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米国民主政治の堕落と混乱を予告した
トクヴィル
 (2)
【伊藤貫の真剣な雑談】第14回 (チャンネル桜 youtube)

 War in Ukraine #3952  3 August 2023


トランススクリプト 池田こみち(環境総合研究所顧問)
独立系メディア E-wave Tokyo 2023年8月4日

アレクシス・ドゥ・トクヴィル
Source:Wikimedia Commons  パブリック・ドメイン, リンクによる


 その1   その2   その3

 トクヴィルは、その著書「アメリカのデモクラシー」の中で、人間にはもっと大切な、そして真剣な自由があるはずと言う。

 啓蒙主義思想を実践すると、自由を求めたはずの人間が本当の自由を失ってしまうということについて5つに分けて説明している。これは哲学的な批判であり、必ずしも一般の方には説得力を持たない議論に聞こえるかもしれない。

 自由・平等・民主という啓蒙思想を実行すると国民は逆に自由を失っていくことになるということを、トクヴィルは次の五つの点から説明している。

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1.多数波至上主義による専制主義
2.世論崇拝主義による知的な画一主義(Conformism)
3.民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による抑圧主義
   法律的には自由主義が実行されているように見えても実態としては
   抑圧されている。
4.ヨーロッパの革命前の世界と後の世界、また、ヨーロッパとアメリカを比べ
  た場合、中間的支配者層が双方(革命後の世界とアメリカ)に存在していな
 い。

 トクヴィルは中間的支配者層を非常に重視している。革命前のフランス、
19世紀のイギリスにはそれが存在した。トクヴィルの分析によれば、国家
の自由、寛容というものを本当に維持していたのは国王ではなく、一般国
民でもなくその間に存在する中間的支配者層だったと説明している。

5.中央政府による保護者的な統制主義による「新しい奴隷制度」。
   トクヴィルは民主主義、平等主義、自由主義を実行しているとそのうち政
   府の力ががどんとん強くなって、政府は国民を保護してあげるというポー
   ズをとりながら、新しい奴隷制度をつくることになるだろう。そうすると、
   最終的に啓蒙思想を追求していって行くところまで行くと新しい奴隷制度
   を作ることになる、と指摘している。

■一つ目.多数派至上主義による専制/独裁

 民主主義というのは多数派の意見に従うこと。トクヴィルはフランスでは民主主義をフランスでは支持していたが、多数派がすべてを決めてしまうという社会は長期的にはまずいことになると考えていた。文章を引用すると;

 『民主主義のエッセンスは多数派が権力を行使することであり、議会は多数派の意思を立法化する。社会は多数派の政治的な面での優位性を認めるだけではなく、多数派に道徳的な優越性まで認めてしまう。民主主義では一人一人の議員の資質よりも、議員の数が問題になる。要するに多く議員を当選させた人間が勝ち!これは人間の知性の分野にまで平等主義の原則を適用することであり、数が多ければそれでいいのだということになる。数が多い方が道徳的にも政治的にも勝ちだということになる。』

 トクヴィルは、「私は個人的には多数派は、何をやってもいいという考え方には、不潔で卑しいものを感じる。」、と述べている。この考え方は、トクヴィルの宗教的もしくは哲学的考え方からにもとづくものである。

 『アメリカでは多数派が何かを決定するとそこで議論がピタっと止まってしまう。ヨーロッパでは最も専制的な国王ですら、国内の少数派の言論を止めることはできない。しかしアメリカは、少数派を沈黙させることができる。アメリカでは多数派が物理的な権限だけでなく、道徳的な権限も行使している。世界諸国の中でアメリカぐらい思考の独立と真の言論・議論の自由が欠けている国はない』と指摘している。これは彼が1835年に書いた文書で、1830年代当時の世界のことを指している。

原文:
Je ne connais pas de pays où il y ait moins d'indépendance d'esprit et
de véritable liberté de discussion qu'en Amérique.

