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   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド3日目

郷土史博物館
ユダヤ人の生活
  Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月7日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

 サマルカンドの郷土史博物館でさらに驚いたのは、この博物館にはサマルカンドやウズベキスタンに居住していたユダヤ人の邸宅を使用したものであり、ウズベキスタンとユダヤ人との歴史についての詳細な資料、文物、写真などが展示されていたことです。

 入り口の看板(下の写真)には、次のように記されていました。「ウズベキスタンにおける過去そして現在のユダヤ人生活の展示」 ウズベキスタン共和国の米国ユダヤ共同委員会支部協賛、と。

 以下及び自宅内のシナゴーグなどをもとに総合的に推察すると、おそらくこの施設は、ソ連時代、かなり裕福なユダヤ人が共産主義下のソビエトから中央アジアのウズベキスタンのサマルカンドに逃げて、サマルカンドにおけるユダヤ教の教会(シナゴーグ)を自宅につくり、ユダヤ人コミュニティの中心としていた、というところでしょうか。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 おそらく以下の方のごシナゴーグ付き自宅を博物館として一般開放しているものと思われます。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3


◆ウズベキスタンのユダヤ人 出典: Wikipedia

 ウズベキスタンのユダヤ人は二つの異なるコミュニティを形成しています。古くからウズベキスタンに居住し信仰心の高いブハラ・ユダヤ人のコミュニティと、より積極的で現代的なアシュケナジのコミュニティです。

 1989年時点においてウズベキスタン国内には94,900人のユダヤ人が居住していましたが、2007年時点においては5,000人以下にまで減少しており、その多くタシュケントに居住しています。

 なお、現在、ウズベキスタンには12のシナゴーグがあります。

 激減した理由として考えられるのは、ブハラ・ユダヤ人の多くはウズベキスタン独立の際にイスラエルや米国へと出国していったため、現在ウズベキスタンに居住しているユダヤ人の大部分はアシュケナジといえます。

 一方、1926年〜1959年にかけて大幅にユダヤ人が増加したのは、おそらくソビエト連邦の社会主義化、共産化に伴い資産没収などを恐れ、ソビエトからウズベキスタンに避難した人々と想定されます。その後、ウズベキスタンから米国やイスラエルに移住していると推察されます。


出典: Wikipedia


◆ユダヤ人の生活博物館

 この博物館にも数名の学芸員はいました。しかし、やはりロシア語とウズベク語しか話しません。せっかくなので、青山はナチス・ドイツとの関係について質問しましたが、事実のほどは分かりませんでした。

 ただ、青山、池田の過去のホロコースト関連の調査では、南ロシアやウクライナでナチスドイツにより、多くのロシア人、ウクライナ人が殺されている詳しい証拠となるデータを把握しているので、中央アジアでもナチスドイツにより、ユダヤ人が殺害されたとしてもおかしくないと思います。

 しかし、いくつかの英文文献をみると、どうもそうではなく、社会主義、共産主義化したソビエトからとりあえず中央アジアに避難し,その後、米国やイスラエルに移住しているようです。

 この博物館は、「ユダヤ人の生活」をテーマとしていますが、個人の邸宅としてもあまりにも贅沢、豪華すぎであり、到底、ユダヤ人一般の生活とは思えません。おそらくその後、米国に移住する際にサマルカンドにシナゴーグ付きの自宅を家財道具一式を含め残して行き、それを博物館としたのではないかと推察できます。

 博物館に展示されていました以下の地図は19世紀のサマルカンドにおけるユダヤ人居住区計画のようです。@からDとあるのがユダヤ教徒のための居住ブロックと思われます。サマルカンド市のかなりの部分を占めていたことが分かります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3


サマルカンドにおけるユダヤ人の生活についての展示

 下の写真は、展示されているユダヤ人邸宅の内部、とくに家具、丁度などです。いずれも大変、豪華、贅沢なものばかりです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 下のダークグリーンの設備は、暖炉のように見えます。天井までダークグリーンが伸びており、この後は屋根の上に煙突が出ているのかも知れません。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 下は上の写真の右側を写していますが、グランドピアノがあり、大きな居間であることが分かります。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 下は机と椅子ですが、壁に二胡のような伝統楽器と打楽器らしきものが見えます。ブハラで知りあった「私立学芸員」は、ウズベキスタンには中国の二胡に類する弦楽器があり、ご自身、その演奏をすると言っていました。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 下は何か不明ですが、縦置きとなっています。

 池田によると、これは木箱に巻紙のようにして納められているユダヤ語で書かれた経典 or 聖書 的なもののようです。箱の上に出ている銀色の飾りを回して読み進むようになっていると思いますとのことです。学芸員の女性は当然ながらユダヤの文字が読めるとのことでした。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3

 下はそれらの楽器のようです。二胡の弦はは2本ですが、この楽器の弦も2本だけのようです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 以下は民族楽器を持った演奏家の写真です。一堂、二胡のような楽器を持っています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3

 次は織機などの調度品です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 下の写真は往事の衣服です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3

 中には下の写真のように、いわゆる輪転印刷機らしきものもあり、この邸宅がユダヤ教会として出版物や新聞などを発刊していたことを示しています。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 下の地図は、何と2500年前(紀元前586年)、はじめてユダヤ寺院が世界中に出来たときのペルシャ帝国、バビロン、中央アジア、インド、中国におけるユダヤ人居住地を示しています。



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 下は中央アジアにおいて活躍したユダヤ人の紹介のようです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3


◆博物館の一角にあったシナゴーグ

 博物館の一角にシナゴーグがありました。外から見ると、道路側に近い奥の部屋(コの字型の一番外れ)の部屋は、いわゆるシナゴーグとなっていました。

 シナゴーグについては、以下のWikipedia を参照してください。自宅にこれほどゴージャスなシナゴーグを設置しているとすれば、相当裕福なひとであったと思えます。

シナゴーグ

シナゴーグ(英: synagogue、独: Synagoge)とは、ギリシャ語のシュナゴゲー(集会所)に由来するユダヤ教の会堂のことです。聖書には「会堂」の名で登場し、ユダヤ教会と俗称されることもあります。キリスト教の教会の前身ですが、役割はやや異なります。 

 もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所でしたが、現在では祈りの場であると同時に、各地のディアスポラのユダヤ人の礼拝や結婚、教育の場となっています。また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在ともなっています。

 エルサレム神殿破壊後はユダヤ教の宗教生活の中心となっています。ディアスポラ民族主義者や改革派は「神殿」という言葉を用いることがありますが、正統派の中にはこういった「擬似神殿」の敷居を跨ぐことを拒否するものもいます。

 ディアスポラの地では改革派から超正統派までディアスポラの立場を取る者たちなどによって守られていますが、イスラエルへの移住によって無人のシナゴーグ も多く出てきています。

 シナゴーグには立派な礼拝所(堂)がありました。


シナゴーグの内部
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3


シナゴーグの内部
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 建物の外からはシナゴーグであることはわかりません。
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撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 分かるとすれば下の写真にあるように、窓にユダヤのマークがあったことぐらいです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3


つづく