鹿児島の神社と大クス 池田こみち 掲載日:2014年6月7日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
真夏日が続く5月末の5日間、鹿児島県薩摩川内市に出かけた。 2012年6月に災害瓦礫広域処理の問題で鹿児島市内での講演を行うために立ち寄って以来2年ぶりの帰郷となる。 鹿児島県 薩摩川内市 出典:グーグルマップ ◆鹿児島の神社と大クス 今回の4泊5日の薩摩川内市訪問の間、3カ所の神社にお参りした。一つは、地元薩摩川内市の中心にある新田神社、もうひとつは紫尾温泉の紫尾神社そして空港へ向かう途中に立ち寄った蒲生八幡神社である。 この季節、どの神社もうっそうとしたクスノキの森に覆われていて一層神々しい佇まいを見せている。 ●新田神社(にったじんしゃ) 新田神社という神社は都内にもあり、多くは新田義貞及びその系譜を祀った神社であるが、薩摩川内市の新田神社はそれとは異なり、薩摩国一宮としてこの地域の中心的な神社に格づけられている。かつては八幡五所別宮の一つとして八幡神を祀っていた為、別に「新田八幡宮」・「八幡新田宮」・「川内八幡宮」・「一宮八幡」・「新田明神」等とも呼ばれる。 薩摩川内市の中心部から2〜3km、川内川河口から9kmの市街地にあり、すぐ隣には、中越パルプ工業の工場がある。ただ、そこだけお臍のように、というか、古墳のように小高く盛り上がった神亀山(高さ70m)の山頂にあるため、緑豊かで神秘な雰囲気を今も漂わせている。 図1 新田神社の位置 グーグルマップより nitta-shrine-map.jpg お祀りしているは「邇邇杵尊」(ニニギノミコト)。6月の御田植祭で奉納される「棒踊り」「奴踊り」は県の無形民俗文化財に指定されている。 写真1−1 新田神社 大クスと看板(縦型) 写真1−2 新田神社 看板アップ 写真1−3 新田神社 拝殿 写真1−4 新田神社 舞殿と本殿 新田神社の社殿に上る石段の途中には御神木のクスなど緑が茂り、緑陰をつくっている。石段は300段を 数える。拝殿近くまで車で登れるので、体力に応じて石段を歩くことも可能。 写真2−1:新田神社の石段 写真2−2:同上 また、隣接している 可愛山陵(えのやまのみささぎ)は、神代三山陵の一つにあげられ、明治7年7月にニニギノミ コトの墳墓と指定され宮内庁直轄で管理されている。新田神社にも可愛山稜にも菊のご紋がついていることがそれを表している。 写真3−1 :可愛山稜の宮内庁の看板 写真3−2 :可愛山稜の前掲 今回は84歳の叔母を連れていたが2/3くらい階段を登ってお参りした。下の写真は叔母が石段の途中で大クスを見上げているところ。 写真4 紫尾神社のクスノキを見上げる叔母 紫尾神社は、薩摩川内市から北東方向に約40kmほど川内川に沿ってさかのぼた薩摩郡さつま町紫尾にある。まさに、紫尾温泉の源泉がこの神社の拝殿下からわき出しており、神社より紫尾温泉がその泉質がすばらしいことで有名である。 拝殿の下から温泉が湧き出していることから、紫尾温泉は別名「神の湯」とも呼ばれ、400年以上も豊富な湯量は変わらない泉源だという。 <紫尾神社について(Webサイトより> 入口には台輪鳥居と、「元県社紫尾神社」と金字で書かれた社号標が立っている。境内は奥に広く左側には深い鎮守の杜がある。 写真5 紫尾神社境内 手水舎には身体をくねらせた巨大な龍の口から温泉が湧き出でている。 写真6 龍の手水 妻入りの拝殿と覆屋と本殿は、年輪を重ねた趣のある風情を感じさせる。 鎮守の杜内には境内社の紫尾天神社、市指定文化財・方柱石塔婆、史跡・空覚塔等があり、この社の歴史の深さを垣間見せている。