日韓<近代>歴史探訪 〜韓国・独立記念館〜 青山貞一 掲載月日:2006年3月30日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
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今回(2006年3月)のソウル訪問では、昨年(2005年2月)訪問したとき西大門刑務所歴史館を通訳として案内してくれたソウル大学の女子学生からその存在を知らされていた韓国・独立記念館に行ってみた。 私がソウル特別市で宿泊したソウル観光ホテルは、市の中心部、交通の要所にある。市議会や市役所に近い鐘閣と言う地下鉄駅から数分のところにある。 現地調査の合間をぬって、独立記念館に行くこととした。 だが、独立記念館の場所は、昨年行ったソウル南部の世界遺産都市、水原よりさらに南、ソウルからバスで2時間以上かかると言う。 かなり遠そうだ。 ホテルのフロントで聞く。独立記念館に近い列車の駅、天安には宿泊先ホテル近くにある鐘閣駅から列車が出ているという。何と、地下鉄が天安駅まで乗り入れているという。ただ、天安駅までは片道で約1時間30分はかかるといわれた。実際、以下の地図でみると天安は水原よりかなり遠い。 ※正式な場所は忠清南道天安市木川面南化里230 行く先の天安 ソウル特別市に都合6年すんでいると言う知人の日本人(日韓米問題研究者)に独立記念館に話したら、自分も行ってみたいということになった。彼によれば、独立記念館には昔一度行ったことがある。しかし、その後どうなったかを知りたい、とのことで二人ででかけたることになった。 鐘閣駅で切符を買う。どういうわけか韓国の電車、列車の乗車料金は、やたら安い。昨年、ソウルから北朝鮮(DPRK)に韓国側で最も近い場所に行ったときも(以下の写真参照)やたら安かったが、今回も1時間30分以上乗るにもかかわらず日本ではおよそ考えられないほど安かった。
鐘閣駅で乗った地下鉄が乗り入れている忠清南道天安市の天安駅には、いわれたとおりおよそ1時間30分で到着した。天安駅は思ったより大きな駅だ。駅前の食堂で食事をとる。案内所で記念館への行き方を聞く。路線バスの300と400番台が記念館に行くと教えてくれた。これを聞き出すだけでも結構大変。 ソウルはもとより韓国各地には、実に多くの路線バス、長距離バスがある。行き方と路線番号さえ分かればバスは安くてそこそこ早く便利だ。 バスを待つ。 なかなか独立記念館方面のバスがこない。そうこうしているうちに、やっと400番台のバスが来たので、乗る。えらく混んでいる。東京の満員電車並だ。 バスに30分以上ゆられやっと独立記念館前に到着。すごく、だだっ広い。訪問者の圧倒的多くは韓国人、当日、日本人は私たち二人以外合わなかったが,なぜかドイツから来たと言う男女に会った。 バス停から見た独立記念館。2つ立っている搭がシンボルである。 何しろ敷地は広大。記念館の入り口にたどりつくだけでもかなりの距離を歩く。 下の写真は独立記念館の入り口にある大きな建物、「キョーレの家」。 キョレーの家 この韓国・独立記念館(韓国語でトンニプ キニョムグァン)は1982年から建設のための資金を国民から募金で集めたという。5年間の建設工事の末、1987年8月15日に竣工しオープンしたそうだ。 これについては、設立目的と沿革が詳しい。 キョレーの家入り口 オープニングの日が8月15日であるのは、韓国が日本から独立した記念日が8月15日であるからとのこと。8月15日と言えば、日本では終戦記念日である。 その記念館は実に400万平方mという広大な敷地をもっている。その敷地に、第1号から第7号まで、年代を追って、展示館がある。7つで全体が構成されているわけだ。 案内によれば、韓国・記念館は、その設立は「自主と独立を守り通した韓民族の歴史と文化、特に、国難克服史、及び日本帝国主義の侵略に対抗した独立運動、そして、国家発展に関する資料を収集、展示、研究することにより、国民の強固な民族精神を打ち立て、人類平和に貢献することを目的としている」ということになる。 実際独立記念館は、韓国の小中高等学生など子供達の歴史教育の場となっている。私たちが訪問した日も韓国各地の学校から社会科勉強なり遠足で多くの子供たちが記念館を見学していた。実際、韓国から私がいる大学に来ている留学生に記念館にことを聞いたことがあるが、遠足などで行ったことがあるといっていた。 入場料は大人が2000ウオン,240円ほどだ。 