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3 文化的アイデンティティとしてのコモンズ
石橋湛山は、『湛山座談』において、1964年の段階で、将来的に最も問題となるのはナショナリズムだろと次のように述べています。
「ただ、僕が一番おそれ心配しているのは、民族主義、ナショナリズムなんです。これのほうがかえってこわいですね。
ナショナリズムはなくなりません。帝国主義は、なるほど理屈で考えればああなるだろうけれども、あんなものは、たんなる議論、理屈だし、実際においても資本家とか一部の人間のいわば理屈みたいなものでもって成り立っている。
つまり、そこには人間の感情というようなものが入っていない。ところが、ナショナリズムのほうは民衆のラン上ですから、かえってこわいと思う。
要するにナショナリズムは、資本主義と共産主義がいずれ一緒になるというときにも、なおかつ一番最後まで残る問題だ。
つまり肌の色が違うとか、長年住んでいた自然風土なり人種なり肌にしみこんだ歴史的文化が抜け切らない限りは、いつまでも残るのではないか。
アメリカの黒人問題なんかどうもいつまでも残りますね。黒人問題は基本的には経済問題だという解釈があるけれども、どうもそうではない。
それだけではないですね。経済問題というのは理屈を考えてつければそんなことがいえるけれども、どうもそうではない。」
経済学は合理的な人間を前提にしていますが、実際の人々はそれだけで生きてはいません。経済的だけではなく、文化的な認識がなくては、政治は不十分です。
小日本主義は合理性のみならず、非合理性も念頭に置いています。湛山は、続けて、「ナショナリズムをどういうふうにしてプラスの方向に向けるかということが問題ですね」と言っています。
コモンズがそうした「プラスの方向に向ける」ことに寄与できるのです。近代的なナショナリズムをコモンズが脱構築するのです。
「ナショナリズム(Nationalism)」は、元々、ラテン語のnatio(生まれ)に由来します。中世の大学には、学生の間で同じ郷土の出身者から構成される「同郷団(nation)」が組織されていました。今で言うと、県人会です。ナショナリズムがなくならないとしたら、それを近代以前にあったコモンズを巡る同郷意識に基づいて捉え直すべきでしょう。
Jリーグを筆頭に数多くのスポーツ団体が地域密着を掲げていますが、こうした流れの一環です。
例えば、鹿島アントラーズは、鹿島にとって、実質的に公共機関と言ってよく、文化的アイデンティティにほかなりません。自分の街のチームを強かろうが弱かろうが応援するのは、それがコモンズの誇りだからです。
従来、街の活性化はたんなる経済的な活況と思われてきました。それが安易な町興しの乱発を招きました。しかし、本当はアイデンティティとなれるようなものを中心にコモンズを形成することが真の街の活性化なのです。
文化的アイデンティティがなければ、コモンズを自発的に大切にしようと思う人は少ないでしょう。文化的アイデンティティを求めた上で、コモンズの形成と充実が促進されるのです。
そうした文化的アイデンティティは一冊の文学作品ということもあります。岩手県の遠野市は柳田國男の『遠野物語』を文化的アイデンティティとしてコモンズを形成しています。遠野の人々は『遠野物語』を巡るイベントを企画して、それを起爆剤に町興しをする気持ちはないのです。
たんなる観光収入の元手ではなく、『遠野物語』を自分たちのアイデンティティと捉え、それを中心にさまざまな試みを行っています。小学校の総合学習において、学年によって異なりますが、それ自体を読むのは難しいので、周辺部を扱っています。
低学年では、街に行って、河童の携帯ストラップなど『遠野物語』に関するグッズの種類を調べさせ、高学年になると、舞台となったとされる池や沼を訪れさせたりしています。『遠野物語』を愛せと強制せず、それがいかに遠野にとって大切なものであるかを自然に学ばせているのです。
また、多くの退職者がガイドをしているのですが、たんに『遠野物語』のことだけではなく、その時代・社会の背景を専門家を呼んで学習した上で、観光客に説明しているのです。それは、言ってみれば、生涯学習です。
それによって、さらなる民間伝承や芸能、史料の発掘と保存に弾みがつきますし、『遠野物語』の環境を守るという環境保護の動きにもつながっています。ビルだらけの遠野では雰囲気がでません。やはり南部曲り屋は欠かせません。あくまで『遠野物語』あっての遠野なのです。
言うまでもなく、こうした遠野像に、住民の中にも異論を唱える人たちがいます。柳田の『遠野物語』は、グリム兄弟の『グリム童話』同様、作者による創作が見られるからです。しかし、そういう問題自身も議論していける場としてコモンズを形成していくというのも重要なのです。
