連載 佐藤清文コラム 第34回 地方結社と私擬憲法 佐藤清文 Seibun Satow 2007年4月15日 無断転載禁 本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。 |
「明治憲法だって、ドイツに外注したようなもの。自分たちでつくったと思いこんだら窮屈。気楽の出来不出来を言い合えるほうが楽しい」。 森毅『憲法は外注がよい』 日本の民衆は憲法をつくるのが好きでした。明治時代、1889年の大日本帝国憲法発布の前に、役人や政治家だけでなく、民間(団体・個人)による数多くの憲法草案、すなわち私擬憲法が起草されました。最も古い私擬憲法は青木周蔵の起草による大日本政規(1872年)とされ、現在まで、それらは90以上がその存在を確認されています。 国会の憲法調査会でもこれらは検討され、以下のように要約されています。 これら一連の私擬憲法は、大日本帝国憲法の制定に際して政府側の受容するところとはならなかったが、その内容においてもすべての案が「我建國の體」に基づきつつ「廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌」するかたちで立憲政体を構想している点において、明治初期の政府による「政體書」や元老院による「日本國憲按」などと相通じる部分も多く、また、起草者の中には政府関係者も決して少なくない人数が含まれていた。 明治10年代前半、日本各地で、自由民権運動が盛り上がりを見せました。その最大の目標は国会の開設です。1880年(明治13年)から翌年にかけて、それは最高潮に達しました。 国会開設運動を主に担っていたのが、民間の人々が結成した地方の結社です。政府に国会の開設を要求するだけでなく、憲法草案を起草しています。これらの団体は「政社」とも呼ばれますが、政治を目的としていたのではありません。むしろ、地域に根ざした文化活動の会だったのです。 おそらく、最も有名な政社は高知の立志社でしょう。1874年、板垣退助や片岡健吉、植木枝盛、林有造らにより設立されています。天賦人権を宣言して、「人民の知識の開達・気風の養成・福祉の上進・自由進捗」を目的として掲げました。人民主権や一院制議会、人権保障などを掲げた「日本憲法見込案」を発表しています。『海南新誌』・『土陽雑誌』・『土陽新聞』を発行し、また立志学舎で近代を見据えた教育を行い、民権思想の普及に努めています。 また、今の京都府宮津市で設立された天橋義塾は地域の図書館としての役割を果たしていました。沢辺正修が中心となって「大日本帝国憲法」を起草しています。1875年の創立当初は士族の子弟への教育を目的としていましたが、後に、一般にも開放されました。この塾は新聞ならびに和・漢・洋訳書など約4000冊の書籍を備え、地域の人々に閲覧や貸し出しを行っています。 私擬憲法の中で、今日最も評価の高いのは五日市学芸講談会による「日本帝国憲法」とされています。 現在の東京都あきる野市で活動した五日市学芸講談会は、会員の「知識の交換と知識の進歩」を目的として、演説会や討論会、読書会、講師を招いての公開講演会を催しています。この会は政治問題を議論することを禁止していました。あくまで学びの場だったのです。けれども、憲法は当時の最も注目される政治課題であるものの、学術上の問題として論じていたのです。会は、千葉卓三郎が中心となり、「日本帝国憲法」を作成しました。 この千葉卓三郎(1852〜1883)という人物の軌跡には、ある種、近代日本の歴史が色濃く反映されています。彼は仙台藩の下級武士の子として生まれ、17歳の時、旧幕府軍の一員として戊辰戦争に従軍しています。戦後、各地を転々とし、今の小学校に相当する五日市勧能学校に訓導として勤務します。自由民権運動の勃興する1880年、彼は武蔵多摩郡深沢村の山林地主の深沢名生(なおまる)・権八(ごんぱち)と出会い、五日市学芸講談会を結成します。 この憲法は驚くほど先進的です。基本的人権の点では、日本国憲法に近いだけでなく、外国籍の人権保障や人格権まで盛りこまれています。 しかし、私擬の起草者の中に後の政府関係者がいたとしても、これらの私擬憲法はほとんど大日本帝国憲法には生かされませんでした。 自由民権運動は、政府にとって、反体制運動でした。彼らは運動を弾圧し続けます。日本の民衆がお上頼みだというイメージは、この歴史を見る限り、後につくられたものでしかありません。明治14年の政変で、伊藤博文や岩倉具視ら薩長派政府首脳は、自由民権派の考えに近い大隈重信を追放します。その結果、私擬憲法と比べて、著しく保守的な大日本帝国憲法が制定することとなります。それは下からの視点は非常に希薄です。 