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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

恵林寺2 出典:日本語Wikipedia
Erinji, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

恵林寺三門  出典: CC 表示-継承 3.0, リンクによる

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恵林寺の門前市

 恵林寺周辺は秩父往還・金山道が交差する交通・流通の要衝地で、金峰山へ向かう参詣客も多く、このため古くから市場が存在していた[7]。永禄6年(1563年)の『恵林寺領御検地日記』『恵林寺領米穀并諸納物日記』によれば、恵林寺の寺領には「三日市場」「九日市場」のふたつの市場が存在しており、定期市として開かれていた[8]。

 三日市場は恵林寺が所在する塩山小屋敷南に塩山三日市場の町名として残されている。「九日市場」については寺領内のいずれかに存在していたと見られているが、地名・伝承いずれも見られず正確な所在地は不明[9]。双方とも戦国時代に門前市として、恵林寺創建年代の鎌倉時代末期から室町時代初期には成立していたと考えられている。「三日市場」に関しては明応8年(1499年)時の存在が確認される[7]。

 『御検地日記』『諸納物日記』によれば三日市場は軒数26間半で、恵林寺に「公事」を納入する公事屋敷が14間であったという[10]。九日市場は軒数21間半で、公事屋敷が16間と記している[10]。「公事」は恵林寺の年中行事や仏事、月ごと・季節ごとに納入される公事物を指し、門前市の住民に納入が義務付けられ、恵林寺の寺院経済を支えていた[11]。市場には武田氏によって設けられた「陣屋」「御蔵」があり、年貢・公事物などが納入され、市場において銭貨と交換され、武田家の財政を支えていた。この点は徳川氏時代にも引き継がれており、塩山三日市場に所在する十組屋敷は武田家の陣屋であったという[11]。

 門前市の住民(「名請人」)は三日市場と九日市場で共通する人物がおり、恵林寺の経営に深く関わる僧であると考えられている[10]。また、武田氏の下級家臣となっている禰宜やその一族も見られる。その他の百姓も惣百姓と呼ばれる有力農民で構成されており、専業の商職人ではなく地侍・有力農民が商業に携わっている事例が多いことが甲斐国の特徴であることが指摘される[11]。

 門前市の住民は借家人であり、別に屋敷を貸し与える家持層がいたと考えられている[10]。両市場とも定期市であることから、住民は普段は農業等に従事し、市日には屋敷地において商業を行っていたと見られている[11]。

江戸時代の恵林寺

柳沢吉保(一蓮寺像)


柳沢吉保(一蓮寺像)  出典:狩野常信 - 一蓮寺所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

 江戸時代の寛文12年(1672年)は武田信玄百回忌に際して恵林寺で法要が実施され、武田遺臣の子孫である曲淵吉貸・三枝守俊らが主導して武田家ゆかりの旗本や諸大名家の家臣・浪人らから奉加を集め信玄供養塔が造立された[12]。この際に作成された『恵林寺奉加帳』には上野国館林藩家臣に柳沢安忠(形部左衛門)とその子息である弥太郎(吉保)の名が見られる[12]。

 柳沢吉保の主君である館林藩主・徳川綱吉は徳川将軍家を継承し、吉保は綱吉の「側用人」となる。さらに宝永元年(1704年)に吉保は甲府藩主となる。吉保は武田信玄を崇拝し、柳沢氏系図では柳沢家の祖を武田家に連なる一族として位置づけている。宝永2年(1705年)4月12日に吉保は恵林寺において信玄の百三十三回忌の法要を実施し、伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し自らが信玄の後継者であることを強調している[13][14]。

 また、吉保は同年に柳沢家の系譜を記した「甲斐少将松平吉保家世次第」と恵林寺へ奉納した和歌「法性院殿百三十三回忌詠歌」を作製している[14]。「甲斐少将松平吉保家世次第」では、柳沢家が甲斐源氏の始祖である源義清・清光から一条信経・時信の甲斐一条氏、さらに時信の子・時光からはじまる青木氏を経て柳沢氏に至る系譜を強調している[14]。

 「法性院殿百三十三回忌詠歌」は吉保が信玄の百三十三回忌の法要の際に奉納した和歌を記したもので、吉保が詠んだ「百あまりみそしみとせの夢の山かひありていまとふもうれしき」の歌が記されている[14]。これは、吉保が武田家に関わる歌枕である夢山(山梨県甲府市の愛宕山)の地に133年の歳月を経て訪問がかなったことを感激する内容であるとされる[14]。

 さらに、吉保は一蓮寺など甲斐国内の寺院に自身の肖像画を奉納しており、宝永7年(1710年)には黄檗宗の僧・悦峯道章(えっぽうどうしょう)を招き現在の甲府市岩窪町に永慶寺を創建している。永慶寺と恵林寺には法量・像容がほぼ同一な彫像としての柳沢吉保座像を奉納している。吉保は正徳4年(1714年)に死去し永慶寺に埋葬されたが、享保9年(1724年)に柳沢氏が大和郡山藩へ転封された際に永慶寺も大和へ移転され、吉保は恵林寺内に改葬された。吉保の子・吉里も自ら手がけた武田信玄像を恵林寺へ奉納している[13]。

 恵林寺に伝わる史料として、検地帳簿である『恵林寺領検地帳』が残されている。

近現代の恵林寺


境内にある大小切騒動殉難碑  出典: CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 明治4年(1871年)の信玄公三百回忌に際しては、山梨郡中萩原村(甲州市塩山中萩原)出身の幕臣・真下晩菘(ました ばんすう)が松本楓湖(まつもとふうこ)筆の「武田二十四将図」を奉納している。

 明治5年(1872年)には、明治政府による地租改正に際して、江戸時代以来の甲州三法のひとつである大小切税法を廃止する案が浮上し、これに対して甲府盆地の旧田安家領の村々を中心に反対運動が発生した(大小切騒動)。

 山梨県令の土肥謙蔵は当初一揆勢に対する融和路線を取っていたが、後に陸軍から派遣された兵が到着すると一転して果断な処置を行い、この時に土肥は一揆勢の村役人を恵林寺に集結させ、一度与えた黒印状を没収した。騒動はこれにより収束するが、土肥は免官により辞職し、藤村紫朗が新県令として後任として着任すると、藤村県政を展開した。

 1905年(明治38年)には火災に見舞われて壮大な堂宇の大半を焼失。その後再建され現在に至る。


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