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書き下ろし長編

コモンウェルス
Commonwealth: 20th Century Regime

第四章 神の尊厳死

佐藤清文
 Seibun Satow

2013年2月18日
初出:独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁


第四章 神の尊厳死

第一節 予言の自己実現


 二〇世紀は一九世紀と二一世紀の間の過渡期である。パソコンとWWWの普及はゴールド・ラッシュに相当する。一九世紀の国民国家=産業資本主義が二〇世紀にコモンウェルス=消費資本主義へと移行したように、二一世紀には別の政治・経済体制が出現する。それは中心=非中心ではなく、乱流=層流の機軸から、文化の体制、「カルチャー・トラフィック(Culture Traffic)」である。

 二一世紀には、文化が政治・経済さえも決定する。アフリカ系アメリカ人のボブ・ダグラスが、一九三〇年代、バスケット・ボールで平等が達成できたら、一般社会でもそれが可能になると果敢に試み、また、一極集中がその業界を衰退させることは、オリジナル・セルティックスがいくら勝とうが、リーグ自体が頓挫したなどNBA以前のアメリカのプロ・バスケットボールの歴史を見ても、明らかである。実際、合衆国における人種平等は文化から広がっているように、二〇世紀の文化の流れがそれを予感させている。

 世界各地の差別・摩擦・紛争には、ロバート・K・マートンが『社会理論と社会構造』において提唱した「予言の自己実現」が蔓延している。「自己実現的予言(self-fulfiling prophecy)とは、最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすることである」。

 マートンは予言の自己実現の具体例を三つ提示している。

 試験ノイローゼの場合を考えてみよう。きっと失敗するに決まっていると思いこんでしまうと、不安な受験生は勉強するよりも、くよくよして多くの時間を浪費し、いざ試験にのぞんでまずいことになる。最初の誤った不安は、いかにももっともな不安に変形してしまう。

 銀行資産が比較的健全な場合であっても、一度支払不能の噂がたち、相当数の預金者がそれをまことだと信ずるようになると、たちまち支払不能の結果に陥る。(略)銀行の財政状態の安定性は、一連の状況規定に依存していた。すなわち、人々が生活してゆくための経済的約束の込み入った体系が揺るぎないものでという信念に依存していた。ところが、一度預金者が状況を異なったふうに規定し、また一度彼らが約束の果たされ得る可能性について疑念を抱くに至ると、そのときはじめてこの不真実な決定の結果は十分に真実なものとなったのである。
 
 二国間の戦争は「不可避である」と信ぜられている場合がある。この確信にそそのかされて、二国の代表者たちの感情はますます疎隔し、お互いに対手の攻撃的動きに不安を抱き、自分も防衛的動きをして、それに応ずることになる。武器、資材、兵員が次第に大量に蓄えられ、挙げ句には戦争という予想通りの結果をもたらすのである。

 予言の自己実現には、このように三つに区別できる。第一例は他者との関係なく予言が実現する場合、第二例は自分自身の予期によって他者との関係の予言が実現する場合、第三に、相互予期によって、予言が実現する場合である。

 マートンはこの予言の自己成就のメカニズムを一般的に次のように説明する。

この寓話がわれわれに教えるのは、世間の人々の状況規定(予言)がその状況の構成部分となり、かくしてその後における状況の発展に影響を与えるということである。これは、人間界特有のことで、人間の手の加わらない自然界ではみられない。ハレー彗星の循環がどんなふうに予測されようと、その軌道には何の影響も及ぼさない。しかし、ミリングヴィルの銀行が支払い不能になったという噂は、実際の結果に影響を与えた。つまり、破産の予言が成就されたのである。

 人々は、確かに、状況についての一定の予想に基づいて、行為を決定するが、その際、この状況の規定が状況の構成部分になる。しかし、それはつねに悪い結果を引き起こすとは限らない。あの銀行は大丈夫だと人々が信じていれば、パニックは起きない。ある予言の自己実現が起こらないとすれば、別の信念が予想として機能している。先に言及したフッサールの「確信」が状況規定としてつねに成立している。

 その上で、マートンは、状況規定が自己破壊的に状況を規定する場合もあると次のように述べている。

 自己実現的予言の反対は「自己破壊的予言(self-destroying prophecy)」であるが、それはもし予言がなされなかったとすれば、たどったコースから人間行動を外れさせ、その結果予言の真実さが証明されなくなる場合である。

 アメリカの「赤い一〇年」では、労働運動が激化したため、経営者側は、スト破りをさせる目的で、南部の黒人を採用している。黒人労働者はスト破りをし、白人労働者はそれに対して怒り、彼らの組合への加入を拒み、差別する。「黒人は、彼らがスト破りだから排斥されているというより、彼らが組合から排斥されているから(そして多くの仕事からも)排斥されたためにスト破りとなったのである。このことは、最近二、三十年の間に彼らの組合加入が認められた産業にあっては、スト破りとしての黒人が事実上なくなったことからも察知することができる」。

 このメカニズムはある集団内部で認められる美徳がその集団外部に対する偏見を助長する。マートンは、「民族外集団がもし白人プロテスタント社会の価値を信奉しても非難され、しなくても非難される事実を知るためには、まず一人の内集団の文化的英雄を取りあげてみる必要がある」と次のように説明している。

 頑ぜない学童でも、リンカーンが倹約家で、勤勉で、知識欲に燃え、大望を抱き、一般人の権利のために献身し、最下層の労働者階級から身を起こして、実業家、弁護士といった尊敬に値する高い地位にまでめざましく出世することが出来たことを知っている。(略)リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意志をもち、忍耐心に富、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証明するものだとされる。ところが、外集団のユダヤ人や日本人が同じ時刻まで夜働くと、それは彼らのがむしゃら根性を物語るものであり、また彼らがアメリカ的水準を容赦なく切り崩し、不公正なやり方で競争している証左さだとされるだけである。

 内集団の英雄が倹約家で、つつましく、また貯蓄家であるとすれば、外集団の成らず者はけちんぼうで、欲張りで、一文惜しみである。内集団のエイブは、スマートで、敏捷で、才知にあふれているから、一から一〇まで誉められ、外集団のエイブは同じことながら、すばしこく、ずるく、悪賢くて、余り目先が利きすぎているから、何から何まで軽蔑される。

 人種的な偏見を持っている人には、いかなる反証例を示しても、その偏りを払拭させられない。「隙のない、手のこんだ偏見のために、人種的、民族的な外集団は進退両難に陥っている。外集団のメンバーは、大体何をしようとそれにはかかわりなしに、徹頭徹尾非難される」のであり、結局、「それは民族的、人種的諸関係における『すればするで非難され』、『しなければしないで非難される』過程であると言っても差し支えないだろう」。予言自身が反証によって、逆に、つねに確証されてしまう。

 しかし、マートンは「慎重な計画を持ってすれば、自己成就的予言の作用とその社会的悪循環を止めさすことができるという証拠は十分にある」として己実現的予言の悪循環を断ち切る方法を次のように示す。

 制度的、行政的条件がよろしきを得れば、人種間の親和の経験が人種間の葛藤の危惧の念にとって代わることができる。
 こういう変革や、その他これと同種の変革は自動的に生ずるわけではない。危惧の念を実在に転化する自己成就的予言は、慎重な制度的規制が欠如した場合にのみ作用するものである。そして、危惧の念から社会的災厄が生じ、逆に災厄のために危惧の念が強化されるという、両者の悲劇的循環を破るには、人間本性は不変なりという観念に根ざしている社会的宿命論をどうしても拒否しなければならない。

 これを第一に可能とするのは、むしろ、文化である。メディアや政治の力も必要であるが、失言恐慌やルワンダでの虐殺を省みるまでもなく、それらが扇動して残虐な事態を招いたケースも少なくない。二〇世紀後半を見る限り、料理を通じてその文化に興味を持つことは少なくないし、ペレやジャッキー・ロビンソン、ロベルト・クレメンテ、マルチナ・ナブラチロワ、ジネディーヌ・ジダン、キャシー・フリーマンが示している通り、文化が偏見・差別を緩和し、政治的・経済的な平等へと向かっていく傾向にある。文化は人々を説得ではなく、納得させられる。


第二節 メディア・スターの時代

 「この俺は群れから捨てられた野獣だ 弾丸が皮を貫こうとままよ止めずに俺は襲いかかる 俺はもう千年も生きるんだ」(ハイレル・アンワル『ヌサンタラの夜明け』)。資本主義は身分に束縛されない職業選択・移動・売買のために、神の死を導いたわけだが、さらに、そこから次の段階を必要とする。生産者を登場させるのが一九世紀の役目だったとすれば、二〇世紀は消費者を拡充しなければならない。

 産業資本主義は身分を解体して、ブルジョアジーとプロレタリアートという階級を生み出し、より発展し金融資本主義化した結果、階級を細分化した職業を派生する。労働者は階級に属するのではなく、秘書や消防士、サラリーマン、コンビニの従業員といった職業に分かれ、彼らの消費意欲が経済を左右するため、総称して大衆と呼ばれる。大衆が初主演した「ローリング・トゥエンティーズ」をきっかけに、生産ではなく、消費の優位が露呈する。すべてが商品化されなければならず、神も例外ではない。神も商品なのだ。ニヒリズムに代わって、そういった商業主義が勃興し、神の死は決定不能に陥る。「神の死」に耐え、新たなる価値の創造をする必要はない。「ゴドーを待ちながら」、生産・蓄積された価値を消費すればよい。

