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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

オプロンティス (2)
Oplontis B

    青山貞一 Teiichi aoyama ・ 池田こみち Komichi Ikeda 
2013-6-14
,更新 2020-11-30
 
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 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。  

  
アマルフィの位置   イタリア国旗

◆オプロンティス(2) 


ヴィラ・ポッパエア(ヴィラA)への古代のメインエントランス
Ancient main entrance to the Villa Poppaea.
Source:Wikimedia Commons
CC 表示-継承 2.0, リンクによる

 1880年から、何軒かの製粉所とパスタ工場がオプロンティス地域のフォンタネッレ通り(Via Fontanelle)に建設され、古代ローマ時代の壁、大理石の柱、モザイク舗装、そして、さまざまな遺物からの多くの破片が(建物の)基礎の溝や壕から発見されました。イエナコ(Iennaco)のパスタ工場では、大理石の鉢と鉛の管、そしてギリシャ神話の女神ミネルヴァによる「典型的なギリシャの作品」といえる2つの大理石の彫刻が見つかりました。多くのモザイクやフレスコ画が破壊されました。深さ11mのところを掘削中に、ミネラルウォーターの泉が噴出し、その水は売り出されました。

 1934年、フォンタネッレ通りに民間の建物が建設された際に、さらに多くの発見がありました。いくつかの菱形煉瓦:オプス・レティキュラトゥム(opus reticulatum)とおそらく地下回廊(crypto porticus)と思われる遺跡が見つかりました。ヴィンセント・キュックルーロ(Vincenzo Cuccurullo)は、不揃いなタイル(オーパス インセルタム(opus incertum))を使った周囲の壁とともに、丸天井のテラスの白い漆喰の跡も明らかにするために試験掘削(テストトレンチ)を発注しました。

 注)Opus reticulatum(オプス・レティキュラタム) Wikipedia(en)より
  古代ローマの建築で使用されているレンガの形です。これは、
  キュビリアと呼れる菱形の凝灰岩のレンガで構成されており、
  オーパス・セメンティシウムのコアの周りに配置されています。

 注)opus incertum(オプス・インセルタム) Wikipedia(en)より
  古代ローマの建築技術であり、不規則な形状でランダムに配置され
  た未切断の石または拳大の凝灰岩ブロックをopus caementicium
  のコアに挿入して使用しました。 当初は、セメント質のより慎重な配
  置で構成されており、外部表面をできるだけ平坦にしました。


 この頃から町が拡大するにつれて、これまで以上に頻繁に新たな発見があり、ル・マスカテル(Le Mascatelle)の丘に重要なローマの遺跡があることが次第に明らかになりました。ボランティアの委員会である「フレンズ・オブ・オプロンティス」は、適切な発掘を促進するために1962年に設立されました。

 本格的な発掘が正式に承認されたのは1964年のことでした。しかし、それでもまだやや混沌としていて、ほとんどの部屋がすでに露出されていた1971年になっても、まだ公式の記録はつくられていませんでした。発掘から最終的な再建までの期間に、貴重な情報と多くのフレスコ画が失われてしまいました。1971年以降も、記録が正確ではないうえに、詳細や発見が切り捨てられたため、適切な再建が不可能となりました。

 1975年、現場の北端で唯一の人間の骨格が発見されました。別荘の床から6メートルの高さで仰向けに横たわっている大人の人骨で、おそらくもっと内陸からの火山の流れによって運ばれたに違いありません。

 今日では、この別荘の約60%が発掘され露出しています。

 建物の最も古い部分は、その第二様式*の壁画が属する紀元前50年にさかのぼります。ポンペイ地震で著しく損傷した別荘の一部は、その品質で以前のものと同じくらい有名な第三様式のフレスコ画で再建されました。

 ヴィラAはおそらく無人であり、西暦79年の噴火の時点でまだ再建の途中にありました。それというのも、その場所から多くの道具が見つかっており、また、彫像や柱などが本来設置されるべき適切な場所から離れて保管されていたためです。噴火の力で屋根や壁が崩壊し、柱が壊れて横に投げ出されたため、発掘時に多くの壁の破片から組み立て直すのが困難だったのです。

 注)ポンペイの壁画の様式  Wikimediaより
  ポンペイ四様式とも呼ばれる。ポンペイの壁画に代表される古代
  ローマの壁面装飾はおおまかに時代ごとの四つの様式に分ける
  ことができる。この分類は現存する古代ローマの壁画の最大のグ
  ループを成すポンペイの壁画の発掘を行ったドイツの考古学者A・
  マウによって提唱された。この壁画の様式によって、研究者達は西
  暦79年のベスビオ火山の噴火に先立つ数世紀の建物や建物の装
  飾の時代を区別することができた。様式の変遷に見られるギリシア
  の写実的で現実と錯覚を起こさせるような傾向とイタリア的な伝統
  やオリエントの影響である装飾的な傾向の相克に注目することは重
  要である。(中略)
  .....
  前1世紀には「第二様式」または「建築様式」と呼ばれる様式が支配
  的となる。壁面は建物の構成要素やトロンプ・ルイユ的な効果を狙っ
  た構図により装飾されるようになる。初期には第一様式から見られる
  要素で構成されていたがだんだんと置き換えられていった。この様式
  では対象物に陰影を付けることによって立体的な構造物として錯覚さ
  せるということが行われた。例えば立体的に描かれた柱によって壁面
  のスペースを分割するということがよく行われた。(中略)
   .....
  「第三様式」は前の時代の厳格さの反動として前20年または前10年頃
  から始まった。カラフルな人や物の姿をかたどった装飾が現れ全体的
  により装飾的な印象を与える。そしてしばしば非常に洗練された技術を
  見せる。(後略)