 『アメリカぐらい、思考(エスプリ、スピリット、マインド)の独立性に欠けている国はない、また、議論の自由の欠けた国はない』、ということ。トクヴィルの観察によると自由と民主主義を実行していたアメリカという国ほど、精神と思考の独立性と自由の議論する態度が欠けている国はない、とみていた。アメリカの民主主義のことを、「La tirany de la Majorite」=「多数による独裁の国」と見ていた。『アメリカは少数派の意見を唱える人を露骨に迫害して村八分にして社会から抹殺してしまう。アメリカの言論迫害はスペインの異端審問よりひどいものである。』と書いている。

 しかも、トクヴィルは、『多数派による専制、圧政、独裁政治を恐れるアメリカ人はいつも多数派の意見に迎合しようとするような計算高い国民となっている。そのため、アメリカでは偉大な人格者というものが出てこない。』、と述べている。
 
 要するに、フランス革命にしてもアメリカ独立革命にしても、自由主義、民主主義を実践したと言うことになっているが、トクヴィルから見てこれは「多数派による圧政・独裁」に見える。

■次の、世論崇拝から生ずる知的な画一主義について

 『平等主義、民主主義の時代になって人々は一般の世論に真理の根拠を求めるようになった。革命以前の社会においては、それぞれ違う階級に所属する人たちは全く異なった見解を抱くことを不思議に思わなかった。

 階級社会では深い学識と教養をもつ少数の力強いひとたちと多くの無知な大衆が共存していた。そのような時代の人々は少数の卓越した知性をもつ賢人の意見に耳を傾けて、彼らの意見をガイダンスとして自分の意見を形成していった。

 当時の人々は大衆の世論が真理だなどと思っていなかった。しかし、平等主義、民主主義の時代になると一般の世論が非常に強い影響力を持つようになった。人々は世論の推移に従うようになり、世論の判断を信奉するようになった。最多数となった意見が時代の真理と見なされるようになって、人々にとって自分自身で考えてみるという行為は不要となった。多数派による世論が一種の宗教となったのである。』

 『この、世論に従うという人々のパターンは人間の思考力を狭い範囲に閉じ込めてしまった。平等主義を是とする民主主義社会は逆に知的、精神的自由を拘束している。階級社会の漆黒から解放された筈の人間の知性は、多数派世論による拘束という新しい別の牢屋に閉じ込められることになったのだ。』

 『人々は奴隷制度の新たな側面=形(nouvelle physionomie de la servitude)となっている。民主主義による世論崇拝という画一主義は、「新しい奴隷制度の時代」を作った。』

 要するにみんなが民主主義と自由主義を実行しているつもりなのに、トクヴィルからみると、「これって新しい奴隷制度なんじゃないか」、と見えた。

 次に.次に民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による抑圧主義を説明している。

 彼は、自由と平等というものは常に共存できるとは思っていなかった。当然です。誰でもわかること。みんなの自由なことをやり出せば、だんだん平等ではなくなってくるし、誰かの自由を制限せざるを得なくなる。自由と平等とはそう簡単には両立しない。これは自明である。「 彼によれば、『平等を望む人間の心理はしばしば社会の強者や優越者に対する嫉妬や怨恨となり、人々は自由な状態における不平等よりも、隷属状態における平等を望むようになる。』トクヴィルによれば、『人間の欲求の中で最も強いのは、自由に対する欲求ではなく、平等こそが人間の最も強い欲求でああるという。

 従って、民主主義社会では、優越した人もしくは自分と違った人に対する嫉妬や不快感が、政府の権力を使って人間社会の画一化を求める人間の格差や差異を消滅したいという衝動となる。従って人々は社会環境の均一化と人間の同一化を求めるようになる。これによって政府は、国民からの人間の平等化・均一化の要求を受け入れて、政府の規制件と介入権を拡大していくことになる。』 つまり、自分と違った人に対する嫉妬とか恨みを持つようになると、結果としてより大きな政府を作っていくようになる。

 これに対して私が感じるのは、今のアメリカは差別反対、偏見反対という世論が蔓延し、マスコミと民主党はそれ一色になっている。それで相手を攻撃することが連日起きている。これがPolitical Correctness(ポリコレ)とか、ウォークネス(wokeness:差別に対して意識が高い、覚めている)と言う言葉で、you are not woked (おまえは鈍感だ、差別感情が強い、時代遅れだ、私の人間性を無視している・・・)というような言い方になる。差別反対、偏見反対というマスコミと民主党が主導するポリコレとWokenessによって今のアメリカでは、教育機関においてもマスコミにおいても政治活動においても行政機関においても、行政機関においても、言論の自由と表現の自由が非常に厳しく規制されている。

 例えば、一番馬鹿げた話だが、大学に入ると先生が学生に対して、男であれ女であれ、例えば男子に対して、「私はあなたをHe/him と呼んでいいか、それともShe/her、あるいはTheyとかThemと呼ばれたいか」と聞いている。男子でも自分のことを女性と認識している人にheと言っては相手を傷つけることになると。ひどいところでは小学校の一年生の生徒にも聞いている。小学校の一年生に聞いてもわかるはずがないのに。小学校の先生が、「Hi Boys and Girls!」という呼びかけはNG。なぜなら、自分のことをBoyとかGirlとか思いたくない人がいると。自分をトランスジェンダー、ジェンダー・フルイッド,ジェンダー・エクスチェンジャブル(性別はその日の気分によって変わる!)と思っているひとがいるらしい。それは差別用語になると!!これは本とのことなんです。

