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本質的思考

第四章 それが何であり得るか

佐藤清文

Seibun Satow

2010年4月28日


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第4章 それが何であり得るか

 分析は実態認識であって、提案ではない。しかし、分析が浮き彫りにした諸課題を検討することで、それが何であり得るかを指し示す。分析は本質的思考に欠かせない。具体的な例を挙げて考えてみよう。

 その性質上、どうしても主観性に依存せざるを得ない対象もある。定性分析は、本来、こういった対象に使うべきだ。その好例がセクシャル・ハラスメントである。

 「セクハラ・パワハラ問題ドットネットは、セクハラを次のように定義している。

1.企業内や学校内等での、権力的な上下関係により行われる性的な言動

2.それにより、行為を受けた側が苦痛・不快感を伴う事(受けた側の主観を重視)

3.又は、それにより就業環境・学習環境などが悪化する事

 これを「性犯罪」と概念変更をすれば、主観性の入りこむ余地はなくなる。主観性被依存型定義の概念なら、定量分析をさまざまな角度から用いることができる。けれども、そうなると、「企業内や学校内等での、権力的な上下関係により行われる」や「それにより就業環境・学習環境などが悪化する」というセクハラ固有の問題性が見失われてしまう。

 また、セクハラには性犯罪として刑法適用範囲に含まれる部分もあるけれども、言葉による苦痛・不快感あり、これは刑法には馴染まない。主観性を刑法が問題にするということは、公権力による私的領域の干渉であり、公私の分離という近代の原則をないがしろにしていることを意味する。性的な言い回しをされた際に、それを民事の名誉毀損として訴えることもできるだろうが、立証するのには困難が伴う場合も多く、起訴されるかどうかも不透明である。

 諸子百家の法家の説く法は君主が民衆を管理・統制するための手段であったが、近代刑法の精神は権力者への行使の制限である。被疑者には取調段階で黙秘権が認められ、公判では検察側に立証責任がある。日本の刑法は罪刑法定主義をとっている。

 法制定以前に遡って適用することはできない。権力行使を伴うので、刑法は適用範囲を厳密にしておかなければならない。事後的に制定されるものであり、多少は事前抑止も加味している場合もあるが、想定外の犯罪には十分に対処できない。

 法令は総合的な法体系に位置づけられており、一つをいじれば、他との整合性も再構築しなければならない。人道的配慮から裁判で技術的な解釈の可能性はあるが、いずれにせよ、事件を社会上で相対化して個々の判決が下されるのであり、あまりに無理をすれば法の下の平等に反する。

 だからと言って、放置しておいては、学校で学業、職場で仕事ができなくなる人が相次ぐ。セクハラでは、被害者は加害者のみならず、組織とも対峙することになる。

 個人で対処するには限度がある。法廷に持ちこむべきと思われるケースはともかく、セクハラは法令ではなく、むしろ、各組織体において倫理規定として周知徹底させる方が適している。倫理規定であれば、まだ起きていない事態も予測して検討できる。

 定量データの共有は容易だが、定性データでは難しい。個別性が強いので、他にそのままでは応用できない。弁護士やNPO、学者など専門家が多様な視点から吟味して、討議を通じてガイドラインを作成し、組織体の人々にモデル・テストを繰り返すことで、セクハラに関する理解を共有できるようにする。

 各種のコミュニケーションを用いてセクハラの防止・対処を講ずる。
 さらに、マスメディアがセクハラの問題を報道し、態勢が未整備の組織体も依然としてあるので、被害にあったら、弁護士やNPOに相談するよう呼びかける啓蒙活動も不可欠である。セクハラ問題を社会で共有することにより、人々の意識が変わる。

 セクハラが何であるかは定義や相対化、具体的な分析を通じて明確化され、そこから被害者に肉体的・精神的なダメージを与え、男女共同参画社会、すなわち共生社会の実現を阻害する危険性が顕在化する。セクハラの場合、何であり得るかは可能性ではなく、危険性である。

 セクハラを始めとして主観性の尊重が各方面で認められるようになってきている。これにはいくつかの理由があろう。その一つとして、経済成長を経て、1970年代から、多様性や公開性、市民主義、質的充実、自己決定などの成熟社会の価値観が徐々に浸透したことが揚げられる。

 従来であれば、主観性の配慮から個別的に対応しなければならない事象は無視されたり、応対者の経験や直観に任されたりすることがよく見られている。そうした定性分析さえなじまないとされていた分野も、野放図な実態を改善する動きが非常に活発である。

 個別性の尊重とその対応の認識を哲学者の中村雄二郎に倣って、「臨床の知」、すなわち「臨床知(Clinical Knowledge)」と呼ぶことにしよう。これは、以前から、パトリシア・べナー(Patricia Benner)らによって看護の分野で「行動しつつ考えること」と要約される重要な概念として使われており、中村雄二郎はそれを理論的に基礎づけ、拡張している。