拝殿の賽銭箱には領主島津家の紋丸に十が記されている。 写真7 紫尾神社 拝殿 写真8 紫尾神社 参拝 【由緒】 祭神には天津彦瓊々杵尊(霧島神宮、新田神社、可愛山稜)、天津火火出見尊(鹿児島神宮、高屋山稜)、鵜茅葺不合尊(鵜戸神宮、吾平山稜)の神代三代を 祀る県神社神社庁三級社、郡内では新田神社の次である。 古くは直接幕府将軍の祀る所であって、後国府(島津)が祭祀に当り特に山野、永野両金山を教え賜し神社であった。明治の御代に成り5年に県社に列せられ尊崇され繁栄した。第46代孝謙天皇天平勝宝、今から1251年前、祁答院 九ヶ郷の宗社として毎年9月29日御例祭日で奉幣使巡拝され祭祀が行われており、当日は祁答院地方は無論県下全域から参拝者が多く紫尾山路は行列を作る賑わいであった。古老の話によれば、特に永野金山を始め鉱山関係の人達の参拝はあとをたたなかったと言われている。(「境内神社略記」より) 写真9 紫尾神社略記 立て札 出典:紫尾神社 http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/kagosima/satsumagun/shibi/shibi.html ひっそりとした佇まいはどの神社も同じだが、この神社のご神木であるアラカシは神社の裏手にあり、クスノキやヒノキとは違った畏敬を放っていた。 写真10 ご神木 ●最後に蒲生の大クス 5月30日の土曜日、薩摩川内市から鹿児島空港までは県道42号を通って従姉妹に送ってもらうことにした。叔母が初めてというので、途中、蒲生の大クスを見学することにした。鹿児島ならではの大楠である。東京の桜田門にある警視庁に植えられた楠は鹿児島から運ばれたと言われている。 <日本一の巨木:蒲生の大楠> 蒲生八幡神社境内にそびえ立つ大楠は、樹齢約1,500年、根周り33.5メートル、目通り幹囲24.22メートル、高さ約30メートルと日本で一番大きな楠です。環境庁が昭和63年に実施した巨樹・巨木林調査で、正真正銘日本一に認定されています。 蒲生八幡神社が建立された1123年にすでに大木であったことから考えても、樹齢千年を超える堂々たる老木です。樹根部分には、大きな空洞があり、下から見上げる壮大さと、地にどっしりと根をはった力強さは、神秘的で不思議な感覚を抱かせてくれます。毎年11月第3日曜日には秋まつりが開催され、太鼓演奏の音が周囲に響きわたります。 出典:鹿児島県観光サイトより 写真11:蒲生の大クス前で記念撮影 写真12:蒲生の大クス前で記念撮影 なお、蒲生八幡神社の歴史は以下の通りである。(Wikipediaより) 藤原氏北家教通流の分出とされる蒲生(かもう)氏の初代当主舜清(ちかきよ)が保安4年(1123年)に大隅国へ下向、生母が宇佐八幡宮の宮司家出身であった縁で同宮から勧請して創祀したという。戦国時代、島津氏との激しい戦いの末に蒲生氏は敗れて島津氏の軍門に下り、弘治3年(1557年)他地に退去させられた。その後島津義弘により社殿が再建される。また元和4年(1618年)12月には義弘から鳥居と額が奉建されたともされる。 昭和60年(1985年)、台風13号の被害により社殿は大破し、現在の社殿はその後再建したものである。また、台風被害の翌年から「蒲生八幡神社」と改名した。2008年頃から社務所を鳥居の近くより社殿左に移転している。 かくして、鹿児島県内三カ所の神社をまわり、お参りすると共に、それぞれご神木として大切に育てられてきたクスノキや樫の木に触れ、癒やしとともに、なにがしかの霊験にも触れることができたような気がした。 つづく |