おそらくこういう街は日本各地に無数にあるに違いありません。文化的アイデンティティの確立も、コモンズごとに異なります。沖縄の島々のように、自然の風景と独特の文化をアピールする街もあるでしょうし、京都や金沢、松江、長崎など伝統を生かせる街もあれば、残念ながら、あまり好ましくないイメージがつき、それを払拭したいと願っている街もあります。
そうした後者の例として、すでに日本でも取り組んでいるコモンズがありますが、あえて国外の都市を紹介します。佐々木雅幸大阪市立大学大学院教授が『創造都市への挑戦』の中で言及するサッチャリズムの英国におけるバーミンガム市の「創造都市戦略」と「文化的インキュベーター」の試みは、現代の日本にも示唆を与えてくれます。
バーミンガムは、産業革命期以来、「世界の金物工場」として知られ、金属製品や自動車、電化製品の工場が林立していましたが、産業構造が転換した1970年代に入ると、国際競争力を失い、工場の閉鎖やリストラにより、長期衰退に陥ってしまいます。
特に、第一次サッチャー政権の1978年から82年の不況は深刻であり、貧富の格差が拡大し、失業者が増大、生活水準が低下して、中心街のスラム化が進んでいます。そこで市議会は道路や駐車場を整備し、郊外の住宅開発を促進したものの、逆に、スプロール化や中心市街地の空洞化を招く有様でした。
とうとう官僚主導型の都市開発に対する市民の不満が爆発し、大規模プロジェクトが中止され、市議会でも、1988年、「人間中心の都心の再生戦略」への転換が決定されました。ハード・パワー依存から独自のソフト・パワー発信へと自分たちの街への意識を変更したのです。
なお、現在、イギリスは高層マンションの建築を放棄しています。同時期に、大量の同世代且つ同階層の世帯が入居してしまうため、新陳代謝が起こりにくく、住宅全体が一挙に高齢化を迎えるからです。都市の内部に高齢化した過疎地域が点在するのを防ぐ目的に基づき、イギリスは高層マンションによる極端な集合化の政策を採っていないのです。
市議会は中心市街地への自動車の乗り入れ禁止し、歩行者優先の街路を整備して、美術館やコンベンション・ホールを整備しました。中心街はショッピングを楽しむ歩行者で溢れ、市立美術館には、ラファエル前派のエドワード・バーン・ジョーンズなどの美術作品に加えて、マルチメディアを活用した意欲的な現代アートも展示され、若き芸術家たちの活躍の場となったのです。
それと共に、産業遺産である運河の保存と修復によるボートでのカルチャー・ツーリズム「運河めぐり」の開始など都心の再生に着手しました。「煙に汚れる重工業都市」というイメージからこのように「文化の創造空間」の都市へと転換していったのです。
中でも、一九世紀の黄金期に活躍したディッグベット地区のカスタード工場の再生はその象徴的な事業でした。これは映画『チャーリーとチョコレート工場』さながらに、工場の外壁はヴィクトリア朝を思い出させますが、建物の中に入ると、そこは別世界です。
1992年以降、芸術創造事業推進協会(略称「スペース」)という民間団体が約2000万ポンドをかけてカスタード工場地区の再開発を行ったのです。
カスタード工場には、小規模の芸術団体や個人の芸術家向けのワークスペース(スタジオ)の他、劇場やアートギャラリー、リハーサル・ルーム、ダンスホール、レストラン、喫茶店、商店といった施設があり、さらに多くのスタジオ、芸術系大学生用のアパート、ジャズ・クラブ、映画館などの施設の整備も予定されています。
スペースはカスタード工場で活動している芸術家を PRするために展示会や演奏会、演劇公演などのイベントを開催し、一般市民や購入者に作品やパフォーマンスを紹介しているだけでなく、芸術家たちに情報やビジネス・アドバイスも無料で提供しています。まさにカスタード工場は「文化的インキュベーター」なのです。
バーミンガム市の「創造都市戦略」はこのように市民の「生活の質」を向上させ、若者に対する芸術的な教育・研修の役割を果たし、都市環境やイメージを改善、都市コミュニティの再生とを実行しています。
先に触れたスチュアート・ホールは、1969年から10年間、バーミンガム大学の現代文化研究センター所長の職に就いていました。このセンターは、現在、日本でも浸透している「カルチュラル・スタディーズ」という文学理論の発祥の地です。
もちろん、烙印を押されたすべてのコモンズがバーミンガムと同じことをすれば新たな文化的アイデンティティを手に入れられるわけではありません。
重要なのはバーミンガム市が官僚主導ではなく、コモンズに住む市民による自発的なソフト・パワー発信への意志に目覚めた点です。この姿勢が『ハードワーク』の社会が近づいている日本のコモンズにも大いに刺激になるでしょう。
つづく