入場券 記念館には年代を追って韓国の歴史にかかわる写真、資料、実物、レプリカ,模型等が展示されているが、共通となっているテーマは日本が朝鮮半島に行ってきた侵略,統治の具体的な史実とその内容である。韓国流に言えば、これは日帝が韓国,朝鮮半島に対し何をしてきたかを物語る歴史館でもある。 展示はには通常の写真,資料展示の他に、ビデオプロジェクターと5.1chなど映画館並みの音響装置を備えたドキュメント映画、ビデオ、模型、彫刻、彫像など多彩である。音声はすべて韓国語(ハングル)なので、残念ながら内容はわからない。 以下の写真は、一般的な展示コーナーをうつしたものだ。相当、お金をかけ、しっかりとした施設,設備である。 記念館内の一般展示 これら記念館における展示概要は、以下のサイバー展示館に詳しく紹介されている。ぜひ、一度、サイバー展示館をクリックして欲しい。 サイバー展示館は、IT技術を駆使した秀逸なものである。同記念館に所蔵・展示されている各種資料は、ホームページからも多重な条件を設定して検索が可能である。 サイバー展示館の例(第3号館) さて肝心な展示の内容だが、冒頭に述べたように、現在、この独立記念館の展示は、時代区分としては近代、独立の対象としては、日本が大きなテーマとなっている。さらに日本との関係では総督府、創氏改名、従軍慰安婦、強制連行、また韓国臨時政府樹立などが大きなテーマとなっている。 日本の為政者の多くは、いかにして、この歴史的史実を水に流すかに奔走してきたかといえる。一方、韓国の歴代の為政者は、これらの史実をいかに石に刻み残すかに尽力してきたといえる。 そのひとつの集大成がこの独立記念館といえるのではないか。そんなことを考えながら、見て回った。簡単に言えば、他人の足を踏んだ側はすぐにそれを忘れるが、踏んずけられた側は,一生、その痛さを覚えていて忘れない、わけだ。 したがって、いくら日本側が反日教育の砦としてこの記念館を為政者が利用しているなどと繰り返しても、韓国側にとっては、冗談じゃないということになる。 ところで展示物のなかには、西大門刑務所ほどではないが、日本による韓国人への拷問がかなり詳しく生々しく示されている。西大門を昨年見学してきたので、この展示にショックを受けなかったが、はじめて見る地方から来た子供たちには大きなショックとなるにちがいない。 下にそのうちのいつくかを。示すいずれもロウ人形でできており生々しい。西大門刑務所と横長の小さな窓(スリット)からそれらを覗けるようになっている。 西大門刑務所同様の展示も 西大門刑務所同様の展示も 展示物の中には、今まで見たことがない数々の写真展示もあった。 写真展示の例 以下はその一例。とくに心を痛めるのは、独立運動にかかわったとされる韓国のひとびとを日本軍の兵が鉄砲で殺害する写真である。 生々しい写真の数々 生々しい写真の数々 私が記念館で強く感じたのは、植民地とした朝鮮から日本が強制連行や強制徴兵し、戦争やその準備にかり出したとされることだ。 その数は、日本に連行しただけでも70万人と推定されているが、そのなかにはいわゆる慰安婦や軍属などとして戦場に連れ出された朝鮮半島のひとびとも含まれる。創氏改名や(従軍)慰安婦問題が今なお日韓における大きな戦争の傷跡、課題となっていることは言を待たない。が、それらが単なる話ではなく、数々の証拠とともに展示されているところにこの記念館の存在する意味と価値があるのだろう。 日本総統府のもとで行われた日韓併合、創氏改名、日本語教育による国民学校開設、神社設置.......、その上での朝鮮半島のひとびとへの兵士、軍属、従軍慰安婦としての戦場への強制連行、強制徴兵などが数々の文書、写真などによって証拠づけられている。 1946年11月に生まれた私には、上記についての直接的な現地体験はないが、これらのことが、いかに朝鮮半島のひとびとにとって屈辱,汚辱に満ちたものであったかは、想像に難くない。 それは物理的な強制とは別に、韓国、朝鮮のひとびとへの創氏改名や日本語教育など精神的な強制が、いかに屈折した人間の社会的関係を韓国人らにもたらしたかが問題である。日本語が流暢となったばっかりに、日本軍の手先として重用され、結果的に多くの韓国人を死に追いやったか、など。 これらについては、友人の東京新聞記者、佐藤直子さんらが当初、東京新聞の連載に、その後「あの戦争と伝えたい」(東京新聞社会部編、岩波書店発行)としてまとめられ本となっている。いずれも現地インタビューが秀逸である。 