Vladimir: We can still part, if you think it would be better.
Estragon: It's not worthwhile now.
Silence.
Vladimir: No, it's not worthwhile now.
Silence.
Estragon: Well, shall we go?
Vladimir: Yes, let's go.
They do not move.
Curtain.
(Samuel Beckett “Waiting for Godot” Act2)

 国民国家は資本主義の要請により、生産者としての国民を創り続けてきたとしても、高度に資本主義が成長していくには、大規模な消費者の大衆が欠かせない。国民国家は国民の一人として労働者を認めるため、労働者は消費者であるにもかかわらず、生産者という面が強い。「利益を追及することは神聖なことだ。人間は仕事のためにつくられている。仕事は人間の目的である」(レオン・バティスタ・アルベルティ『自叙伝』)。一方、大衆は生産者であるよりも、消費者である。大衆が国民に代わって社会の主役に躍り出ると同時に、国民国家の歴史的役割も終わる。

 大衆は、前近代的なコミュニティが崩壊に向かい、離村向都の傾向が強まり、中等教育の拡大、社会全体の所得水準の上昇、家電製品や自動車などの耐久消費財が普及する歴史的・社会的背景の下に、表面的には、マス・メディアを通じて操作され、動員される。広告は新たなライフ・スタイルを提示し、さらなる消費を促す。メディアが伝えるもの以外は存在しないも同然である。

 ジェノサイドにも似た「インフォサイド(Infocide)」がそこから生じる。「彼らの沈黙は、咎めである(cum tacent clamant)」(マルクス・トゥッリウス・キケロ)。動画メディアの登場により、新たなる聖人としてメディア・スターが誕生する。最初のメディア・スターはレフ・ニコライヴィチ・トルストイである。彼の発言はすぐにさまざまな言語に翻訳され、世界中を駆けめぐる。カメラが彼を待ち構え、民衆が追いかける。南アフリカに住む無名のインド人弁護士でさえも、その発言に感銘を受け、非暴力主義活動を開始し、その偉大な魂は後に大英帝国のインド支配を終わらせることになる。影響力はメディアを通じて決定され、それは実像とも虚像とも言えない。「雄弁とは構想された事象に対する適切な言葉と命題の適合である(elocutio est idoneorum verborum et sententiarum ad rem invetam accommodation)」(マルクス・トゥリウス・キケロ『構想論(De inventione)』一章七節)。

 トルストイ以降、知識人にとどまらず、俳優やアスリートを始め、政治家に財界人、ロック・スター、果ては占い師に至るまで、話題性という観点から、無数のメディア・スターが登場している。彼らは政治・経済・文化に大きな影響を及ぼす。モハメド・アリは、一九六七年、ベトナム戦争に反対して徴兵を拒否したために、刑務所に送られ、アントニオ・ガデスは、フランコ独裁に抗議して、一九七五年から四年間フラメンコを踊らなかったし、トロント・ブルージェイズのカルロス・デルガドは、二〇〇四年のシーズン、『ゴッド・ブレス・アメリカ』が球場で流れると、起立・脱帽せず、ベンチ内にとどまり、「僕は戦争に反対し、平和を求める。あくまでも個人的な感情で、注目されたいわけではない」と尊い発言をしている。こうしたメディア・スターは大衆にとっての集団的匿名である。

 プロレタリアートは社会の支配階級となるために、アントニオ・グラムシの『獄中ノート』によれば、合意・指導によって精神的な優位性を示す必要があるが、従来の伝統的知識人を獲得するだけでなく、自らの中から新しい知識人、すなわち「有機的知識人」を育てていかなければならない。けれども、大衆は集団的匿名を創出したのである。

 メディア・スターは、その知名度を生かし、政治家へと転身することも少なくない。一九八〇年に合衆国大統領に就任したロナルド・レーガンや一九八六年からカリフォルニア州カーメル市長を務めたクリント・イーストウッド、二〇〇三年にはカリフォルニア州知事に当選したアーノルド・シュワルツェネッガーがよく知られているし、一九九八年、フィリピン大統領に当選したジョゼフ・エストラダも映画スターである。

 さらに、インドでは政党が映画制作会社を兼ねている場合もある。マドラス(チェンナイ)を州都とする南インドのタミルナドゥー州は、特にその傾向が顕著である。一九四九年、「ドラヴィダ進歩連盟」、通称DMKという政党が結成される。ここの党首アンナードゥライは劇作家と同時に映画の脚本家であり、有力党員のカルナーニディも脚本家だったため、この二人が中心となって、社会批判を民衆に訴える目的で、映画を利用することを思いつく。映画を啓蒙活動の手段にすること自体は、インドに限らない。セネガルの小説家センベーヌ・ウスマンは、アフリカ黒人の手による現代小説がない現状に憤り、『神の木っ端たち』のような優れたプロレタリア文学を執筆したものの、人々の多くが字を読めなかったため、一九六〇年代に、映画も撮り始めている。

 一九三七年、マドラス州政府のヒンディー語教育導入をきっかけにして、非バラモンである南インドの多数派ドラヴィダ民族の北インドに多いバラモンを中心としたアーリア民族に対する闘争、すなわちドラヴィダ運動が巻き起こる。インドの「民族」の差異などというものは曖昧だったので、インドの民族問題は、本来、存在しない。このドラヴィダ運動によって、逆に、生じてしまったとも言える。一九五〇年代から六〇年代にかけて、DMKの映画はタミル映画界を支配するまでになっていく。

 一九六五年にインドの国語をヒンディー語にするという動きがインド中央政界で活発になったのに対し、DMKは民族主義的主張を前面に掲げて一九六七年の選挙に勝利し、アンナードゥライはマドラス州の首相に就任する。彼は、翌年、マドラス州からタミル語のタミルナドゥー州に改名している。アンナードゥライは、二年後、病のため亡くなり、一九七一年に実施された選挙の結果、同党のカルナーニディが後継首相に指名される。

 DMK映画の生み出した最大のスターがラーマチャンドラン、通称MGRである。彼自身DMKの党員であり、DMK映画の俳優は、政治集会に積極的に参加し、民衆も彼らを目当てに集まっている。MGRはカルナーニディと対立してDMKを脱退し、アンナードゥライの後継者を自認して、一九七二年、新しい政党「全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟」、通称AIADMKを結成する。同党は1977年の選挙で勝ち、MGRはタミルナドゥー州の首相に当選している。彼は、以後、一九八八年に病死するまで、政権を維持し続ける。

 辛島昇は、『南インドの文化を学ぶ』において、MGRの役柄と政治家について次のように述べている。

 映画の中ではロマンティックなヒーローと同時に、上層カーストや圧制者と戦う役を演じた。例えば、小作人の土地を取り上げようとする地主、貧乏人から仮借なく取りたてる金貸、田舎の少女を妊娠させ置き去りにする都会人、といった抑圧者と戦い、虐げられた弱者を救うのがMGRの役柄であった。MGRは役の上でいつも施しをし、女性の教育と地位向上を訴え、そして、無敵であった。

 彼は政治家としての実生活においてもつねに貧困者に救いの手をさしのべ、教育を受けられない子供を援助して、映画のイメージと政治家のイメージを結合したのである。救済者を演じた映画の最後に、役からMGR本人に戻って政治声明を発表するといったことまで行っている。MGRは選挙でも圧倒的な強みを見せたが、それにはファンクラブの組織が巧みに利用されていた。クラブは単にファンの集まりということではなく、彼のイメージを高める社会奉仕を自前で行ない、政治家MGRの手足となって働く行動部隊であったのである。

 MGRの死後、女優で妻のジャーナキが首相になったが、議会の信任を得られず、彼女に代わって、同じく女優でMGRの愛人だったジャヤラリータが政権を握る。ところが、彼女の政権の金権腐敗が非難され、一九九六年には、再びカルナーニディが政権を奪取して、現在に至っている。マドラス州からタミルナドゥー州へと名前は変わったものの、同州の政治権力を脚本家や俳優、監督といった映画関係者が長期に亘って占められている。

 こういった状況が生まれるのには社会的・文化的背景がある。『インディラ』で知られる女性監督のスハーシニは「インドでは俳優は普通の人にとって大変に身近な存在で、困ったことがあると、親戚に相談するよりも、俳優のところに助けを求める」と言っている。トラブルや悩みを抱えると、手紙だけでなく、実際に俳優の家をファンが訪れてくるし、俳優の方も当然のこととして面倒を見る。インドにおいて、俳優はパブリック・サーヴァントであり、顔のよく知られた野心家が政治家を目指しているわけではない。政治家がパブリック・サーヴァントであるならば、それは俳優の使命と同じである。映画と政治はインドでは、矛盾なく、完全に融合している。有権者にしても、たんなる人気投票として、選挙の際、俳優に投票してはいない。インドのメディア・スターは集団的匿名性をよく理解している。


