一度行って見たいロシアの地方都市 カザン Kazan 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年7月11日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
カザン市の紋章 ここでは、まだ視察していないロシアの歴史、文化、自然、まちなみなどから魅力ある街を紹介しています。青山貞一 ◆カザン市 Source:Wikimedia Commons カザンはロシア連邦に属するタタールスタン共和国の首都です。ロシア語名に沿ってカザニともいいます。ヴォルガ川(クイビシェフ湖)とカザンカ川の合流点に臨む商工業都市で、水上・陸上交通の要衝となっています。 タタール文化の中心であり、カザン・クレムリンをはじめとする多くの文化遺産やカザン大学などの教育機関が集積しています。人口は1,105,289人(2002年全ロシア国勢調査)と、ロシア国内でも十指に入る規模の大都市であり、場所はモスクワからは東800kmにあります。 カザンのクレムリン(要塞) Source:セルゲイ・フォミン/Global Look Press ロシアNOW 以下は、ロシアNOWによるカザンの高評です: タタールスタン共和国の行政中心地カザンは、社会・経済指標の一部で最高の都市。地元住民によれば、小中高校や幼稚園が充実し、良い仕事、休暇の場所があり、周囲の人が親切だという。また、街の観光の潜在性をうまく活かしている。「2017年FIFAコンフェデレーションズカップ」では、8〜15万人が街を訪れる見込み。 カザン・クレムリン Source:Wikimedia Commons 歴史概要 11世紀初頭にヴォルガ・ブルガールによって建設されました。15世紀にはカザン・ハン国の首都として栄えましたが、1552年カザンはイヴァン4世(イヴァン雷帝)に占領されます。 1630年のカザン Source:Wikimedia Commons 破壊されたカザン・ハン国の城砦のあとに有名なカザン・クレムリンが建設されました。1708年にはカザン・ハン国が廃止され、カザンはロシア帝国の地方都市、カザン県の県都となりました。さらに1774年、プガチョフの乱で町は破壊されました。 20世紀になり、カザンはタタール文化の中心都市として復興しました。ロシア革命後の1920年タタール自治共和国の首都となります。 第二次世界大戦中は疎開により各種の工場が移転してきており、工業が発展しています。1930年代から1970年代にかけて都市改造が行われ、2005年には建都1000年を記念して様々な祭典が催され、地下鉄が開業しています。 民族と宗教 イコン『カザンの生神女』が発見された地に建てられ、1904年に盗難され行方不明になるまで『カザンの生神女』が収められていました。市で一番多い民族はタタール人で人口の52%と過半を占める。次に多いのは人口の43%を占めるロシア人です。少数派の民族にはチュヴァシ人、ウクライナ人、アゼルバイジャン人、ユダヤ人などがいます。 主な宗教はイスラム教スンニ派と正教会です。無神論者も少なからずいます。少数派の宗教はカトリック教会、プロテスタント、ユダヤ教、クリシュナ教、バハーイー教などです。 言語 ロシア語とタタール語が市内で広く使用されています。ロシア語はタタール人の高齢層以外、市民のほぼすべての人口が理解できます。タタール語は主にタタール人の間で話されています。 人口 2009年1月1日現在で、市域内の人口は 1,130,717 人と、ロシア第7位でした。カザン・ハン国の都であった1550年頃は5万人を数える大都市でしたが、モスクワ国家により征服された後の1557年には7,000人に減少したとみられています。 しかし1800年頃には40,000人程度に回復し、19世紀後半には人口が伸び1897年に13万人に達しました。 ロシア革命の年である1917年には人口は206,600人でしたが、その後の内戦と混乱で1926年には179,000人にまで減っていました。しかし重工業化などで人口は爆発的に伸び、1939年には398,000人、1959年には667,000人、1979年には989,000人、1989年には1,094,400人と100万人を超えました。 1980年代以降は伸び悩んでいますが、ロシアの多くの都市の人口が減少している21世紀に入ってもカザンの人口は微増しています。 カザンの世界遺産、名所旧跡 カザン・クレムリン 市内には美しいクレムリ(要塞)であるカザン・クレムリンがあり、2000年には世界遺産に登録されました。