全体目次
「苦難には、勇気を持って力強く対処せよ。しかし、また、賢明になり、あまりに順調な風に対しては張った帆をたため」。
クィントゥス・ホラティウス・フラックス
序章 『ハードワーク』の社会
2003年1月、イギリスのジャーナリストのポリー・トインビーが『ハードワーク─低賃金で働くということ(Hard Work: Life in Low-pay
Britain)』というドキュメンタリーを発表しています。
これは、英国政府が定める最低賃金で生活できるかどうかを低所得者地域に移り住んだ彼女の体験を描いた現代版『イギリスにおける労働者階級の状態』であり、そこには目を覆いたくなるような低所得者の生活が記されています。
それは貧富の格差が極めて大きく、その構成が確定化された社会です。ピラミッド型のヒエラルキーが固定化し、流動性のない新たな身分制と言えます。
一度、貧しい下層に落ちたら、就職でも、結婚でも、豊かな上層に昇ることはできません。しかも、彼らはそうした現状に対し怒りを胸にふり返ることもなく、最底辺でお互いを助け合うような状況を結果として自分たちで選んでしまっているのです。いわゆる「格差社会」はこうした社会のことです。
彼女は、名前から分かる通り、歴史学者のアーノルド・J・トインビーを父に持ち、『ガーディアン』紙のコラムニストとして執筆活動を続けています。
かつてBBCで社会問題担当部門の部長を務め、英国プレス賞、年間優秀コラムニスト賞などを受賞したイギリスを代表するジャーナリストの一人です。
『ハードワーク』の社会はサッチャリズムの帰結だと言っていいでしょう。
マーガレット・サッチャーは、一九七九年の総選挙で、イギリス経済の復活と「小さな政府」の実現を公約として保守党を勝利に導き、首相に就任します。
労働者階級を支持基盤にする労働党に対し、階級立脚では数で劣ってしまうため、保守党は「ワン・ネーション・トーリー(One Nation Tory)」を掲げていましたが、彼女は有権者に「人々(ピープル: People)」と語りかけました(トニー・ブレアは「市民(シチズン: Citizen)」を使い、労働党に政権を奪還しました)。
この初の女性英国首相は「ネオ・リベラリズム」と呼ばれる市場原理を重視して、政府の経済的介入を抑制する政策を実行に移し、教育・住宅・医療などの社会保障部門ならびに電話やガス、空港等の各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行していきます。
スタグフレーションを説明できずに評判を落としたケインズ主義に代わって、新古典派経済学を政策のミューズとしたのです。また、企業経営の足枷と見なして労働組合運動を敵視し、産業界からその影響力を取り除く政策を多く打ち出します。
こうした政策の結果、失業者数は倍増し、1982年には300万人を数え、その後も1986年半ばまで減少に転じることはありません。
ロバート・ワイアットは、車椅子から、コックニー訛の抑揚がない歌声とかすれるような不確かな音程により、苦境に置かれた労働者階級の現状を諷刺しています。
その1982年、アルゼンチンとイギリス双方が領有権を主張するフォークランド(マルビナス)諸島がフアン・マヌエル・デ・ロサス流のレオポルド・ガルチェリ将軍のアルゼンチン軍に占領されると、鉄の女は軍隊を派遣してそれを撤退させます。
アルゼンチンにしろ、イギリスにしろ、経済不安に陥っており、民衆からそれをそらすために、非妥協的な行動に出たのですが、結局、負けたアルゼンチンのカウディーリョが辞任に追い込まれています。
「カウディーリョ(Caudillo: 統領)」は中南米諸国における何をするかわからない軍人出身の独裁者を指します。
このフォークランド紛争の勝利に支えられ、保守党は翌年6月の総選挙で圧勝します。さらに、北アイルランド問題に関しては、強硬策を続け、1984年10月、ブライトンで行われた党大会の会場でアイルランド共和国軍(Irish Republican Army: IRA)による爆弾が爆発する事件が起きています。