第三節 ローリング・トゥエンティーズ

 二〇世紀の文化の特徴は「ローリング・トゥエンティーズ」に集約できる。一九二〇年代、アメリカはかつてない経済的繁栄を享受して、消費的な大衆の都市文化が開花する。アール・デコ様式の高層ビルが都市に林立し、舗装された道路を自動車が疾走する。家庭にはラジオと蓄音機が備えられ、映画やプロスポーツが大衆娯楽として定着する。一九二八年、全世界で上映される映画の八五%をアメリカ製が占め、以降、ハリウッドの商業的優位が続く。デヴィッド・W・グリフィスがアメリカ人監督として、初めて、アメリカ映画の水準の高さでも世界に印象づけている。チャーリー・チャップリン、バスター・キートン、ダグラス・フェアバンクス、ルドルフ・ヴァレンティーノ、グレタ・ガルボ、メアリー・ピックフォード、グロリア・スワンソンが大衆の間で愛される。

 さらに、アメリカ人は英雄を待望するようになり、まず、ジャック・デンプシーやベーブ・ルースが称えられ、一九二六年に、チャールズ・リンドバーグが単独飛行でニューヨーク=パリ間を横断して、英雄の中の英雄となる。互換性の時代の芸術、すなわち「複製技術時代の芸術(Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit)」は、ヴァルター・ベンヤミンが指摘した通り、「アウラ(Aura)」から解放され、芸術家の成功は時代を支配するイデオロギー次第になる。

 「ジャズ・エージ(The Jazz Age)」の名にふさわしく、女性やアフリカ系といったマイノリティが芸術活動の場に進出する。国民は、本質的には、成人男性だったのに対し、大衆は「女性」、すなわちマイノリティを意味する。ゼルダ・フィッツジェラルドのようなフラッパーは禁酒法時代の流行の最先端であり、ルイ・アームストロングがラジオとレコードを通じて北部の白人たちの間でも人気を獲得している。ダンス・ホールやナイト・クラブ、ホテルは、そのため、必ずアフリカ系アメリカ人のジャズ・バンドを雇っている。ニューヨークのハーレムでは、「ハーレム・ルネサンス(Harlem Renaissance)」の活動が起き、アフリカ系アメリカ人はフリカの遺産を尊重し、「ニュー・ニグロ(New Negro)」(アラン・ロック)になるように奨励されている。ユダヤ系のジョージ・ガーシュインがジャズを交響曲に取り入れ、ジャンルの区分を越境した『ラプソディー・イン・ブルー』や『パリのアメリカ人』を作曲しているのも忘れてはならない。こうした二〇年代の特徴はその後の二〇世紀の文化現象のモデルになっている。

 二〇年代のアメリカは享楽的な物質主義を謳歌すると同時に、極端なピューリタニズムとの間で揺れ動いている。都市文化に対し、当時の農村地域の人々は激しい反感を抱く。ジョン・トーマス・スコープスを被告とするサル裁判やニコロ・サッコとバルトロメオ・ヴァンセッティを被告とするサッコ=ヴァンゼッティ裁判を代表に、二〇年代のアメリカは政治的には排他的かつ保守的傾向が著しく強い。一九一五年に組織されたKKKは、一九二三年には会員数五〇〇万人に達し、一時的に、いくつかの州議会の支配権も掌握している。

 禁酒法はそういった背景の下に成立するものの、それはアル・カポネをシカゴの王様にする。斧を持って酒場を破壊して回ったキャリー・ネーションもこうした状況を予想できなかっただろう。ヨーロッパで、全体主義体制が誕生するのが世界恐慌の三〇年代であるのに対して、二〇年代のみならず、「パックス・アメリカーナ」の五〇年代にしても、本質的に孤立主義的な合衆国は、好景気を迎えると、自滅的なまでに、保守主義に向かう。経済的な好調は文化的な優位さと排他的な認識をアメリカの人々に意識させる。移民が集まってくるには、アメリカが夢の国だからだと彼らは信じている。しかし、多くの人々がアメリカを目指したのは、アメリカが優れているからではない。そこが二〇世紀だからである。二〇世紀が終われば、その幻想も消える。

Hyman Roth: There was this kid that I grew up with; he was a couple years younger than me, and sort of looked up to me, you know. We did our first work together, worked our way out of the street. Things were good and we made the most of it. During prohibition, we ran molasses up to Canada and made a fortune; your father too. I guess as much as anyone, I loved him and trusted him. Later on he had an idea to make a city out of a desert stop-over for G.I.'s on the way to the West Coast. That kid's name was Moe Greene, and the city he invented was Las Vegas. This was a great man; a man with vision and guts; and there isn't even a plaque or a signpost or a statue of him in that town. Someone put a bullet through his eye; no one knows who gave the order. When I heard about it I wasn't angry. I knew Moe; I knew he was headstrong, and talking loud, and saying stupid things. So when he turned up dead, I let it go, and said to myself: this is the business we've chosen. I never asked, who gave the go ahead because it had nothing to do with business.
(Francis Ford Coppola “The Godfather PartU”)

 全米に蔓延する物質主義と保守主義に対して、知識人は嘆き、侮蔑する。一九三〇年にアメリカ人作家として初のノーベル賞作家になったシンクレア・ルイスは、『バビット(Babbitt)』(一九二二)において、中西部のジーニスに住む実業家の反動性と俗物ぶりを批判的に描いている。そういった「バビット」の支配するアメリカに失望して、数多くの有望な作家や芸術家がヨーロッパに脱出する。ジャズやカクテルといったアメリカ文化をヨーロッパに持ちこむと同時に、「ロスト・ジェネレーション(Lost Generation)」と呼ばれるアーネスト・ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルドは、フランス文学に触発され、革新的で刺激的な文体を編み出し新しいアメリカ文学をパリで発展させる。

 そのパリでは、ロシアからやってきたセルゲイ・パヴロヴィチ・ディアギレフのバレエ・リュッスが芸術を刺激し、彼の周りに革新的な音楽家や画家、文学者が集っている、また、女性の間にもスポーツがブームとなり、テニスやゴルフ、水泳が楽しまれる中、短くスポーティーなファッションが流行し、その上で、ガブリエル・ココ・シャネルが働く女性のためのファッションを売り出す。『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』などのファッション誌を通じて、パリの華やかで活気あるファッションがアメリカに紹介され、それに呼応して、毎年、新作が発表されるスタイルが始まる。

 パリのミュージック・ホ−ルのフォリ−・ベルジェ−ルでは、アフリカ系の女性ダンサー、「黒い星(Dark Star)」ことジョセフィン・ベーカーが青と赤の羽根飾りを腰にまとっただけの姿で踊り、その名にちなんだ服や香水が流行し、パブロ・ピカソやアレクザンダ−・コールーダーが彼女をモデルにしている。大型客船で大西洋を渡り、豪華列車を使って大陸を移動し、自動車に街を駆け回った後に、パリのオテル・リッツやロンドンのサヴォイ・ホテル、ニースのオテル・ネグレスコに立ち寄るのが時代の最先端である。流行の発信地はパリだけではない。東京や上海を含めた世界中の都市が共鳴し合い、文化を増幅している。ベルリンのキャバレー文化とも呼ばれるワイマール文化が前衛的な絵画・音楽・舞台・写真だけでなく、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督の『嘆きの天使』に出演したマルレーネ・ディートリッヒの完璧な脚線美によって世界を驚かせている。

 ところが、この文化は、三〇年代に入ると、急速にしぼんでしまう。以降、急激に大衆文化が花開いたかと思うと、約一〇年程度で、枯れるサイクルを繰り返す。その内容は、つねに、二〇年代のヴァリエーションである。東京にショー・ウィンドウやイルミネーション、エレベーター、アパート、デパート、映画館が登場したのも、二〇年代であり、現在に至るまで、日本の都市開発の定番となっている。「古典的には春の美しい芽ばえの季節だとか、秋の夕暮れとかナポレオンの肖像画などが写実的に描かれていた。ところが、そのうちに蓮池が色覚検査表のようになり、麦畑が燃えだし、やがて鼻や目が右や左に動いて、最後には三角や四角だらけになる。あれが三〇年以前の大変動だ.それに比べると、アンディ・ウォーホルとかジャスパー・ジョーンズの前衛芸術なんてささいな変化でしかない.三〇年以降の流れから一歩も出ていない」(森毅『DNAもビッグバンもウィルスも、この五十年余りでつくられた』)。

 二〇世紀文化はカオス現象であり、二〇年代の焼き直しであったとしても、それはポップ・カルチャーの方が意識的である。アーサー・ミラーの『セールスマンの死』が具現化した一九五〇年代に登場したアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ、ロイ・リキテンステインに代表されるポップ・アートは、フラクタル性や商業主義などすべてにおいて二〇世紀的な芸術である。ポップ・アートは二〇年代に乱れ咲いたモダン・アートを超えると言うよりも、その大衆化である。


第四節 交通と文化

 二〇世紀の文化は移民や難民、亡命者、移住者によって生み出され、育まれてきたのであり、移動の文化ないし越境の文化と言ってもいいだろう。俗っぽい芸術や娯楽でも、その点は顕著である。ポップ・ミュージックには、マイノリティやエスニックの要素が欠かせない。ポストモダニズムと呼ばれる状況下、ジャマイカのレゲエはパンク・ミュージックにも影響を与えているし、イエロー・マジック・オーケストラはコンピューター・サウンドとインドやチベット、バリ、ブルガリアなどのエスニック音楽を結びつけている。

