エントランスへはここをクリック   

読谷村は自然と共生する
独立文化王国?


青山貞一 Teiichi Aoyama

12 July 2009 無断転載禁
初出:独立系メディア「今日のコラム」


 2009年7月4日と5日、沖縄県読谷村の依頼により青山貞一(東京都市大学教授、環境行政改革フォーラム代表)、池田こみち氏(環境総合研究所、環境行政改革フォーラム副代表)、坂本博之氏(ゴミ弁連事務局長、弁護士、環境行政改革フォーラム幹事司法担当)の3名が読谷村で講演した。

 講演会の前後、読谷村内を視察した。私自身、今回で読谷村は4回目だが、やはり読谷村の副村長ら関係者に案内してもらうと今まで見なかった場所は文化が見えてくる。

■沖縄戦の悲劇、集団自決の場所!

 沖縄県読谷村は、太平洋戦争末期にアメリカ軍が沖縄本島に上陸した場所。村内には2つの米軍施設が所在。合計1,261 haの軍用地が存在し、村面積の36%を占めている。
  • トリイ通信施設(陸軍)
  • 嘉手納弾薬庫地区の一部(空軍・海兵隊)

 読谷補助飛行場(海兵隊)と楚辺通信所(海軍)は、2006年に全面返還された。瀬名波通信施設(空軍)はマイクロウェーブ塔部分(約0.1 ha)を除くほぼ全部が2006年に返還された。


読谷村の位置


読谷村に上陸中の米軍 (1945年4月13日)
出典:Wikipedia

 沖縄県の読谷村の比謝川河口を中心とする渡具知、楚辺、都屋から宇座にいたる南北10`余の海岸線は、1500隻の大艦隊を集結させ、艦砲による無差別絨毯(じゅうたん)攻撃をおこなった米軍が、18万3000人もの兵員で上陸してきた地点である。

 村内に散在する大小の壕や自然壕(ガマ)、慰霊碑等の「戦跡」は80余個所におよんでいる。

 とくに米軍上陸直後の4月2日、アメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れた83人の住民が「集団自決」で非業の死を遂げた「チビチリガマ」の惨劇は、国内外に知られている。

 以下はその「チビチリガマ」の跡。 詳細


「チビチリガマ」跡にて 2009年7月5日朝


「チビチリガマ」跡にて。左から坂本弁護士、池田副所長、青山
 2009年7月5日朝撮影


「チビチリガマ」跡。ここには今なお多くの遺骨が眠っている。
中に入り遺骨を踏み荒らさないようにと言う警告がる。
 2009年7月5日朝撮影


「チビチリガマ」跡。 2009年7月5日朝撮影


「チビチリガマ」跡近くには湧き水が流れている。

読谷村のチビチリガマの集団自決について

 沖縄戦でもっともよく知られている集団自決事件として、チビチリガマでの事件がある。

 1945年3月末から激しい爆撃があり読谷村の住民は近隣の者、多くはいくつかの親類で集まってガマで寝起きするようになり、チビチリガマには140人近くがいた。

 4月1日読谷村に上陸した米軍はチビチリガマに迫った。ガマの入り口に米兵が現れるとガマの中にいた3人(後述の従軍看護婦であった25歳の女性を含む)が竹槍を持って外の米兵に向かって行き2人が死傷した。

 外が米軍でいっぱいであることがわかりガマの中がパニックになると、南方帰りの在郷軍人(満期除隊した高齢の男性)がサイパンではこうして死んだといって、布団に火をつけて窒息死しようとした。

 だが4人の女が止め火を消した。ガマの中は騒然となった。4月2日米兵がガマの中に入ってきて投降を呼びかけ投降勧告ビラを残していった。

 米兵が去った後、在郷軍人が「見たらいかんよ」「誰も見るな」と言いながらビラを人々から取り上げて回収すると、ガマの中に「もうどうにもならない。終わりだ。」と動揺が走り自決が始まった。