彼女は、巷に経済的な不満が高まると、アルゼンチンやIRA、労働組合など敵を作り出し、それと戦う姿勢をアピールして政権を維持していきます。
1987年6月の総選挙でも勝利を収め、彼女は、20世紀中、三期連続して英国首相を務めた唯一の人物となったのです。
しかし、1990年、彼女の課税政策とECとの完全統合に消極的な姿勢へ批判が高まり、11月に辞任しています。
イギリスの思想家スチュアート・ホールはサッチャリズム受容の過程をイタリアの哲学者アントニオ・グラムシの「受動的革命」を援用して、1996年3月に来日した際、シンポジウム『カルチュラル・スタディーズとの対話』の基調講演で、簡潔に述べています。
戦後、英国は社会民主主義とケインズ主義的な福祉国家体制の和解が左右両派の拮抗という姿で現われていましたが、サッチャリズムはその枠組みの攻撃として登場したのです。
彼女は支持基盤を伝統的な保守層や左派のインテリではなく、一般大衆に照準を合わせます。不安や閉塞感、アイデンティティの喪失にある彼らに諸々の敵対性を散りばめた英国的なファンタジーを通じて、自己像を与えたのです。
言ってみれば、サッチャリズムは政治・経済の変革以上に、このアイデンティティの提供により、本来、最もその恩恵を受けられないはずの一般大衆から支持されたのです。
複雑化した社会において、実際のアイデンティティは複合的であるけれども、一元的なアイデンティティを示すことで、体制変革に参加しているという錯覚を与え、受動的であるにもかかわらず、「革命」なのだという意識が生まれています。
この「受動的革命」は経済や政治の変革が反動性や不寛容と結びつき、フォークランド紛争や北アイルランド問題を筆頭に、偏狭なナショナリズムを推進してしまうのです。
さらに、一般大衆の間に期待と希望を作り出しているため、サッチャー政権を批判しようとすると、彼らによって市民的・メディア的な強制力が働き、その声はかき消されます。その結果、支配層が意のままにでき、流動化のないピラミッド型の秩序社会が形成されたのです。
「受動的革命」はグラムシがファシズムの台頭を分析する際に採用した概念です。
最も恩恵に与れないばかりか、被害を受けることになる一般大衆がなぜファシスト党を支持するのかを彼は、獄中で、考察したのです。
実は、グラムシは国会議員で、不逮捕特権があったにもかかわらず、1926年11月、禁固20年の刑(後に減刑)を受け、投獄されています。
危機感を覚えたベニト・ムッソリーニが、ジェームズ・ジョルの『グラムシ』によると、「20年間、この頭脳が働くのを止めねばならぬ」とそのサルディニア出身で身体障害を抱える思想家の逮捕・収監を側近に要求したと伝えられています。
グラムシは獄中で健康が悪化し、37年、出獄直後に病死します。その後、イタリアの大衆は彼の指摘が正しかったと実感するのです。
イギリスは、第2次世界大戦中、自分たちを「福祉国家(Welfare State)」と呼び、ファシズムのイタリアを「戦争国家(Warfare State)」と批判して、戦っています。しかし、サッチャリズムはそのファシズムの「受動的革命」に基づいて支持基盤を確立したというわけです。
この「受動的革命」によって形成された『ハードワーク』の社会は、今の日本にとって、果たして対岸の火事でしょうか?
スチュアート・ホールの指摘に思い当たる部分はないでしょうか?
あるいは、これが日本社会の「ネクロフィリア(Necrophilia)」(エーリッヒ・フロム)もしくは「死のポルノグラフィ(The Pornography of Death)」(ジョフリー・ゴーラー)の表われなのでしょうか?
それが杞憂に終わるかどうかは来るべき「ユニバーサル」の選択にかかっているのではないでしょうか?
小日本主義者は、そのため、以下の政治哲学を提言するのです。
つづく
|