このような保守的な憲法が選択されたことには、さまざまな言い訳はあることでしょう。しかし、日本国憲法制定の際にも、政治家たちは古風な案しか起草できていないのです。各政党の提示した草案は国民主権さえも書きこまれておらず、日本共産党案に見るべきものがある以外は、私擬憲法と比較にならないほどのアナクロニズムに満ちています。上からの視点しかないのです。日本の政治家には、憲法を起草する能力に欠けているのではないかとため息が出てしまいます。少なくとも、憲法起草に関しては、民衆の方が上です。 戦後、新しい憲法が制定されると知ったとき、明治時代と同様、日本の民衆は勉強会や討論会を始め、憲法草案を起草しました。GHQの憲法起草メンバーはそうした民間のアイデアを相当取り入れています。変えるのではなく、定着することが目的ですから、民衆の声を反映させるのは当然です。現行の日本国憲法は一度は抹殺された私擬憲法の復活、自由民権運動の夢の具現化とも言えるのです。 近代日本の政治権力は、国内においては、自由民権運動的なものを攻撃・抑圧することで、受動的・反動的に、正当性・アイデンティティを確認してきました。為政者は自由民権運動的なものに依存しているのです。大正デモクラシーや戦後民主主義は自由民権運動の継承です。実は、こちらが近代政治思想の本流です。歴史的に見て、彼らの主張の方が時代の流れに沿っていました。 今回、国会で繰り広げられた憲法論議は、歴史を振り返ってみると、おかしな事態です。下からわきあがってきたものたわけではないからです。安倍信三内閣総理大臣の5月3日までに成立させて欲しいという指示に従い、2007年4月13日、政府・与党は憲法改正のための粗雑な国民投票法案を強引に衆議院を通過させました。夏の参議院議員選挙に向けて、自らの成果とする目的が安倍首相にあると見られています。自分の手柄のために憲法の利用を目論んだ内閣総理大臣は彼が憲政史上初です。自分より長く生きている憲法に対してずいぶんと失礼な態度です。 民間の地域結社があれほど革新的な憲法を起草できたのは、彼らが文化活動の中から行ったからです。政治は文化と切り離すことができないどころか、それに立脚しているものです。それは下からの視点によって憲法を考えるということを意味するだけではありません。文化の時間は政治の時間より長期的な展望が必要なのです。 どうも人聞は、いくつもの時間を生きるよりないような気がする。まず、政治の時間。べつに政治家でなくても、どちらに踏みきるかを考えねばならぬが、それは案外に短くて一年か三年、せいぜいが五年くらいのものだろう。新聞の納刷版を眺めてみると、大騒ぎしていたことが、十年もするといまとずいぶん印象が違うように思う。五年前のことだって、すっかり忘れて生きている。 つぎに経営の時間。これは五年か十年くらいのものだろう。会社だって大学だって、その程度の見通しがないとやっていけぬ。政治の時間だと、一年とか三年とかの風の動きを的確にとらえねばならぬが、それだけでは風にふりまわされる。ある種の持続性があって見極めねばなるまい。そのなかで現在を考えるよりない。 そして文化の時間は、十年から二十年は考えたほうがよい。人間だって家だって、そして社会の制度だって、そのスタイルが文化として成熟するのに十年以上かかる。 (森毅『改革の時代の時間感覚』) 文化という観点から憲法を考えるということが必要です。憲法というものは「政治の時間」ではなく、「文化の時間」で生きられます。日本国憲法公布の11月3日が「文化の日」であることを見逃してはならないのです。 〈了〉 参考文献 天川晃=御厨貴、『日本政治史─20世紀の日本政治』、放送大学教育振興会、2003年 今西一、『近代日本成立期の民衆運動』、柏書房、1991年 色川大吉他、『民衆憲法の創造』、評論社、1970年 江村栄一、『憲法構想』、岩波書店、1989年 古関彰一、『新憲法の誕生』、中公文庫、1995年 森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006年 米原謙、『植木枝盛』、中公新書、1992年 衆議院憲法調査会事務局、「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料 (明治憲法の制定過程について)」、2002年 http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/ 佐藤清文、「日本国憲法と松本烝治」 http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/sato-col0003.html
|