たとえば、加害と向き合う:韓国編: (1)”傷”うずく日本名、(2)皇民を強要した学舎、(3)苦学の日本語が「恨」に同著をあわせて見ると、非常にリアリティーが増す、など。これらは佐藤直子さんが現地取材、インタビューした上で書かれている。 いずれにしても、日本人である私たちが、「日本人拉致事件」を問題にするとき、常に自らの過去を問い直す姿勢が必要だと感じた。 植民地とした朝鮮から、最低70万人の朝鮮人を強制的に日本に連行し、あるいは慰安婦や軍属などとして戦場に連れて行ったとされることをどう金銭面だけでなく、精神面でつぐなうかという問題である。 この問題に日本政府は半世紀以上が経つにもかかわらず、満足な調査もしていない。また謝罪も補償も行っていない。拉致され、家族と引き裂かれた被害者の苦しみ、悲しみを思うなら、自らの過去をも振り返り、悔い、反省するべきであろう。 ところで展示館がとくに力をいれて展示しているものとして、三.一独立運動がある。 この三・一独立運動)は、日本統治下の朝鮮で起こった独立運動であり、1919年3月1日に起こったことからこう呼ばれる。独立万歳運動ともいわれ、韓国では三一節として毎年3月1日は祝日に指定されている。 ウィキペディア(Wikipedia)によれば、この三.一独立運動の経緯と結果は次のとおり。
また、記念館では、伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)についてもかなりのスペースを取り展示している。
以下は、現在の独立記念館における展示の時代考証区分と主な史実テーマである。同行した知人によると以前は古代から近代、現代までが展示の時代区分だったが現在は、近代を大きくクローズアップし、その他は第1号館で概括するにとどまっている。
独立記念館には多数の屋外展示がある。 たとえば、ソウルにあった日本の朝鮮総督府建築物を破壊した後の撤去部材を公園として展示している。以下は有名な朝鮮総督府の図である。 今は破壊され実物はない日本の朝鮮総督府(京城、現在のソウル市)。 この総督府は、日本による朝鮮半島統治,支配のいわばシンボル。 その一部が独立記念館に展示されている。これに似た総督府が台北 特別市にもある。こちらでは一部が保存利用され展示されている。
時間にして2時間ちょっと、ざっとであるが見学した。 帰りは来た道をバスで平安駅まで行く。平安駅では何らかの事故があったのか、出発が30分ほど遅れると言う。待って乗った電車は、さらに30分遅れた。帰りは行きより都合1時間余計にかかった。すごく疲れた一日だったが,体感的に同時にすごく勉強になった。韓国人、朝鮮人の怨念、怒りが分かったというだけでなく、歴史を記すということの大切さ、それも史実と証拠を持って記すことの大切さが良く分かる。もちろん、すべてをうのみとすべきではないが、まずは体感することの意味と価値は大きい。 とかくこの種の問題では、事実ないし事実認識そっちのけで、自分の思想や価値判断でいいたいことをいう、あるいは分かったようなことをマスコミを通じて述べる日本人が多い。しかし、それらのひとびとが最低限しなければならないことは、相手の国の言葉を学び、その上で史実を読み,見、さらに相手の国のひとびとと腰を交えて話すことである。 それなくして、いくら日本の地にいながら、ただ一方的に言いたいことを話し、書いても何にもならない、と強く感じた。 独立記念館の展示はごくごく一部の日本語と英語による説明を除き、大部分は韓国語(ハングル)である。韓国人の歴史教育のために設立されたのだから当然であり、仕方がないが、歴史観の展示物の多くは,日本人にこそみてらうべきだと思った。その意味で、ぜひ、ぜひ、展示物への日本語表記もお願いしたいものである。 逆にこれを機にハングルを勉強しようとも思った。記念館からホテルの帰る列車の中で同行してくれたNさんにハングルの基本を教えてもらう。 次にくるときは、何とか韓国語を直接読みたいと思った。そして再度、この独立記念館に来て見たいと思った次第である。 追記 4月3日、大学の新学期のオリエンテーションで学生、院生が登校してきた。駅でソウルで現地調査を行った大学院が声をかけてきた。すでに彼はこのコラム(ブログ)をしっかりと読んでくれていた。もともと、彼と一緒に独立記念館に行く予定だったが、調査日程の都合、彼はソウルで交通量調査をすることとなり、私は友人と一緒に出かけた。 韓国・独立記念館案内
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