 在郷軍人が「だから昨日死んでおけばよかった」と言って再び火をつけたが、また4人の女が消した。従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。

 彼女は毒薬を持っており注射器でそれを家族親戚15人ほどに注射して人々は死んでいった。周囲の人は「あんなに楽に死ねる」と言ってうらやましがった。再び布団に火がつけられ、ガマの中はパニックになった。ガマでは84人が死んだがその半数は12歳以下の子どもである。

 数十人はガマを出て米軍に投降した。ガマを出たとたん米兵に大歓迎を受けたと感じる者も殺されるのではないかと思っていた者もいた。なお、同じ読谷村内でもチビチリガマがら600m離れたシムクガマに避難した約1000人は英語の喋れる男性の誘導で1人も死ぬことなく投降した。

 こうした経緯は1983年ころまでまったく明らかにされなかった、それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。

 読谷村の集団自決については読谷村史がWEB上で公開されている。

 上記出典:Wikipedia

読谷村集団自決事件生存者証言集・読谷村戦時記録



■読谷村と言えば大河ドラマ「琉球の風」

 読谷村と言えば、NHKの大河ドラマ「琉球の風」の舞台、オープンセットがあったところだ。

 『琉球の風 DRAGON SPIRIT』(りゅうきゅうのかぜ ドラゴン スピリット)は、1993年1月10日から6月13日まで放送された第31作目のNHK大河ドラマ。16世紀末〜17世紀初頭、琉球王国が薩摩藩島津氏により支配されていく時代の人々を描いたものだ。

 朝鮮、ベトナムなどと同様、独立国だった琉球王国。慶長14年(1609年)、薩摩により侵略支配され属国になるものの、独自の歴史と文化に誇りを持ち続けた。主流の歴史観では顧みられなかった悲哀の歴史を描く大河ドラマ第1弾でもある。


NHKの大河ドラマ「琉球の風」の舞台、オープンセット

 この「琉球の風」には東山紀之はじめ、渡部篤郎、小柳ルミ子、原田知世、工藤夕貴、沢田研二、寺島しのらが出演していた。

 出典」:Wikipedia

 7月4日の昼食、その中心となった赤瓦屋根の家で沖縄そばを食べた。


NHKの大河ドラマ「琉球の風」の舞台となった場所


NHKの大河ドラマ「琉球の風」の舞台となった場所


■現在は新たな文化の発祥地!

 現在の読谷村には多くの文化が芽生えている。多くのガラス細工や窯業の工場があり、若い人たちがそこで働いている。読谷村は芸術村でもある!


ガラス細工の工芸館、ほむら工芸館


ガラス細工の工房


物色する池田さん

 ガラス細工とは別に読谷村には、焼きもの(陶器)の工房が沢山ある。


読谷村の窯業


読谷村にあるのぼりがま


読谷村にあるのぼりがま


作品を売っている「北窯」


■読谷村は自然と共生する独立文化王国?

 今の読谷村は、日本全体がとりつかれている「はこもの」主義から脱却し、自然と共生する文化村、しかも地理的に国道から離れた半島であることから独立王国的な存在となっている。

 そのためにも産廃処分場問題は解決しなければならない!

 かつてアメリカ軍が上陸した西海岸も、いまでは瀟洒な別荘風住宅や粋なイタリア風レストランなどが散在し、残波岬には広大な公園がある。


読谷村の西海岸


読谷村の西海岸にて、筆者


残波崎の公園。大きなシーサー増が像がある!


ハイビスカスの飾りを付けご満悦の池田さん

 その公園には誰でも使えるバーベキュー施設があり、もちよった肉や野菜で食事が楽しめる。


皆で懇親会 2009年7月4日 読谷村にて


残波岬の夕日
ただし、この写真は2009年2月に環境総合研究所の現地視察
で沖縄県を視察したときに撮影したもの。