 たんに先進国のポップ・ミュージックがエスニックを吸収しただけではなく、インドネシアのポップ・ジャワやポップ・ムラユのように、エスニックな音楽がロックをとり入れてもいる。ヒップ・ホップはアルジェリアやイランでも最もクールだと若者に受容されている。音楽以外でも、ニュージーランドのオール・ブラックスが試合前にすることで知られるようになったウォー・クライはマオリ族のハカに由来している。また、アメリカの大学のフットボール・チームでは、漢字をスタジアム・ジャンパーにレイアウトするのが流行している。二〇年代のモデルが現在でも移動し、拡大化すると同時に、細分化している。

 ある地方でえられた生産諸力、ことに諸発明が、以後の発展に影響をおよぼすかどうかは、もっぱら交通の拡大いかんによる。直接の近隣を越える交通が、まだまったく存在しないかぎり、どの発明も地方ごとになされねばならない。そして蛮族の侵入のような通常の戦争でもよいが──まったくの偶然だけあれば、発達した生産諸力と諸要求とをもつ国を、またもとのもくあみからやり直しという状態にしてしまうことができるのである。歴史の発端においては、どの発明も毎日はじめからやりなおされ、どの地方においてもそれぞれ独自におこなわなければならなかった。

 かなりな程度拡大された貿易が存在する場合でさえ、できあがった生産諸力が全滅するおそれがどれほどあるかということは、フェニキア人が立証している。かれらの発明の大部分は、この貿易からの駆逐、アレクサンドロスの征服およびそれから生じた衰亡の結果、長期にわたって逸失されてしまった。たとえば、中世におけるガラス画がおなじ運命をたどっている。交通が世界交通となり、大工業を土台としてもち、あらゆる国民が競争戦にひき入れられるときにはじめて、獲得された生産諸力の確実な存続が可能となるのである。
(カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)

 文化活動が活発になりながらも、資本主義は文化も経済が決定するようにさせた体制であり、文化を堕落させると非難されてきている。音楽やスポーツは、実際、巨大な産業に成長している。大相撲は見やすいように四本柱を取り払ったし、バレーボールがサーブ権を廃止したのを筆頭に、テレビ放映を意識して多くのスポーツがルールを変更している。時と共に、ゴルフのクラブのシャフトはパーシモンからメタル、カーボン、チタンへと変わり、ヘッドのサイズも大きくなっている。弱小メーカーが生産している頃には、競技会での使用は禁止されていても、有力メーカーが生産を始めると、アメリカ・ゴルフ協会(USGA)が許可するという事態が起きている。利益集団のキャンペーン次第で、ルールが決まる。文化が産業化されたせいで、公共性から離れているというわけだ。

 資本主義は産業化への意志である。スポーツのみならず、オモチャも二〇世紀に入って、巨大な産業に発達している。「文化」という概念は歴史的である。レイモンド・ウィリアムズは、『文化と社会』において、「文化」の言説を歴史的に辿り、「文化」を「市場経済」との関係で論じている。現在用いられる「文化」は一八世紀末のイギリスで派生した概念である。産業革命に伴う新たな生産形態は人々の生活に多大な変化を引き起こす。「文化」はそうした産業構造の下で形成された産業である。

 オスマン語とトルコ語の融合を試みたトルコの新古典派詩人を代表するヤフヤ・ケマルは、近代的な「文化」に反発し、生前、一冊の詩集さえ出版していない。芸術家が市場経済を気にするようになる前、芸術は公共のものである。ドナテルロの彫刻はフィレンツェの公共性の表象であり、ミケランジェロ・ブエナロディのダヴィデ像は共和制に完全に復帰したフィレンツェから依頼された公共事業である。また、チムールは占領した地域で住民の皆殺しさえ厭わなかったが、芸術家を例外として扱っている。

 彼は、芸術家や職人、技術者を見つけると、サマルカンドに連れて行き、偉大な都にふさわしい芸術作品・工芸品をつくらせている。宗教画・肖像画中心のフランドル画派に対抗して、『夜警』のような新たに台頭してきた市民の生活や風物を描いたレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン.の晩年の貧困は資本主義の兆候である。彼の後、画家の生前の貧困と死後の名声は常識となる。総合芸術を唱えたリヒャルト・ワーグナーは、『ニ―ルベルンゲンの指輪』において、神話世界を通じて、ブルジョア道徳を描くサービス精神を見せている。確かに、消費を優先させる資本主義下、文化はいささか経済に依存するようになっている。

 社会がゆたかになるにつれて、欲望を満足させる過程が同時に欲望をつくり出していく過程が次第に大きくなる。これが受動的に行われることもある。すなわち、生産の増大に対応する消費の増大は、示唆や見栄を通じて欲望をつくり出すように作用する。高い水準が達成されるとともに期待も大きくなる。あるいはまた、生産者が積極的に、宣伝や販売術によって欲望をつくり出そうとすることもある。このようにして欲望は生産に依存するようになる。専門的な用語で表現すれば、全般的な生産水準が低い場合よりも高い場合の方が福祉はより大きい、という仮定はもはや妥当しない。

 どちらも場合でも同じなのかもしれない。高水準の生産は、欲望造出の水準が高く、欲望充足の程度が高いというだけのことである。欲望は欲望を満足させる過程に依存するということについて今後もふれる機会があると思うので、それを依存効果(Dependence Effect)と呼ぶのが便利であろう。──昔から理想の社会についていろいろの説があったが、リスの車輪のようなタイプの社会を提案した人はいなかった。しかも、のちに述べるように、この車輪は完全にスムースに廻っているとはいえない。──財貨に対する関心は消費者の自発的な必要から起こるのではなく、むしろ依存効果によって生産過程自体から生まれる。生産を増加させるためには欲望を有効にあやつらなければならない。さもなければ生産の増加を起こらないであろう。
(ジョン・K・ガルブレイス『豊かな社会』)

 生産目的以外の消費は私的消費と公的消費があり、個人が特定の財やサービスの購入、もしくは行政組織による道路や学校といった公共施設の建設等によって引き起こされ、耐用年数が三年あるいはそれ以上に及ぶ耐久財消費、非耐久財消費、サービス消費といった種類に分けられる。消費、すなわち欲望の刺激は個人的な背景だけでなく、社会的な背景によっても形成される。それがモード現象を生み出す。消費優先はモードを招く。流行から逃れることはいかなるものもできない。流行は、景気同様、循環する。モードの循環は臨界状態に達し、決定不能性に至り、決定的なものは何もなない。なくてもいいけれど、あってもいい。

 一九八〇年代、糸井重里が西武百貨店のために考案したコピーの変遷がそれを物語っている。一九八一年が「不思議、大好き。」、翌年は「おいしい生活。」だったのが、一九八八年になると、ファッション狂騒曲として「ほしいものが、ほしいわ」になっている。消費化が進むほど、欲しいものは何もないという逆説に到達していく。欲望は、そのとき、デフレに陥る。消費は新たな欲望が喚起させるため、市場を求め、世界的な経済成長によってより拡大する。デヴィッド・リースマンによる大衆への「孤独な群集(The Lonely Crowd)」という命名は極めて正確である。LSDの時代には、現実逃避のために、ドラッグを使い、エクスタシーの頃になると、他者との共生感が欲しくてそれを味わっている。欲望が他者との関係によって決定する。「仲間よりぬきんでていたり、あるいは仲間からちょっとはずれていたりする人間達を同じような鋳型にはめこむ努力、それが子供たちの社会で行われているのである」(リースマン『孤独な群集』)。

 ケインズ主義は規模の経済において有効であり、消費が飽和状態に達している社会では、その政策は効力を発揮できない。富の生産は消費を目的に行われ、かつ生産を伴わない消費はありえない以上、過少生産は消費可能な財の不足を意味するから、過少消費に結びつき、過剰生産はしばしば経済恐慌をもたらして消費者の購買能力を奪い、同じく、過少消費を導く。このバランスが難しい。広告によるセーの法則の再確認は悩ましい状況を迎える。「ほしいものが、ほしいわ」が示す多品種少量生産がモードを満足させる。「ここには、大きな流れとして、産業社会から情報社会への移行がある。今だって、物を作るのが主流だろうが、付加価値部分が大きくなって、規格品大量生産よりコンセプトが多様化して、デザインなどのウェートが増えてきている。本来の情報産業は、そうした変化の最先端を示しているとも考えられる。つまり、システム的なものに、ネットワーク的なものを加味しようとしているのではないか」(森毅『社会主義から社交主義へ』)。

 消費が飽和状態を迎え、欲望が有効でなくなったとすれば、自己表現は小さくならざるをえない。「自己の表現といっても、声高に自分を見せびらかそうとすると、(略)ただ流行にまきこまれての横ならびにしかならぬ。むしろ、アクセサリー的なもので、ひそかに自己表現することから出発するのがよい」(森毅『「ベンチャー」「プリクラ」「2進法」』)。「アクセサリー的なもの」が自己表現では、モードはさして重要ではない。たんにアレンジするための、アーキタイプにすぎない。消費が牽引する経済は二〇世紀で終わる。「これまで経済理論は、経済人という単一の万能の選好順序の後光を背負った合理的な愚か者に占領され続けてきた」(アマルテイア・クマール・セン『合理的な愚か者』)。


