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「死の研究所」、日本の「731部隊」は
どのように機能したか(その3)
ロシアテレビ局731部隊ドキュメント

Лаборатории смерти. Как
работал японский «Отряд 731»

出典:RT


青山貞一・池田こみち (環境総合研究所顧問)
 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年9月16日
 

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 以下は、中国黒竜江省ハルビン市にある
日本語名、731部隊遺跡陳輝館址陳列館中国名、侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館の入口にある標識。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 以下は、731部隊遺跡陳輝館址陳列館の内部。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 以下は731部隊遺跡陳輝館址陳列館内に展示されている人体解剖中のレプリカである。腸などがむき出しになっており、周辺には731部隊の医師や研究者、兵士3人がメスをもっている。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 以下は731部隊遺跡陳輝館址陳列館内部の解剖などにつかう医療用のハサミの数々。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 以下は731部隊遺跡陳輝館址陳列館内部の解剖実験室の再現写真。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 以下は資料を指さしている山邉 悠喜子(やまべ ゆきこ)氏。

 山邉 悠喜子  社会活動家(日本)
 Юкико Амабе
 общественный Деятель ( Япония)

山邉 悠喜子氏 プロフィール
 1929年1月、東京都生まれ。
 1941年4月、父の赴任先「満洲製鉄」、中国東北部遼寧省本溪市に移住。
 1945年12月、16歳、東北民主聯軍に参加。後に改名して「中国人民
   解放軍第四野戦軍後勤衛生部」勤務。
 1953年帰国、東京都国立市に在住。
 1980年代末より、東北黒竜江省・吉林省、遼寧省を中心に歴史調査。
 1990年代より、「731部隊・毒ガス全国展」に参加。ABC企画委員会、
   元副代表。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

<参考>

日本に勝利した 中国民衆の抵抗 ―私が中国で見たこと、聞いたこと―
https://ameblo.jp/greenforum/entry-12549002650.html

山邉 悠喜子(やまべ ゆきこ)さんは、1941年、12歳だった時に母親に連れられ、遼寧省本渓市にある日本の炭鉱会社で働く父親の元へと中国に渡りました。16歳の時に満州(中国東北部)で敗戦を迎え、その後の中国の国内戦争の混乱の中、山邉さんは日本軍国主義の侵略で虐げられ、土地を奪われた農民とともに、東北民主聯軍(連軍)の看護婦として解放戦争を体験しました。そして中国が解放された後、1953年に日本に帰国します。日本に帰った後、「鬼畜米英」と憎んだアメリカ兵と日本の女性が連れ立って歩くのを見たり、アメリカ兵は大邸宅に住み、日本人は屋根と屋根が重なるような小さな家に住んでいるの見て、解放された中国にはなかった不平等を感じます。中国での経験を忘れることのできない山邉さんは、もう1度中国へ渡るのでした。

 日本は戦争に負けたが、戦争が遺した問題はその後も解決されず、その歴史の真相を知る人も多くはありません。山邉さんは、現在、731部隊遺跡世界遺産登録を目指す会会員、「日中平和友好会」顧問として活動し、中国に遺棄した化学兵器の問題、関東軍731部隊の問題、慰安婦問題など、自身が中国で見たことや聞いたことなどありのままの事実を語り続けています。

 武器もない中国が、なぜ日本に勝利したのか。そこには民衆の抵抗があったと語る山邉さん。

 今、日本は米国に追随して軍備を優先し、改憲して再び戦争の道を進む動きが強まっています。そんななか、歴史の事実を見つめ、平和と友好を築いていくのは、私たち日本の民衆の抵抗の力なのではないでしょうか。

中国農民の軍隊(抗日民主連軍)に参加して日本の侵略を知る
http://www.chinalaborf.org/yamabeyukiko1703/

 山邉さんは、1941年、父親の仕事の都合で中国東北部に家族と共に移住し、16歳で敗戦を中国で迎えたが、当時日本が侵略者である自覚はまったくなかった。敗戦の翌年、家族と離れ単身で東北民主連軍(いわゆる八路軍)に看護婦として参加し、足かけ8年にわたって国共内戦の中国全土を行軍した。
---中略-- 