 ポリコレとウォークネスから来る極端な言論の制限、抑圧が実際に起きていて、アメリカに住んでいる僕は、嫉妬とか反差別感情による抑圧主義というのは笑い事ではない。一般の英語におけるheとかsheの当たり前の表現を使うときも用心しなければならない。単数でも、Call me they or them などと複数で読んでほしいと言う人がいるので英語の文法までおかしくなっている。

 平等主義から来た言論の抑圧というのは、アメリカでは、言葉の最も基礎的な名詞、代名詞を使っていいのかまで制限される事態になっている。これが平等主義と民主主義の行きつく先ということです。

■中間支配者層が消滅したことによる政府による全体主義

 中間支配者層が社会からなくなると政府はたとえ自由主義、民主主義を守っているようなふりをする政府であっても、実際には全体主義的な行動をとれる。とトクヴィルは指摘している。彼は、『革命前のフランスには国王と国民の間に中間的な支配者層が存在していた』と指摘し、彼はこの中間的支配者層(中間にいる権力の保持者:国王と国民の間におかれたsecondary power)の存在を非常に重視していた。それがあるからこそ、彼の考えによれば、16世紀から18世紀までのヨーロッパ諸国の政府は、政府による専制主義、画一主義、言論弾圧を阻止できた、と彼は言っている。

 トクヴィルより少し前の、イギリスの思想家、エドマンド・バークも同じことを言っている。彼も世界には中間的支配者層が必要だと行っている。単に政府と国民だけでは本当の自由主義は実践できないと指摘している。

 トクヴィルの説明によると、中間的支配者層というのは、『中小の領主層、もしくは貴族階級、騎士階級、紳士階級、聖職者階層、という層があって、国王と国民の間で、一種のクッションの役割を果たしている。この中間的支配者層こそ、本当の地域のコミュニティのリーダーシップをとっていた。』と。国王がいちいちコミュニティのリーダーシップをとるわけがないのだ。彼らが庶民を指導していた。バークもトクヴィルもこれが非常に重要だと言っている。

 彼によれば、『民主主義体制よりも中間的支配者層のあるアリストクラシーの方が個人の独立を保証するのに向いていた。』

 アリストクラシーというのは日本語では貴族制度と訳すが、僕は、アリストクラシーというものを貴族体制と訳す/理解することは必ずしも正確ではないと思っている。もともとギリシャ語で、アリストとは、優れた人、卓越した人であり、貴族というものではない。貴族というときれいな服着てお城に住んで贅沢しているという印象だが、もともとアリストクラシーはギリシャ語では、優れた人たちが統治している政府ということを意味する。貴族=贅沢している特権的な階級とは違う。アリストクラシーを貴族政治と訳してしまうと違う解釈になる。

 『民主体制よりアリストクラシーの方が個人の独立を保証するのには向いていた。アリストクラシーにおいては、国王は権力を独占することができず、国家の統治権を分割せざるを得なかった。アリストクラシーにおける政府の官僚は自分たちの地位と権限を国王から与えられていたわけではない。従って国王は自分の意に従わない政府の官僚を首にする能力を持たなかった。アリストクラシー社会では、独立した影響力持つ人が多数存在しており、政府がこれらの有力者を抑圧することはできなかった。国王が勝手なことをやろうとした場合、これらの有力者たちはお互いに協力して国王の専制を阻止する能力を持っていた。』
 
 つまり、国王もこれらの有力者を怒らせるようなことをやると、自分の権力を制限されてしまう。アリストクラシーは国王に対する拒否権(Veto power)を持っていた。しかし、トクヴィルによれば『フランス革命ではこのような中間的支配者層を一掃してしまった。聖職者も騎士階級もすべていなくなった。』という。

 『中間的支配者層が無力化されたため、民主主義社会では政府の権力に対して抵抗できる個人がいなくなってしまった。民主主義社会における個人は弱々しく孤立する存在であり、中央政府に対抗できない。無力化された群集は中央政府の組織化した権力に従うしかない。従って、民主主義は国民を中央政府によって均一化された矮小な市民の群れと扱われるようになった。』

その3へつづく