エントランスへはここをクリック   

変化と改革

佐藤清文
Seibun Satow

2007年2月14日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「変化は伝統を変えない。それを強めるものである」。

フィリップ王子

 2007年2月12日22:10〜23:00にNHK・ BS1で、『未来への提言』シリーズ第8回「 元教育大臣 オッリペッカ・ヘイノネン 〜フィンランド学力世界一の秘密〜」が放映されました。

 現在、フィンランドは、3年おきに実施されるOECDによる学習到達度調査の結果、学力世界一として知られています。すでに拙稿「競争と協同」でも言及している通り、平均点、優秀な学力の生徒の比率、学力格差、学校間格差といずれもトップでした。しかも、フィンランドは、「落ちこぼれも作らない」をモットーに、協同学習を採用し、能力別編成も、個別指導も、エリート教育も行っていません。教育における質と平等を両立させているのです。

 こうした教育水準の高さに支えられ、携帯電話など情報機器産業を中心に世界でも上位の国際競争力を保持しています。

 しかし、91年から93年にかけて、フィンランドは、主要な貿易相手国だったソ連の崩壊に伴い、危機的な経済状況に陥ります。失業率は20%に及ぶほどでした。この状態から脱却するには、将来への投資として教育に力を入れるべきだと中央党を中心とした連立政権は判断し、意欲的な教育改革に踏み切ったのです。

 そこで、1994年、教育大臣に抜擢されたのが当時29歳のオッリペッカ・ヘイノネン(Olli-Pekka Heinonen)です。国民連合(KOK: Kansallinen Kokoomus)所属の彼は、91年から94年まで、教育大臣の特別アドバイザーを務め、その有能さは周知でした。1964年6月25日生まれの新大臣は教育における中央統制を緩和し、現場に大幅な自治権を認めまたのです。この中学校の元パートタイム教師は、フィンランドにはすでに蓄積された長所があり、それをうまく生かすことが改革の主眼だと考えていたのです。自由により教師や生徒はモーティベーションを高められ、教育の場を活性化するのです。

 5年間在職したこの改革者は、教育の目標を知識の詰めこみと見なしてはいません。現代社会は変化の速度が速く、また膨大な量の情報が氾濫しています。変化は予測のつかないものであると同時に終わりのないものですから、それに対応するには、「生涯にわたって学習する能力を身につけ」、「自分で考える力」に基づく「洞察」が不可欠です。そこで、変化や情報が何を意味しているのかを読み解くリテラシー能力、ならびにネットワークを利用し、新たに形成するコミュニケーション能力を育てなければなりません。

 ここでは詳細に触れませんが、おそらく再放送があると思われますので、見逃した方はご覧になってください。

 なお、ヘイノネンは、教育大臣の後、1999年、運輸通信大臣に就任しました。2001年11月15日には、片山虎之助総務相との間で、第三世代携帯電話における端末や携帯インターネットサービスに関する仕様標準化を両国で進めることに合意したと発表しています。現在は国営放送の役員の職にあります。

 日本の教育改革は、驚くほど、フィンランドと反対です。何よりも中央統制を強化し、現場の自治権などもってのほかだと言わんばかりです。安倍晋三内閣総理大臣の主導する教育改革は教育再生会議が示している通りです。経団連のみ御手洗ビジョンもそのヴァリエーションにすぎません。また、地方自治体でも、石原慎太郎東京都知事のように、権威主義の傾向が見られます。フィンランドの教育政策は現代社会観が明確で、それに沿って目標が立てられていますが、日本では、指導者の気になる欠点を矯正することが改革の主眼になっているのです。変化に追従したり、情報に振り回されたりする人を育てるだけです。世界的に最も恥ずかしい教育改革と言っていいでしょう。

 もちろん、この矯正主義は政治家だけでなく、教師自身にも見られます。それどころか、ありとあらゆるところで経験する傾向なのです。野茂英雄がバファローズに入団したときジャイアンツでなくてよかったという安堵の声がプロ野球ファンの間からよく聞こえたものです。あそこは型にはめて素晴らしい才能を台無しにしてきたことで知られてたからです。他方、選手の個性を尊重する仰木彬や権藤博なら、長所を伸ばす指導をしてくれると思われていました。彼らなら角を矯めて牛を殺すことはしないというわけです。

 しかし、強制主義の教育は変化への対応には不向きです。元凶を見出し、それを矯正すれば、よくなるというのは極めて安易な決定論であり、変化を前提にしていません。90年代以降、政治家やメディアは「改革」を騒ぎ立ててきました。しかし、それらはどうやって長所を伸ばすではなく、「1日に納豆2パックを食べればやせる」の論理の構造と同じです。変化を踏まえた改革ではなかったのです。変化が押し寄せれば寄せるほど、納豆ダイエットのような決定論を求めるのは悪い癖です。「改革」自体が目的であり、手段ではなかったのですから、今までの「改革」で世の中がよくなったと感じている人は少ないに違いありません。にもかかわらず、相変わらず同じ発想に立脚した「改革」を政府は唱えています。「自分で考える力」ためのリテラシーとコミュニケーションを高める教育が望まれているのです。まさか、タウン・ミーティングのやらせや企業の不正表示、メディアの捏造番組のいずれも日本の伝統ある長所と思っている人はいないでしょう。

〈了〉


参考文献
NHK情報ネットワーク、「未来への提言」
http://www.nhk-jn.co.jp/002bangumi/topics/2007/011/011.htm