エントランスへはここをクリック         

富士五湖、自然と文化・歴史短訪

放光寺3 文化財
Houkouji, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

全体メニュー
放光寺1  放光寺2  放光寺3  放光寺4  放光寺5


放光寺文化財  出典:放光寺


放光寺本堂 (甲州市)  出典:放光寺

 天正10年(1582)織田信長の兵火を受け伽藍を焼失する。本堂は寺伝によると元禄年間(1688~1704)の建立。桁行九間、粱間六間、一重入母屋造、銅板葺(もと茅葺)で、禅宗の方丈型である。平面は南北に2列、東西に3列の6室からなり、南側に広縁、東西両側に入側を設けている。南面の中央は、板敷、その奥が仏間である。仏間は来迎柱前面に須弥壇が設けられ、本尊を祀る厨子が安置されている。仏間の東に並ぶ2室のうち北室は床の間と付け書院を備えた11畳で、南に15畳間がつづいている。

 さらに西に並ぶ2室のうち、北室は床の間と付け書院を備えた11畳で、南15畳間がつづく。客室の欄間に安田氏家紋「追洲流」紋様の本組を装飾にしている。建具は腰障子、襖、舞良戸であるが、よく当初のものを用いている。建物の周囲に切目縁を囲し、正面に擬宝珠高欄をつける。屋根は入母屋造で妻飾は狐格子、破風にかぶら懸魚をつける。なお須弥壇囲り付近の改造部分は資料により当初に復元が可能である。この本堂は方丈形式の本堂のなかで、江戸中期の特色を示す貴重な遺構である。(塩山市史)


木造金剛力士像 2躯



 當寺の仁王門は往古にあっては現在地から南方1キロの武士原(古くは仏師原)にあったと伝える。江戸初期の復興に伴って新しく仁王門を現在の場所に建立、仏師原から金剛力士像2躯を移した。右側の阿形像は総高263.0センチ、左の吽形像は総高264.0センチを有し、共に全身を裸出して腰部に裳をまとい、両躯とも総じて安定した姿勢を保ち、ひかえめな中にも言い知れない忿怒の相を現わしている。とくに吽形像の裳裾があたかも風になびいてまくれあがっているかのように表されているのは珍しく全国に2件同例が知られる。また両躯とも鬢だけを剃り残してもとどりを結いあげている姿は全国に例がない。

  作者については当寺に伝わる「惟肖記」に「南京彫工浄朝」と記されている。この浄朝は、鎌倉時代初頭に奈良を本拠とした奈良仏師の成朝と考えられる。京都を離れて奈良に下り、興福寺の復興につとめた大仏師である。




西藤木の水車



 本水車は、三間四面、東側は寄棟造、西側は切妻造木造建築である。大輪の下部を水路(小屋敷セギ)に直結させた押し車屋で、中には舂臼四台、臼一台がある。水車創立については不明であるが、伝承では江戸時代末期に個人が創設したものを、地域の連30名が譲り受け共同水車として「水車日割表」によって使用した。

 一人一昼夜、日の出から日の出まで使用することで運用した。世話人を立て、水車の破損、修理、公課金の支払、お日待ちを行ってきたが、連による維持が不可能となり、昭和43年3月より放光寺が管理することになった。昭和49年屋根替、昭和56年大輪の打ち直しを行った。
  この水車は江戸末期から昭和40年代まで、この地域の産業、生活向上に大きな役割を果たしてきた。従って、山梨県内においても数少ない貴重な民俗資料といえる。また、セギと共に生活していた頃の景観をよく残している。昭和54年に西藤木水車保存会が設立された。
代表は清雲俊元


放光寺4へ