731部隊は人類への犯罪
 その後新中国成立後の1953年、同じ部隊の仲間である夫とともに帰国した。1955年の砂川事件の判決を見て、軍事基地を提供するなどアメリカに従属することをおとなしく受け入れる日本人と国を守るためなら「死んでも屈服しない」という中国民衆と比較して大きな失望を感じる。1970年代になってもういちど中国解放軍を学ぼうと中国を何度も訪れる。そして、定年退職を待って、日本語教師として再び中国へ渡った。長春滞在中に関東軍防疫給水部(731部隊)が抗日戦士を人体実験したと書かれた掲示板(森村誠一著「悪魔の飽食」に基づく)を見て衝撃を受けた。彼女は事実を自分の目で確かめるため、1988年黒竜江大学に留学し、中国の学者に同行して731部隊で犠牲となった人々の手がかりを求め歩いて調査・聞き取りを続けた。

 中国政府・大学・研究所が調査を進めた結果、731部隊はコレラ菌、腸チフス菌、ペスト菌など猛毒病原菌を使った生物兵器で敵=中国人民を皆殺しにする目的で人体実験を続けていたのである。その実験材に使われ、殺された中国人は3000人を超えることが明らかになった。実験台にされたのは解放軍(民主連軍)の捕虜たちの中でも関東軍憲兵隊によって「当人の意志強固にして逆利用の価値無し、特移扱いが適当」とされた人たちが731部隊に送られたのである。つまり、抗日運動において「死んでも屈しない」兵士たちが「特移扱い」-人体実験の対象だったのだ。

 2001-2003年黒竜江省と吉林省で関東軍憲兵隊の「特異扱い」を命じる277人分の文書が発見された。731部隊の罪障の数少ない「鉄証」(証拠)である。文書は出版され、公開されたが、日本政府は今に至るもまったく認めることも、謝罪することもしていない。また、敗戦直前の8月13日、731部隊の司令官石井四郎は部隊の撤収を命じるとともに残された捕虜404名全員を毒殺して庭で焼却し、その灰を川に流した。それを証言する元兵士がいたにもかかわらず、その責任者石井四郎は米軍に研究成果を与えることで戦後長く生き延びた。こうして戦後の米ソ冷戦の国際政治の闇の中で戦争犯罪者が隠ぺいされた。ヨーロッパでナチスが敗北した後、捕虜が連合軍によって救出されたのとは対照的である。

 山邉さんは「細菌戦の犯罪はアジア一国のものではありません。それは世界人類への冒涜です」と語る。そして、日本人としての責任を痛感し、「命ある限り戦争被害を解決する努力をしなければならない」と強い思いを抱き、日本に戻った1990年代、731部隊展の企画、続けて毒ガス展の企画に精力的に取り組んだ。中国での調査・聞き取りも含め、今も変わることなく続けている。

★「日本鬼子ってどんな意味?」~山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆
   (レイバーネット掲載・佐々木有美)
    http://www.labornetjp.org/news/2017/0305hokoku

 1990年代、山邉さんは「731部隊展」を日本で全国展開した。2001年と2003年に中国の黒龍江省で731部隊の新証拠が見つかった。「特移扱い」という日本に抵抗した人たちの氏名・逮捕記録・尋問調書・731への送付命令書などだ。しかし日本政府はこうした新証拠にも、謝罪どころか、一切無視を決め込んでいる。中国を仮想敵国としているいまの日本。人類に対する最大の犯罪に謝罪の一言もない日本。山邊さんは最後に、「みなさん、日本が世界にひどいことをしたと証言してください。細菌は世界人類への脅威。二度と愚かなことはやらないように日本政府に言ってほしい」と訴えた。


 当時の731部隊周辺の中国人か?


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 当時の731部隊周辺の中国人か?


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 当時、囚人の名の元に連れてこられた中国人、朝鮮人らを収容した施設ののフェンスの鉄条網?


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 当時、囚人の名の元に連れてこられた中国人、朝鮮人らを実験台として液体を噴霧している写真。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»



出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 以下は中国人捕虜は「マルタ」と呼ばれ、様々な人体実験に使われていた。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 清水英雄氏 元731部隊見習い技術員(日本人)
 https://www.asahi.com/articles/ASK8H320ZK88UOOB00R.html
 Xидзо Cимидзy
 Бывший стажёр


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 清水英雄氏 元731部隊見習い技術員(日本人)を含む元731部隊見習い技術員(日本人)。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»

 清水英雄氏 元731部隊見習い技術員(日本人)
 スポットライトが当てられている。


出典:Лаборатории смерти. Как работал японский «Отряд 731»


その4へつづく