第五節 コモンウェルス以後

 消費が飽和を迎えている文化から見る限り、コモンウェルス体制は二一世紀には主流として続かない。二〇二〇年には登場する新たな体制は文化にその兆候として顕在化している。政治や経済から次の体制を考察するのはまったくの見当はずれである。アンディ・ウォーホルがキャンベル・スープの缶を描いたように、二〇世紀の消費を支えたのは文化であって、次第に、文化が経済以上に露呈してくる。最近の広告は商品の紹介にとどまらず、それを買うことによって得られると思われる新しい生活を提案しているのであって、文化を売ろうとしている。産学協同が学問を推進してきた状況により、長い間、実利性を抜きにはできずにいたけれども、今や文化産業と学問が提携したため、実利性から遠い領域も活性化している。

 スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』の成功により、古生物学という実利に乏しい学問に、莫大な寄付が集まり、研究者の層が厚くなっている。近頃では、SFやスパイ映画の小道具の商品化を企業にアドバイスするコンサルタントも登場しているくらいだ。加えるなら、文化の経済学とも言うべき(スポーツ・マネージメントも含む)アーツ・マネージメントの発達も文化の時代の到来を予感させる。社会科学の諸成果を生かし、グローバルな観点を採用しつつ、アカデミックなアプローチを中心に、文化の質を確保・向上させながら、産業・活動として機能させる方法を考察する。その領域は劇場や美術館、スポーツ・チームの運営、村おこしを含めた都市計画、NGOの文化事業、音楽・映画制作といったポピュラー文化にも及ぶ。

 今日のエンターテインメント・ビジネスでは、入場料収入だけでペイしない。映画は二〇世紀を代表する大衆文化であるが、ハリウッドの映画は興行収益で黒字になることはほとんどない。映画の扱う金額は、下手な公共事業を上回り、権利関係は芸術の中で最も複雑である。コンテンツをさまざまなメディアに展開して、何年かに亘って、投資を回収しているのが実情である。リスクを減らすため、ハリウッドにおいては、すでに確立した名声を持つ監督や俳優を使う、手間暇をかける、マーケティングを徹底する、低予算の映画を数多く作製する、外注するといった対策がとられ、ヨーロッパでは、この他に、国が公的な補助を行っている。最近は、デジタル配信やシネマコンプレックスか映画産業を変えるのではないかと考えられている。あるいは、デヴィッド・ボウイは「ボウイ債(Bowie Fund)」を発行している。彼は著作権という概念は二〇一〇年代には消滅してしまうと予測し、作品の著作権を担保に個人債権をファンや投資家に所有してもらっている。このアイデアはアーティストだけでなく、さまざまな文化事業やプロスポーツ経営にも有効である。

 さらに、貧しい人たちだけに融資する銀行として、一九八三年、バングラデシュのムハマド・コヌスがグラミン銀行を発足している。ベンガル語で「農村」を意味する「グラミン」の名の通り、発足以来二〇年間に亘り、女性を中心に無担保で少額融資を行い、貧しい農村が貧困から抜け出せるよう支援している。バングラデシュ国内の三万以上の農村で活動が行われ、利用者の九割以上を女性が占めている。

 融資を受けるには、五人でグループをつくって銀行のメンバーになり、研修を通して、自分の名前のサインの仕方や生活改善、起業に関する知識を得て、融資を受けられる。五人のうち資金を最も必要とする二人が最初に融資を受け、翌週から毎週定期的に集会を開き、その場で、行員に返済していき、残りの三人も順次貸し付けを受けられる。融資された人々は、少額の資金で、家畜の飼育や農作物の栽培、工芸品制作などで安定した収入を得て、返済率は九割以上に達している。この試みは、貧困層に小規模融資を提供するマイクロクレジットの先駆けとして注目を集め、開発援助協力の新たな方法として同様のプロジェクトが途上国にとどまらず、世界五〇カ国以上で実践され、成果を上げている。

 グラミン銀行の成果にならって、一九九七年にはアメリカで一三七カ国が集うマイクロクレジット・サミットが開催され、その後、アジア、アフリカ、中南米の途上国を始め先進諸国でも、貧困の撲滅や雇用の創出などのためにマイクロクレジットが広がっている。また、グラミン銀行は、九〇年代初めから、預金や貸し付けに加えて、織物生産や農業、漁業といった事業もスタートし、さらに携帯電話やインターネットを利用した通信サービス、医療・保健サービスも進行中である。このプロジェクトは慈善事業ではなく、サービスをあくまでも有料で提供し、ビジネスとして成り立たせることで、受益者の自律に向かわせている。グラミン銀行の方針は、途上国の生産者を先進国の消費者が対等な立場で支援しようというフェアトレードのアプローチにも重なる。グラミン銀行の活動はたんなる地域経済ではなく、地域文化として考えるべきである。

 近代以降に誕生し、欧米的な銀行制度に対するアンチテーゼでもあるイスラム銀行もまた同様である。この制度は融資=利子ではなく、投資=利潤に基づいている。銀行は融資によって儲けるのではなく、投資した企業・団体・個人が利益を上げた際に、その投資に見合った配当を受け取る。ただし、発展が見こまれるとしても、ギャンブルや種類に関する投資は禁止されている。これはイスラム文化と資本主義の折衷であろう。文化は人の集まるところで育まれる。人を集めなければ、近代以前、公共の場は人の集まる場所を意味している。広場や市場、劇場、宗教施設などがその一例である。

 そこはたんなる商取引や芸術鑑賞ではなく、社交の場でもある。近代に入ると、人々の行動とは関係なく、国家や自治体が管理者となって計画・実行される事業が公共と見なされるようになってしまう。日本中でよく見る人の寄りつかないような公会堂は、公共の場ではなく、利権を貪る連中の私的な空間でしかない。公共と社交は不可分であったのに、社交が失われてしまっている。エジプトのナギーブ・マハフーズは、多くの小説で、カイロの路地の茶屋が持つ公共性=社交性を描き、近代化の矛盾を批判している。社交を復権しなければならない。公共性は社交から生まれるのであり、現代にふさわしい社交の場をつくり出さなければならない。アーツ・マネージメントは公共性と社交の再検討にほかならない。歴史は社交から捉え直す必要があろう。

 アーツ・マネージメントの理論に従えば、もちろん、質も高く売れる映画がつくれるわけではない。一九八一年に公開された『仁川』は朝鮮戦争を舞台に、アメリカと韓国の合作で、『遠すぎた橋』の二倍の予算をかけ、監督にテレンス・ヤング、ダグラス・マッカーサー役にローレンス・オリヴィエ、ジャクリーン・ビセットや三船敏郎を脇役に起用したものの、『遠すぎた橋』を上回る大失敗作に終わっている。何しろ、アメリカ公開の不評が響き、日本では劇場未公開、さらにビデオ化さえされていないという有様である。

 また、生涯にただの一本もあたらなかったため、女装趣味でも知られるエド・ウッドは、映画評論家から、「史上最低の映画監督」と称されている。確かに、彼の『プラン9・フロム・アウタースペース』は、地球人に戦争をやめさせるためにやってきた宇宙の支配者が大統領と面会できなかったので、墓場からゾンビを甦らせて地球を征服しようとする映画であり、わけのわからないプロット、一発撮りのためハプニングだらけのシーン、稚拙な演技、貧乏くさいセット、間抜けなセリフと何から何まで恐るべき唯一無二の作品である。しかも、これを偶然出会った憧れのオーソン・ウェルズに「夢を作りたいのなら頑張れ、他人の夢を作ってどうする?」と言われて撮ったのだから、不思議と言わざるをえない。けれども、ティム・バートン監督が彼のスタイルを模して、彼の半生を描いた『エド・ウッド』は、「近ごろにない傑作」と淀川長治が激賞しただけでなく、ヒットもしている。

 傑作だけにしようとすると、映画は全体として痩せてしまう。無数の駄作が映画という芸術の豊かさの証にほかならない。夏目房之介は、『マンガはなぜ面白いのか』の中で、「マンガがとても豊かな娯楽性を発揮して、大衆文化として根づいているとすれば、先鋭的な表現と定型的な表現とが互いに完全に分離しないで、交流しながら発展しているからだろうと考えられます。おうおうにして批評家やマニアがバカにしてしまうような作品、どこを読んでも同じような類型的な作品がたくさんあることによって、初めてマンガ文化全体が豊かなダイナミズムを持ちうるのです。『いいマンガ』、『優れたマンガ』、『先鋭的なマンガ』のみを評価して、『くだらないモノ』は排除するという発想でマンガをとらえると、自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」と言っている。これはマンガに限らず、文化全般に言える。文化であるなら、「『くだらないモノ』は排除するという発想で」とらえると、「自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」。その業界が行き詰ってしまうのは、そういった原因で起きる。つまり、多様性を重視する限り、政治だろうと、経済だろうと、文化から認識せざるをえない。その文化も、実際、オルタナティブ化が著しい。

 音楽は胞子のようなもので、たぶん時代のなかで舞っているのだろう。それが偶然にケージの脳髄にとりついて、楽想のカビを茂らす。そしてその楽想が、時代と社会の気象条件のなかでキノコとなる。それが、ぼくたちの耳にすることのできるケージの音楽。

