)。秩序だった王位継承や繁栄、国内平和がチャガタイ・ハン国にもたらされ、モンゴル帝国は全体的に強力な団結を保っていいました。ホラズムは、南部をチャガタイ・ハン国に、北部をキプチャク・ハン国によって分割されます。 14世紀前半からアジア各地のモンゴル国家で分裂が始まり、チャガタイ・ハン国もまた様々な部族集団がチャガタイ家の王子を擁立して争う混乱期に突入しました。 1370年代に、こうした部族集団の一つであるバルラス部の族長であったティムールがマーワラーアンナフルに支配権を確立し、マーワラーアンナフルの内争を終結させます。 ![]() ![]() 1370年のバルフ包囲 ![]() ティムールによるウルゲンチ包囲 つづく |