<ヴィラB>

 2番目の別荘であるヴィラBは、1974年に、学校を建設中にヴィラAの東300メートルにあるのが発見され、1991年まで部分的に発掘されました。

 豪華に装飾されたヴィラ・ポッペアエ(Villa Poppaea)とは対照的に、ヴィラBはAよりもはるかに小さく、ヴィラAのような豪華な装飾がありません。ヴィラBは素朴な2階建ての建物で、多くの部屋は塗装されておらず、土を突き固めた床となっています。

 建物の平面図から、ノセラ トゥファ(Nocera tufa)の柱をもつ2階建てのペリスタイルに囲まれた中庭があったことが明らかになりました。それにもかかわらず、1階と2階の両方で70以上の部屋が見つかりました。1階には、中庭の4つの側面すべてに、オプス インセルタム(opus incertum)とオプス レティキュラタム(opus reticulatum)のかまぼこ形天井をもつ部屋があります。

 L.クラッシウス・テルティウス(L. Crassius Tertius)という名前の青銅の印章が現場で見つかりました。

 この建物は紀元前2世紀の終わりに建てられました。この複合施設は、隣接するヴィラAの建設前に建てられたもので、より広い集落の一部でした。この別荘は噴火時には荒れ果てていませんでした:オプロンティスを急襲した火山の噴火によって命を失った54人の遺骨が別荘の一室から回収されました。54人は二つのグループに分けられ、一方のグループは高級宝飾品、銀器、コインを所有していましたが、もう一方のグループの人々はそうしたものを所有していませんでした。

 最近の考古学では、オプロンティスは海に近いため、ポンペイやヘルクラネウムとは異なる独特の被害を受けたことが示されています。火山の噴火は火砕流を発生させ、オプロンティスに向かって山を下っていきました。海面に火砕流が流れ込んだことにより、その影響は一種の「津波」を引き起こし、それによってかまぼこ天井の部屋に大量の水の層が激しく侵入し、(ヘラクレネウムの海岸に骨格を埋めた堆積物と同様に)土砂などの堆積を引き起こしました。

 オプロンティスに避難していた人々は、過熱したガス、灰、水が混ざり合った塊の下で亡くなっていきました。波の影響はおそらく、かまぼこ形の弓形天井の崩壊も引き起こしたと思われます。

 一部の部屋は製造に使用されたようで、他の部屋は物置で、上層階には家の居住区がありました。これらの状況は、発掘調査で回収された400以上のアンフォラ(陶器の器の一種で、2つの持ち手と、胴体からすぼまって長く伸びる首を有する)などから、この土地がワイン、石油、農産物の生産に専念していたことが分かります。一連の分銅の発見から、 現場で見つかった青銅製の印章は、明らかにこの建物の最後の所有者であるルシウス・クラシウス・テルティウス(L. CrassiusTertius)の名前を保持していたことに確証を与える物と思われました。

 上層階の南側部分は、おそらく所有者の居住区であり、一部の部屋には第4様式の絵画が飾られており、共和政ローマ時代(Repubulican era)からの第2様式の絵画の珍しい例も発見されています。

 注)共和政ローマ Wikipediaより
  紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの
  期間の古代ローマを指す。この時期のローマは、イタリア中部の
  都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛
  躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国
  家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798
  年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたロー
  マ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれ
  ることもある。


 注)ポンペイの壁画 第四様式  Wikipediaより
  「第四様式」または「装飾様式」はポンペイで大地震が起きた62年
  以後の様式でベスビオ火山が噴火した79年まで続いた。第三様式
  より一層装飾性が強まり、再び建築要素が多く描かれるようになっ
  た。幻想的な傾向と細かく繊細な描写、濃い色彩が特徴である。 ポ
  ンペイのウェッティの家に第四様式の作例を見ることができる。


 珍しい非常に華やかな金庫(宝石箱)がペリスタイルで見つかりました。おそらく上層階から落ちたものと思われており、中には200枚以上のコイン、宝飾品、印環(シールリング)が入っていました。これらは、後期ヘレニズム様式の典型的な銀、銅、金銅の象眼細工で細かく装飾され、19世紀まで使用されていた複雑な施錠の仕組みを備えていました。

 ヴィラの歴史の後半に、洗練された排水システムが付け加えられました。敷地の北側では、1階の部屋が再構成され、道路は再舗装されました。


オプロンティス・ギャラリー1へつづく