 こうしたことは音楽にかぎらず、芸術というもの、もっと広くは文化というものの性格でもあろう。歴史のなかで社会が動き、そして文化は社会に寄生する。

 寄生といってもマツがあるからマツタケが生えるばかりでなく、マツタケがあるからマツがはえる、という考えもある。マツタケはそんなにないようでも、マツタケの菌糸はカビになって茂っているかもしれない。マツタケばかりでなくて、さまざまの菌糸がマツの根に寄生して、土のなかの生態系を作っている。

 地球環境と言うとき、つい表面の緑に目をやるが、その下の土のほうが大事だともいう。酸性雨などの影響にしても、木が枯れたりするのは末期で、まず土壌の変化から始まるらしい。大気は土の上にあるようで、本当は土と深くかかわりあう。

 松も若い間は、そんなにカビに養分を与えていては伸びられない。しかし、ある程度まで根をひろげてくると、カビを養いながら土の生態系を作らねば、水や養分の循環かうまく進まない。社会と文化の関係もそうしたもので、若い社会は文化のことなんか考えてられないが、やがては文化を寄生させるようになる。だから、文化を頽廃などと言うが、腐熟することで文化はゆたかになる。表現主義を頽廃文化としたヒトラーの社会も、形式主義を頽廃文化としたスターリンの社会も、文化を育てそこなった。

 もっとも、どんなマツだって、やがては朽ちて倒れる。いつまでもマツが茂り続けたのでは世が変わらぬ。その倒れる流れのなかで文化が栄えるので、ときには寄生した文化が原因で社会が倒れたように見えることもある。十八世紀のブルボン宮廷に寄生していた百科全書派の文化がフランス革命をもたらしたように、人民がフランス宮廷を倒したというと景気がいいが、寄生文化で倒れたといったというのも、秋の気分があって、ぼくは好きだ。
(森毅『文化としてのキノコ』)

 新たな社会では、さまざまな芸術作品の中で先取られていた物事が現実化する。芸術家たちが面白がって想像力を駆使して生み出した理想から人々はインスピレーションを受け、やりくりしつつ、現実を構築する。次の世界は芸術の中に顕在化している。これまでもそういった試みがあったけれども、もはや非現実的と冷笑するものはいないだろう。

 想像力は善の主な道具である。それは、相手についてのある人の考えや処遇は、想像上に相手の立場に自分自身を置くことができるその人の力によっている、という多少の決まり文句である。しかし、想像力の第一義は直接的な個人的諸関係の範囲を遠く超えて広げていくことである。「理想」が因習に従って、または感情的な夢想の名称として使われている場合を除けば、すべての道徳観や人間的誠実さにおける想像の諸要因は想像的である。宗教と芸術の歴史的提携はこの共通の特質にその根源を持っている。

 それゆえ、芸術は道徳以上に道徳的である。と言うのも、道徳は現状の神聖化や習慣の反映、できあがった秩序の強化であり、またはそうなる傾向にあるものだからである。人類の道徳的預言者たちは、たとえ彼らが自由な韻文においてまたはたとえ話によって話しているにしても、いつも詩人であった。しかしながら、一様に、諸可能性についての彼らのヴィジョンは、すでに存在し、半−政治的な制度に硬化した事実の布告にすぐさまコンバートされてきたのである。思想や欲望を支配しなければならない理想の想像的表示は方針の規則として扱われてきた。芸術は証拠を凌ぐ目的や、硬化した慣習を超越した意味の感覚を生き生きとさせておく手段だったのである。
(ジョン・デューイ『経験としての芸術』)

 大衆はたんに受動的ではない。互換性は大衆を無批判的に生産物を受けとるだけの消費者にしたわけではない。それは改造の楽しみ、すなわち小さな自己表現を大衆に喚起させている。販売された直後から、T型フォードも改造され、ホットロッドとして公道を突っ走っている。もともとは大量生産された一つにすぎなかったとしても、カスタム化された「イージー・ライダー・チョッパー」は完璧な美しさを持っている。

 コンピューターも、使いやすいように、ユーザーが環境を設定できる。規格が合うなら、もっと自分好みの部品と交換できるというわけだ。互換性は発展し、コンピューターのみならず、汎用性に辿り着く。汎用性はメーカーの束縛を軽減させる。その典型は、登場以来五〇年以上も世界中で使われている史上最高の汎用型四輪駆動車ユニモグ(UNIMOG)であろう。用途や環境、交通事情に合わせて、オプションを選べるだけでなく、ボンド・カーばりに、ユーザーが変身させられる。画一化=改造化=小さな自己表現が二〇世紀文化の特徴である。大量生産された工業生産も、SONYのウォークマンは時代のトレンドだったし、ポンテアックGTOやフェアレディZ240のように、消費者は美しい芸術作品として購入している。それどころか、ニッサン・キングキャブのようなピック・アップ・トラックを農場や建設現場で使われる作業車ではなく、一般の乗用車として愛用し、荷物を荷台に載せないオーナーさえ少なくない。MacPCを購入することやLinuxOS、さらにOpenOffice.orgを使うことは必要に迫られたためという以上に、自分の忠誠心や立場の表明を意味する。

 価格ということでは、安ければいいとは思えない。みんなが安く買うものは、ちっとも安くないのだ。他人から安く買うからこそ、安いのである。商品は本質的に差別化の構造を持っている。大量生産と大量消費によって価格を下げることは、こうした矛盾が含めれている。
 流通構造が変わる背景には、社会全体の差別化多様化の流れがある。談合と系列の体質の変化が考えられているのは、社会が安定から流動に向っているからであって、価格を安くするための桎梏といったことではあるまい。

 安売りが駄目になると、価格より質などと言いだす人がいるが、質の評価に共通の権威系列があるかのように錯覚している。好みには、基本的に優劣はない。流行はあるかもしれぬが、それはけっこう短命。むしろ流動多様の不安定性のほうが時代の流れ。
(森毅『文化としての価格』)

第六節 グローバリゼーションの意義
 グローバリゼーションは世界交通の拡大であるが、それは道の二重性を示しているのであり、森毅は、『道は流れるのみにあらず』において、道の二重性について次のように述べている。

 道というものを、なにかが流れているとき、それは横ぎるものにとっての障害でもある。現在の自動車の通る道を横断しようとする歩行者は、いつでもそのことを感じてしまうのだが、それは昔からのことである。
 川は水を流すだけでなく、そこを舟が人や物を運んでいた。しかし、陸路を行くものからすれば、橋か渡しがなければ、渡られぬ。あるいは、山の尾根づたいに道はあるが、谷から山を越えようとすると、峠へ向けて懸命に登らねばならぬ。
 通路であると同時に障害であるという、道の性格は、道が通路に一元化されるほど目だってくる。自然ではもっと、通路と障害はいりくんでいた。
 自然の川は曲がりくねって、淀みを作り、水を流れるばかりでなく、ところによっては瀬があったり、石づたいに渡ることもできた。その分だけ、水は流れにくかったりもするだろうが、それほどに流れることに専念していない。葦が茂って鳥が巣を作ったり、さまざまの生物が棲みわけて暮らしていた。ついでに人間のほうも、魚をとりに出かけたし、それでなくとも舟あそびができる。

 現代では、道路を店や芸能空間と分離して、通行に一元化しすぎているように思う。花壇やベンチを置くのも制限されがちだ。物売りや芸能も禁止される。歌ったり踊ったり、なにかを伝えようとするのには、あまり自由ではない。

 でも、道の流れる機能性を高めることには限界があるのではないだろうか。このごろだと、人が流れるよりは、車が流れるほうが機能性が高いので、人より車のための道になるのは必然である。そして、車だけが流れる高速自動車道が作られるのは、この必然の流れだろう。それを横ぎる狸や蟹や蛙には、迷惑な話だが。
 しかしながら、よりよく流そうとすると、流れる車も増えてくる。当然のことに、渋滞が発生する。渋滞のないようにと、細かな工夫がなされるだろうが、渋滞しないように整備するというのは、シジポスの業のような木がする。よく流れる道を作れば作るほど、そこを流れようとする車もまた増える道理だから。
 ぼくはこのあたりで、道のコンセプト考えなおしたほうがよいのではないか、と考えている。渋滞しないようにするのではなくて、渋滞しても気持ちよくできることを考えるべきではないか。昔、半ば冗談に、いつも渋滞するところには、スピーカーを備えて、十分ほど車を出て、みんなで河内音頭でも踊りましょうや、と提案したことがあるのだが、こうしたコンセプトの転換が、本当に必要になってきたような気がする。それは、流れることに専念してきたことの帰結ではないか。

 二〇世紀は消費という大きな流れを「よりよく流そう」としてきたけれども、「流れることに専念してきたことの帰結」、消費は飽和状態を迎えている。グローバリゼーションは、最後の大きな流れである。ローカルな文化にとって、それは「障壁」でしかなく、反発を招くのは当然だろう。しかし、大衆は「渋滞しないようにするのではなくて、渋滞しても気持ちよくできることを考える」術を見につけている。そのうちに、人工的に誘導された大きな流れの川を「流れることに専念していない」自然の川に戻すことになる。「葦が茂って鳥が巣を作ったり、さまざまの生物が棲みわけて暮らしていた。ついでに人間のほうも、魚をとりに出かけたし、それでなくとも舟あそびができる」。