クレムリ内部には5つのドームを頂く生神女福音聖堂(ブラゴヴェシェンスキー聖堂、1561年-1562年)、建設時期が謎に包まれたスュユンビケ塔(カザン・ハン国最後の女王の名に由来する)などがあり、市のランドマークとなっています。 Qolsharif Mosque in the Kremlin in Kazan, Russia Source:Wikimedia Commons カザンの「全宗教寺院」 Source:Wikimedia Commons カザンの生神女修道院。イコン『カザンの生神女』が発見された地に建てられ、1904年に盗難され行方不明になるまで『カザンの生神女』が収められていた Source:Wikimedia Commons カザン・クレムリン内のブラゴヴェシェンスキー(生神女福音)聖堂 Source:Wikimedia Commons またクレムリを取り囲む塔や城壁は16世紀から17世紀にロシア人が再建し、後に修復をされたものです。クレムリ内部にそびえるクル=シャーリフ・モスクは1552年のカザン陥落時に破壊され、21世紀になって再建されました。 16世紀の美しい修道院建築であった救世主修道院(スパースキイ修道院)はボリシェヴィキ政府によって破壊されましたが、その名残であるスパースカヤ塔は今も白く美しい姿を残しています。 1843年から1853年にかけて建てられたコンスタンチン・トーン設計のカザン県知事公邸は、現在もタタールスタン共和国大統領官邸として使用されています。クレムリの近隣には、ペトロパヴロフスキー大聖堂がQawi Nacmi 通りにあり、マルカニ・モスクがQayum Nasiri 通りに立つ。 市街地 カザンの中心街 カザンの古くからの中心部は、ヴォルガ川に平行して南北に長く伸びるカバン湖(Lake Qaban)と、その北をカザンカ川まで延びるボラク運河(Bolaq canal)によって二つの地区(パサード Posad、あるいはビスタ Bista)に分かれています。 カザンスキー・ボサド(Qazan Bistase / Kazanskiy Posad)はボラク運河の東の丘の上にある都市で、古くからロシア人街でした。スタロ=タタールスカヤ・スロボダ(ske Tatar Bistase / Staro-Tatarskaya Sloboda)はボラク運河とヴォルガ川に挟まれた地区で、タタール人が住まわされていた集落です。 Nurullah, Soltan, Bornay, Apanay, Acem, Marcani, ske Ta, Zangar などのモスクが古いタタール人地区に建ちます。ロシア人地区にはブラゴヴェシチェンスカヤ聖堂、ヴァルヴァリンスカヤ聖堂、ニコルスカヤ聖堂、チフビンスカヤ聖堂などのロシア正教の聖堂が建っています。 カバン湖はカザン市街の憩いの場で、伝説では1552年のカザン陥落の際にタタール人の貴人や裕福な商人らが貴重な金銀財宝をロシア人に渡すまいと投げ入れた場所とされています。 1990年代初頭、カザン中心街の大半は2階建ての木造建築で埋められていました。これらはカザンの伝統的な町並みの要素でしたが住民にとっては住み辛く、タタールスタン共和国の老朽住宅一掃計画でほとんどが取り壊され住民は郊外のアパート地区などへ移動させられました。この計画により引越しをした住民は10万人近くに上ります。歴史的な商店や邸宅の一部はホテルとなり現在に残っています。 カザンの写真ギャラリー カザンの聖ニコラス寺院 Source:Wikimedia Commons カザンのボラク運河 Source:Wikimedia Commons Church of Image of Edessa in Kazan, Russia Source:Wikimedia Commons レーニンも卒業したカザン大学の正面写真 Source:Wikimedia Commons Soyembika Tower of the Kremlin in Kazan, Russia Source:Wikimedia Commons 総目次に戻る |
Exterior view of the Kremlin in Kazan, Russia. In the foreground: an entrance
of Kremlyovskaya metro station.
Source:Wikimedia Commons
Exterior view of the Kremlin in Kazan, Russia. In the foreground: an entrance
of Kremlyovskaya metro station.
Source:Wikimedia Commons
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