 中村雄二郎は、『臨床の知とは何か』(1992)において、「事物のコスモス的在り様を示す」ことを<コスモロジー>、「事物の多義性」を<シンボリズム>、「事物とわれわれのあいだの働きかけを受けつつおこなう働きかけ」を<パフォーマンス>とした上で、『臨床の知』について次のように述べている。

 これらをあわせて体現しているのが、私が<臨床の知>としてモデル化したものなのである。すなわち、このようにして得られるのは、個々の場所や時間のなかで、対象の多義性を十分考慮に入れながら、それとの交流のなかで事象を捉える方法である。

 臨床知が求められる領域は非常に広い、医療や看護、介護、保育、カウンセリング、障害者教育、古美術・古文書を扱う博物館など個別的対応が要求される職種で広く見られ、それぞれに固有のリテラシーがある。ところが、すべてと言うわけではないけれども、こうした臨床知がその臨床家の経験や直観により、しばしば応対された人の不信や不満の原因となっている。それには、臨床知で集まった定性データを分析して、それらを臨床家の間で共有する必要がある。

 臨床知の難点は共有が容易ではないことである。外部も交えてその職業集団の組織がガイドラインを作成し、具体的に理解してもらうために、ケース・スタディーを行い、このような場面ではどう判断したらいいかをモデル・テストを繰り返して体験する。そうやって臨床知を強化し、個別性を配慮して、現場に臨む。そこで得られた発見をフィードバックし、その職業集団で共有する。こうした知見は専門集団の外にも公開し、社会とコミュニケーションをして、信頼感を構築するべく努力していく。

 加えて、今日、職業として倫理問題に直面し、判断を迫られる場面は臨床的職業集団だけではない。政治的・経済的利害が絡みながら、生命・財産・健康・環境への危険が定量データ的に予測される場面で判断せざるを得ない科学者や技術者、経営者、公務員などである。個別的な状況の中で、公益性の尊重を考えなければならない。

 札野順金沢工業大学教授は、『技術者倫理』において、技術者/施術者倫理を次の四つの諸相に分類している。

レベル 対象
Meta   科学/技術そのものの本質
Macro  科学/技術と社会との関係
Meso   科学/技術に関する制度・組織及びそれらと個人との関係
Micro   科学/技術者個人(あるいは個々の企業など)とその広報

 一般に倫理学と呼ばれているのはこのメタ・レベルを指す。今日ではその「マグナ・モラリア(magna moralia)」を踏まえた上で、テオドール・W・アドルノが指摘しているように、「ミニマ・モラリア(minima moralia)」を検討する方が有効である。

 メタ・レベル的考察はフレームを提供してくれるものの、固有さが失われ、一般論に終わりがちである。しかし、答えは一つではない。ジレンマの中で試行錯誤と逡巡を繰り返し、自分では精一杯の判断をして、行動に移す。けれども、選択したそれが思うような帰結に至らなかったことで思い悩むこともある。

 ある固有の動的な状況に置かれて、ジレンマを伴いつつ、判断せざるを得ない点はほぼ共通しているので、ガイドライン作成=事例研究=モデル・テストの実施といった臨床家の対応とほぼ同じである。決断を迫られる場面はあまりないと思われるが、臨床知が必要とされる領域だ。ただ、臨床家以上に社会との関係性が深い。

 マクロ・レベルの考慮も要るため、知識・情報の共有を目的とした社会とのコミュニケーションがより求められ、内部告発という選択肢がとられることもある。その際、公益性の観点から諸方面を説得・調整しなければならないので、信頼性の高い定量データを根拠にしていなければならない。

 主観性であろうと、公共性であろうと、その尊重には臨床知に裏付けられたコミュニケーションが欠かせない。定量分析にとって重要なのが「形式化(Formalization)」だとすれば、定性分析は「コミュニケーション(Communication)」である。定量分析でも、社会調査の調査票がよく物語っているように、コミュニケーションが求められるし、定性分析でも、不明瞭な論証でいいはずもなく、形式化は必要であることは言うまでもない。一方が他方よりもさらに大切だという意味である。

 分析はそれが何であるかを具体的な側面から明示するものであって、何であり得るかの提案ではない。二つの相対化自身にこの分析方法を用いると、精緻化することができる。相対化自体が論点である考察もある。その完成度が高く、説得力があれば、具体的側面の論考もそれを土台にしてさらに進められる。定義と相対化、分析は有機的に関連している。

 分析は課題を炙り出す。それに対して、構築された理論を拡張・補完・変更・統合のいずれかによって再検討するとき、何であり得るかが明らかになる。


つづく