 アメリカによるグローバリゼーションはいささかコメディア・デラルテじみたコモンウェルスである。それへの抵抗運動は一九世紀的なアイロニーにすぎない。グローバリゼーションはエントロピー的現象であって、二〇世紀的なユーモア、特に、「処刑台のユーモア(Galgenhumor)」が必要である。「月曜日、絞首台に引かれて行く罪人が『ふん、今週も幸先がいいらしいぞ』といったとする。この場合には、ユーモアを惹き起こしたのは当の罪人自身であり、そのユーモアは彼だけで完結しており、それが彼にある種の満足を与えることは明白である。一方このユーモアにはなんの関係もない傍観者たる私は、この罪人が惹き起こしたユーモアからはある程度の間接的な影響を受ける。すなわち私は、おそらくはその罪人が覚えるのと同じような、ユーモアの快感を感ずるのである」。「いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、ずいぶん危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである」(ジクムント・フロイト『ユーモア』)。

 会が始まるまでなかなか集まらな[か]つた。殆んどが農家で松林と竹薮の間により固まり町名はついてゐても片田舎であつた。班長さんが待ちくたびれて、再び、集まつてない家々を廻つてやつとこさ会が始まつた。七時の予定が九時頃であつた。松林のなかの尼さん、濁酒売りの婦、よぼよぼの腰の直角にまがつたお婆さん、それに、てらてら額の禿げ上がつた老人や、防寒帽を被つた、長い房々したひげの真白い、絵本の中にでも出て来さうなサンタクローズみたいな爺さん、白い喪服に夏の褪色したパナマ帽をのせていやに四角ばつてゐる男、リンコルンみたいなあごひげとあごのそりかへつた百姓さん、昔風の頭に冠をのせた鼻の赤い書堂の先生風情の老人、それから荒くれたその日かせぎの労働者や百姓たちであつた。

 みんな[皇国臣民の]誓詞が唱へられず、ここここと皇国臣民をこばかり続けた。なり、だけはわかつてゐるらしく、が、なーりと変に歌ふような調子でめいめいが尾を引いた。

「なかなか覚えられねえだが、どうすりやええだよ?」

「諺文で書いてもらつたらええだ」

 このやうな人達の集まりだつたから、話は話を咲かせユーモアはユーモアを生み、無知にだまりこくつたり、悠長に時間のみ費やした。かんでくるめるやうに説明しても納得したかどうかわからない。しかし一度具体的な配給のことになると、なかなか座は活況を呈したものでめ[あ]る。
(崔秉一『梨の木』)

 「ユーモアへの意志、すなわち事物を何らかの形で機知のある視点で見ようとすることは確かにトリックではあった。しかしまさに、一種の生活術の意味におけるトリックが問題であったのである」。「ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心の武器である」(ヴィクトル・エミール・フランクル『夜と霧』)。グローバリゼーションの達成は、逆に、アメリカの世紀を終焉させる。そもそもグローバリゼーションは一様ではない。グローバリゼーションは一九九〇年代から二〇一〇年代の間に拡散するエントロピー現象であり、一〇年間隔で三つの段階に分類できる。一九九〇年代、ニューヨークとロンドンを発端として金融自由化の世界標準化に伴い、従来の国民国家と資本主義とは違った新たな矛盾、すなわちコモンウェルスのもたらす深刻な諸問題が顕在化する。

 コモンウェルス体制は、カントール集合のように、スカスカである。二〇〇〇年代、新しい世界秩序の下、さまざまな文化的な変容、エスニック・カルチャーとポップ・カルチャー、ファイン・アートが融合したり、分化したりする。二〇一〇年代に入ると、グローバリゼーションは定着する。グローバリゼーションという感染症が流行し、それへの対処療法や人々に耐性免疫が生まれ、毒性が軽減して共生する過程である。対処を誤り、グローバリゼーションが突然変異し、猛威を振るう可能性も否定できない。

 合衆国をイメージさせる多国籍企業は、利益集団として、ネオコンの外交政策をとる合衆国政府に不満をぶつけている。アメリカのイメージが悪くなれば、コークやペプシ、マクドナルド・ハンバーガー、ケンタッキー・フライドチキンの売り上げが、世界中で、落ちる。かつてと違い、そうした企業はアメリカのライフ・スタイルを現地に持ちこむよりも、「てりやきマックバーガー」が告げている通り、現地の文化になじもうとしている。ハリウッドも、世界の文化に対する理解を深め、バランスがとれ、偏見がないように映画制作をするようにしている。文化が優先されるのはこれからの流れである。世界に向けて各地の文化を新たなライフ・スタイルとして提示するのが先決であり、グローバリゼーションに対抗し、革命を起こそうというのは古典的認識にすぎない。「全ては果たされた(consummatum est)」。

 予言はおそらく逆説を含んでいるのだ、とぼくは思っている。予言は当てるためにおこなってはいけない。的中させてはならぬのではないか。現存する世界の可能性を広げるためだけに予言がある。よしんば成り立たなくても、あれこれと考えて、こんな世界もある、あんな世界もあると提示するのが予言の予言たるゆえんだろう。
(森毅『天才予言者、モーリーです』)


第七節 カルチャー・トラフィックへ

 生産から消費に二〇世紀に経済的主眼が移ったように、二一世紀にはさらに分解へと移行するだろう。革命は、実際には、すでに起きている。「少なくとも決定的な生産力がプロレタリアの手に集中されるまで、しかも、世界の主要な諸国でプロレタリア権力が樹立され、民族間の軋轢が解消されるまで、革命を永続させることである」(マルクス=エンゲルス『一八五〇年の共産主義者同盟中央委員会の同盟員への回状』)。二〇世紀の革命はinvisibleであり、クール、ソフト、非線形、そして長く続く。キャンペーンはコモンウェルスを疲弊させ、アメリカの世紀はエンド・ロールを迎えている。

 これまで巨大な国家が誕生して、しばらくすると、支配が行き届かなくなって、諸民族・諸宗教が反発し、弱体化して滅んでいったが、今回の体制は別の衰退をする。コモンウェルス体制が完成したとき、国家というものは存続するが、現在の形態ではなくなると同時に、コモンウェルスの分解が進んでいく。「そして次の世紀になったら、世紀末のあの時代に改革の季節のあったことを昔話で語りましょうよ。歴史のことだから、その時代から見ればうまく往っていたり、まずく行っていたり。それでも、季節はあるから楽しい。革命は正しい。ほんの口先で言ってみるだけですけど」(森毅『改革の季節』)。「革命が起こったあと、つまり、『これしかない』っていうので、突破して変わったあとは、維持がうまくいかないことが多い。結局コントロールできないのね、パワーがありすぎて。コントロールを信じこんでどんどんいったら、ギロチンまで行っちゃうわけ」(森毅『革命には向かない性格』)。

 アントニオ・グラムシは、『獄中ノート』の中で、市民社会が発達した西欧では、権力掌握のためには政治的権力を転覆する「機動戦」だけでなく、市民社会のあらゆる場面において優位を占める「陣地戦」を展開しなければならないと言っている。前者は権力的ヘゲモニー、後者は文化的・道徳的ヘゲモニーの問題である。コモンウェルス体制下では、むしろ、すべてを分解する「ゲリラ戦」が必要である。「グローバル・ヴィレッジ(Global Village)」(マーシャル・マクルーハン)ではグローバル・デモクラシーが発達し、議会でも、市場でもなく、サイバー空間によって従前と異なる民意が図られる。

 インターネットは現実を拡張するのであって、実世界と無関係ではない。その意味で過度の期待もすべきではない。サイバー空間も現行のものとはまったく違うものになる。今がニューラル・ネットワークだとすれば、「ホルモン・ネットワーク」と言えるだろう。ニューロンが電話とすれば、ホルモンは郵便である。市場が拡大すればするほど、内包する隙間の数は増え、それによって相対的に機能を縮小していく。その隙間を通って人々は出会い、新たな社交の場が生まれる。しかし、その穴につかえてしまう可能性を忘れてはならない。「山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである」(井伏鱒二『山椒魚』)。

 インターネットはあらゆるものを保存・中継し、人々のアクセスを待っている。人々は国民・大衆に代わり、別称の方がブランニュー・デイになる。新たな人々をネグリ=ハートは「マルティテュード(Multitude)」と呼んでいる。それも悪くない。「野次馬(Rabble)」や「スペクトラル(The Spectral)」という名称も捨てがたい。The spectral is haunting the globe. 「僕は、予言というものは、実現のためではなく、想像のためにあると考えている」(森毅『「頭の視野」をひろげるために必要な三つの地図』)。

 小さな自己表現は人々が菌類・微生物・酵素になることを意味する。「生とは死を組みこんで成立している。菌と植物、あるいは菌と動物の共生というより、それは生と死の共生でもある」(森毅『キノコの不思議』)。寄生生物は分解と同時に生産と消費も行っている。もしくは、生体内で生ずる化学反応の触媒となる酵素としての生き方だってよいだろう。”All my humor is based upon destruction and despair. If the whole world were tranquil, without disease and violence, I'd be standing on the breadline right in back of J. Edgar Hoover”(Lenny Bruce).

