全体目次
3 公への意志
古代のアテナイなどは別にして、近代以前、「公」は王侯貴族等のもので、商人や農民、庶民にはありませんでした。
「公私」の区別は支配層にのみ存在し、被支配層には「私」しかなかったのです。
また、公共の場は人が集まるところ、すなわち市場や広場、劇場、宗教施設を指しました。
日本各地に点在する人の寄り付かない官立のホールや保養施設などは、当時の人にすれば、その名に値しなかったのです。
公がいかなるものであったかは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラを鑑賞しても、知ることができます。
近世のスペインが舞台の『ドン・ジョバンニ』において、貴族のドン・ジョバンニは大股で歩き、農民のマゼットはチョコチョコしていますが、その違いは前者が公人であり、後者が私人であることを表わしています。
さらに、この貴族が重心を自分の真下に置いて立っている時は公的立場にあることを表象し、どちらかいずれの足に体重をかけている場合は、自室や欲望と戯れる場などの私的空間にいることを意味します。農夫にはこうした立ち方の差異はありません。
この事情が変容したのが啓蒙主義です。
「公」が身分から解放され、一般の民衆にまで拡張されたのです。啓蒙主義は「公」が民主化された時代です。
啓蒙主義は学識ある知識人が無知な民衆を指導して進歩させることではありません。
先入観や偏見を括弧に入れて、何でも知ってやろうという知識欲です。
啓蒙主義がフランス革命の理念「自由・平等・友愛」を用意し、それが近代政治思想の基礎となります。
当時、ヨーロッパでは、フランス語を共通語として手紙によるネットワークが形成されています。
中でも、ヴォルテールは、生涯に四万通の書簡を書いたと推測されています。
それは「文芸共和国」と呼ばれ、王侯貴族や政治家、学者、文学者、芸術家、商人、女性も参加しています。フランス語の読み書きができれば、身分や出自など関係ありません。
平等なのです。これには交通網が整備・拡大し、欧州における郵便事情の格段の改善が背景にあります。手紙は私信ではなく、何らかの形で他の人にも読まれるのが普通でした。
そのネットワークでは、参加者は情報を交換・共有していたのです。Eメールやウェブによるインターネット社会のプロトタイプです。
その精神が結実したのが百科全書です。このプロジェクトは個人ではなく、幅広い年齢層の多くの知識人がかかわっており、神を頂点とするヒエラルキー構造ではなく、アルファベット順に項目が並べられています。
ルネサンス期はレオナルド・ダ・ヴィンチのような「万能人(homo universaris)」の時代でしたが、啓蒙主義では、チーム・ワークで「万能」を行うのです。
その上、この知識人も教会が認知したり、大学で権威として振舞っていたりする学者ではありません。文芸共和国のセレブであり、いささか素人臭い民衆の代表です。
百科全書を購入したのは新しく生まれた「公衆」です。
彼らはただ教会や国王が言うことを鵜呑みにしたりはしません。知識欲を持ち、自発的に、本を読み、手紙を書き、議論する存在です。公共性は、啓蒙主義において、開かれた社交・情報への意志にほかなりません。
イマヌエル・カントは、『啓蒙とは何か』において、この公衆に向けてなされることが公的であると言っています。
「理性の公的な使用」の完全な自由だけが人々の間に啓蒙を普及させることができるから、それは制限すべきではないのに対し、「理性の私的使用」は啓蒙の進展を妨げないのです。
「ここで、私が理性の公共的な使用というのは、あるひとが学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのは、こうである、――公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。」
ケニヒスベルクのこの哲学者によれば、官吏が生活のために働くことは私的であり、その人が公衆に向かった論文を書くことは公的になります。
理性の公的使用の場面では、それを抑えていたとしたら、反公共的行為にほかなりません。公は国家ではなく、公衆と結びついているのです。
公と共は必ずしも一致しませんでしたが、啓蒙主義において、両者がつながったのです。自由と平等への志向により、近代的な個人が出現し、その個々人を結びつける友愛に基づく共の意識が生まれます。
自由で平等な個人による友愛の精神が公共性です。フランス革命で端的に示された自由・平等・友愛は近代政治思想の基本的なイデオロギーになっていくのです。
公共性は多数派の横暴ではありません。ヴォルテールは、プロテスタントだったために、濡れ衣を着せられ、息子を殺害した罪で処刑されたジャン・カラスの名誉回復に立ち上がっています。
尊厳を軽視する多数派による不当な抑圧には、異議を申し立てることこそが公共的な姿勢です。公共性は尊厳の問題に帰着すると言っていいでしょう。それは量ではなく、質の価値への意志です。
もちろん、現代社会は、18世紀とは違い、複雑化し、人々は多くの思いもがけない社会的ジレンマに囲まれていますから、公共性への意志を持って生きたいと思っても、その願いを裏切ることをしてしまうのも少なくありません。
地理的に遠く離れた先進国の消費者に向けられたエビ養殖により、東南アジアのマングローブが危機に陥っています。
こんな時代には伝統的な大きな道徳の出る幕はなく、大きなものに安易に同調しないで、尊厳を尊重し、多様性と差異性を認め、開かれて、そうしたジレンマをその都度自分のできる範囲で考えて行動していくほかありません。
20世紀を代表する哲学者の一人テオドール・W・アドルノはそうした姿勢を「ミニマ・モラリア(minima
moralia: 小道徳)」と呼んでいます。
現代社会の公共性は、多様性・個人性・グローバル性を踏まえた上で、社会的ジレンマへのモラル・ジレンマ的姿勢が欠かせないのです。
近代に入り、国民国家体制が登場すると、この公共性は希薄になっていきました。官=公になってしまったのです。理性の公的使用と私的使用は完全に入れ替わってしまいます。
公衆に代わって、国民、さらに大衆が登場しますが、それは知識に対し受動的です。交流も内向きです。
「電子文芸共和国」が成立した現代社会は啓蒙主義が生み出した公共性の概念をアップ・トゥ・デートに復興すべきでしょう。
つづく