 リサイクルやリユースが環境問題における有効な対処法となっている通り、今日の文化は、菌類のように、微生物のように、酵素のように、フラクタルの隙間に入りこみ、分解者・還元者として生きている。外部経済性をうまくやりすごすのは文化の力である。毒があったとしても、それを避けるのではなく、生命体にとって有用なものへと変換することこそ望ましい。ビタミンB12は人間の体内で血液をつくるのに必須な栄養素であるけれども、動物も植物も合成できない。微生物だけが合成できる。アミノ酸や遺伝子の塩基を構成する窒素は大気中に豊富にある。しかし、窒素は三重結合を持つ安定した物質なので、これをアンモニアに変換しなければ、植物はアミノ酸を合成できない。

 空気中の窒素を利用可能なアンモニアにする「窒素固定」を行っているのも微生物である。動物は、その結果として合成されたアミノ酸を摂取して、タンパク質や核酸をつくっている。「生育環境にきわめて順応性が高く、生きるためには必要とあらば超能力を発揮する微生物は、この広い地球のすみずみに、びっしりと生育している(略)。そこでは驚くべき種類と数の微生物が、この地球の浄化と維持のために寸分の休みもなく発酵作用を営んでいる」(小泉武夫『発酵』)。微生物はいかなるところにも棲んでいる。もっと微生物の思考、微生物の態度を持つ必要がある。環境問題を解決するには、分解主導で、政治・経済のシステムを再構成するほかない。

 農業も、近代以降、工業化が進められ、統計上の生産量が向上したおかげで、今では、先進国の多くで肥満が直接的・間接的に病気の原因となっている。その上、政府は税金を農家への補助金と生活習慣病の対策に費やさざるをえない。成長しても、途上国は、不安定な気候や世界経済のため、食糧問題に喘いでいる、「自然はその働きにおいて飛躍せず(natura enim in suis operationibus non facit saltum)」。「助長」の由来となった孟軻の『孟子』の「公孫醜(上)」において「宋人有閔其苗之不長而偃之者。芒芒然歸、謂其人 曰、『今日病矣、予助苗長矣』。其子趨而往視之、苗則槁矣」とあるように、自然を支配しているのではなく、自然に寄生しているという事実を認め、分解者として振舞うことによって、近代的な諸問題の大部分は片がつく。Parasitism is symbiosis.

 哲学者はこれまで世界を解釈・変革しようとしてきたにすぎない。重要なのは世界を分解することである。文化は社会を発展させていくだけでなく、それを分解させていく機能がある。文化だけがこれを行える。その分解があって、初めて、次の社会が生まれる。コモンウェルスという雲による気象を予測するには、大気の状態を観測していただけでは不十分である。多くの生物が天気予報を的中させるように、地中の変化を調べる必要がある。「大気は土の上にあるようで、本当は土と深くかかわりあう」。冬中夏草のように、神を尊厳死させなければならない。二一世紀には「世紀」という概念も分解される。

 特定の国の世紀という時代区分もない。"Everything is happening all the time. Every googolplexth of a second!"(Thelonious Monk).二一世紀は「神の尊厳死」の時代である。神は積極的尊厳死を求めている。むろん、これは宗教の死ではない。その公共性を再検討した上での宗教の等身大化、すなわち自由主義的宗教を意味する。神の尊厳死へ向けた倫理を共同作成する必要がある。文化は神の尊厳死に向けて動き出す。文化が政治や経済さえも決定する。次の政治・経済体制がいかなるものであるかという問いは、われわれが答えることさえ笑止千万であり、文化に対する軽視から生じているのであって、すぐにそれを省みるべきである。

 芸術が比類のない教育機関となるのは、コミュニケーションによるものである。しかし、その仕方は教育についての観念から通常連想されるものとの間には大きな隔たりがある。この仕方は通常われわれが教育と考えるものよりもはるか高いところに芸術を引き上げるから、われわれは芸術と教育や学習とを結び付けるような言い方に嫌悪を感ずるのである。しかし、実際は、われわれの感ずるこういう反感は、想像を除外するようなあまりに融通のきかない方法をもってする教育や、人間の欲望や情緒に触れるところのない教育に対する非難である 。
(ジョン・デューイ『経験としての芸術』)

 文化における意思決定は、従来、前近代的と見なされてきたけれども、その知恵が近代的な認識を柔軟に諭す。天才サーファーのレイアード・ハミルトンは、高度なイノベーションを経た後、原点とも言うべき材料のセコイアの木でできたサーフ・ボードに到達し、驚異的な技を披露している。「我々の誤りは、事実を[原現象]と見なすべき場面で、すなわち、かかる言語ゲームが行われている、と言うべき場面で、説明を求める、ということである」(ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『哲学探求』)。

 文化の影響は地球内にとどまらない。ジミー・カーター政権下の一九七七年、NASAは惑星探査機ヴォイジャー一号・二号を打ち上げたが、宇宙人との遭遇に備えて、自然・人間の営みや古今東西の音楽、各種言語による挨拶を収録している。チャック・ベリーやグレン・グールドは地球外生物の文化にも影響を与えるかもしれない。

 二〇〇〇年一二月二日付『朝日新聞』に、特派員の山中季広が寄せた「彼が輝いたとき」という次のようなコラムが載っている。

 ほんとうは大統領になる気なんかなかったんじゃないか。米共和党のブッシュ候補(五四)を間近で見るたび、そう思う。

 最初は雪の一月、アイオワ州。予備選を前にした緊張か、壇上で舌がもつれて困っていた。四月のニュージャージー州では、「歩き方まで貫禄不足」と支持者に指さされていた。

 八月の党大会も十月の討論会も、逃げ出したくなるほどの苦行だった。顔にそう書いてあった。十一月末の「勝利演説」は陣営をハラハラさせるほどの早口。原稿を映し出す装置が壊れたら、と焦ったのだろうか。

 二年余り、周囲から励まされ、おだてられ、しりをたたかれて何とか投票日まで持ちこたえた。やっと終わったと思ったら、建国以来の大接戦。いまだに当落さえ定まらない。
 子供のころから、いくら努力しても「七光り」呼ばわり。学業はふるわず、酒におぼれ、事業につまづいた。女房にしかられて、ようやくシャンとしたのは四十歳。州知事になれただけで上出来だと思っていた。なのにまわりがあんまりおだてるから、しぶしぶ選挙に出てみたら、この始末。「楽勝だ」「圧勝だ」と甘言を並べた連中は、一体何をしてくれたんだ──。

 今考えているのはだいたいこんな線だろう。

 一番輝いて見えたのは、ニューハンプシャー州の予備選で大敗した夜の敗北宣言だった。本来の持ち味がよく出ていた。劣等感の強い少年だったんだろうな、きっと。

 正統性に決定不能性を持った大統領は国民国家を正統化してきたすべてに決定不能を突きつけ、「敗北宣言」を発するために当選している。彼は、今、「アメリカの世紀」の「敗北宣言」をし続けている。”Shove it!”
 
 未来を当てようなんて、大それたことは考えないのだが、そのために意外にも当たってしまう。もちろん、まったく外れることもあるのだが、それはそれで、あまり自分の予測に思い入れがなかったので、すぐに忘れてしまう。未来に期待を抱きすぎて、その期待のために無理をするのは性に合わない。

 それでは、なぜ予測をするのか。自分の未来にいくつもの可能性を準備しておくためだと思う。一つの可能性だけを夢見るよりは、ゆたかな未来をえがける。今までの延長線上で一つに決まっていたら、安心のようでも暗くなる。
(森毅『一年の占い』)

 ユートピア的、あまりにユートピア的主張を続ける理論家であってもわかることであるけれども、新たな体制が登場しても、多くの問題は残るし、予測していなかった事態に直面することは予想できる。文化に対し、政治・経済は妥協を申し出ざるを得ない。それは、マリウス・プティパの振りつけに従って、ウィリアム・フォーサイスが『白鳥の湖』を演じることと同様、想像できないかもしれない。しかし、「それは、別に難しいことではない。人工でがんばるのをやめて自然にまかせ、未来へ向けての計画より昔のあり方を思い出せばよい。そのために、流れは悪くなるかもしれぬが、そのかわり、道そのものを楽しめる」(森毅『道は流れるのみにあらず』)。「カルチャー・トラフィック」は、そのとき、確立する。

 文化は社会の暗黙知である。社会の身体知が文化と呼ばれているとも言える。コモンウェルスはフラクタル性によって暗黙知の重要性を人々に認知させたが、そこまでだ。カルチャー・トラフィックは暗黙知の時代の到来を意味する。それは暗黙知をそのまま受容するのではなく、明示化し、広く共有しようと試みられるだろう。そうした相互作用が新たな社会を生む。”All’s well that ends well”.

 十九世紀や二十世紀は変動の時代とは言いながら、その変化の方向性が単純だった。競争社会と言いながらも、コースが決まっていてが、その中でガンバリ競争するしかない。フェアな競争というやつだ。それよりは、違うコースを通るほうが、本当の競争であって、進歩が生まれるのはこちらの競争によってである。新しいコンセプトを考えれば、相手を出しぬける。その代わり、他人と違うコースだから、クマに会って食われてしまうかもしれぬ。学問でも芸術でも、そしておそらく産業でも。そうして進歩してきたはずだ。二十一世紀はおもしろい。ぼくは生きられぬのが残念。
(森毅『二十一世紀大予言』)

つづく