エントランスへはここをクリック    
メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破

ロバート・ブルース

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2018年8月公開予定
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁
スコットランド総目次へ
 
 闘いと苦難の歴史  ウォレス・モニュメント  ウィリアム・ウォレス
 スターリングブリッジの戦場  ロバーツ・ブルース  バノックバーンの戦場    スターリング大学  スコットランドの偉人  スコットランド人の独創性


◆ロバート・ブルースの概要


ロバート・ブルース像
出典:English Wikimedia  Commons

概要

 ロバート1世(Robert I, 1274年7月11日 - 1329年6月7日)は、スコットランドの国王(在位:1306年 - 1329年)です。

 父方の祖先はノルマンディーのブリー (Brix) を出自とするスコット=ノルマン(英語版)の家系であり、母方はフランス・ゲール人の家系です。ロバート1世は最も偉大なスコットランド国王の一人であり、同時にその世代で最も知られた戦士の一人として、遂にはイングランド王国に対する独立戦争においてスコットランドを率いることとなりました。

 ロバート1世はデイヴィッド1世の血を引く者として王位を継承し、その統治期間中にスコットランドの地を独立国家として回復するために首尾よく戦い抜いたのです。今日のスコットランドでは、ロバート1世は国民的英雄として記憶されています。

 ロバート1世の遺体はダンファームリン修道院に埋葬されているが、心臓はメルローズ修道院に埋葬されていると信じられています。


バノックバーン戦場にあるロバート・ブルース像
Statue of Robert the Bruce at the Bannockburn battle field
出典:English Wikimedia  Commons


ロバート・ブルースの生誕地とされるタンベリー城の遺跡
The remains of Turnberry Castle, Robert the Bruce's likely birthplace
出典:English Wikimedia  Commons


バノックバーンの戦い
(詳細は「バノックバーンの戦場」を参照)

 1314年の バノックバーンの戦いで、ロバート1世はイングランドからのスコットランドの独立を、外交上ではなく軍事上で確かなものとしました。エドワード2世はスターリング城の包囲を解こうとしたものの、ロバート1世の綿密に計画された形破りの戦術の前に決定的な敗北を喫しました。

 バノックバーンの戦い以後のアイルランドにおけるイングランドとの戦い

 イングランドの脅威から解放されたことで、スコットランド軍はイングランド北部へ侵攻することが可能になりました。ロバート1世は次にイングランド北部への国境線拡張に取り組んで、ヨークシャーとランカシャーへの侵攻を開始しました。

 遠征に成功したことで勇気付けられたロバート1世の軍勢は、同時に1315年にはアイルランドへ侵攻しました。伝えるところによると、その目的は同国のイングランドからの解放( ティロン王ドーナル・オ・ニールからの援助の要請に対する返答の意味を持つ)と継続する対イングランド戦の第二戦線を開くためでした。

 1316年にアイルランド人はエドワード・ブルースにアイルランド上王 (High King of Ireland) の王冠を授けています。ロバート1世自身も別軍を率いて、エドワードを助けるためにアイルランドへ赴いています。

 侵攻と並行して、ロバート1世は自分の一族が統治するスコットランド・アイルランドの全土へ “パン・ゲール=大スコットランド主義” のイデオロギーを普及させました。

 この種のプロパガンダ活動は二つの要素によって助長されています。一つはロバート自身の1302年におけるアイルランドのアルスター伯 (Earl of Ulster) バラ家との同盟上の結婚、もう一つは母方のキャリック家を通じてスコットランドのゲール王統とともにアイルランドの王統を引いているということです。


Robert the Bruce and Isabella of Mar, as depicted in the 1562 Forman Armorial
出典:English Wikimedia  Commons

 ロバート1世のアイルランドにおける祖先には、イーファ・マクマロー(Aoife MacMurrough, 1188年没)がいますが、そこから遡るとマンスター王ブライアン・ボルとレンスター王 に辿り着きます。

 このような系譜上並びに地理上の結びつきに基いてロバート1世は、自己の王国におけるスコットランド・アイルランド両国民間のパン・ゲール主義に基づく同盟という理念に期待を見出そうと試みたのです。

 このことは、ロバート1世がアイルランドの首長に送った手紙からも明らにされており、そこではスコットランドとアイルランドの民衆を nostra nacio (our nation)と呼んいます。二つの民衆の共通の言語、習慣並びに遺産を強調しているのです。

 我等と貴方方並びに我等が民衆と貴方方の民衆は古の時代から自由であり、同じ民族を共通の祖先に持ち、共通の言語と習慣により熱烈に喜びを抱いた形で更なる親交が深まれることを望むがが故に、我等は最愛の親類たる貴方方に、神が我等民族 (nostra nacio) が古の自由を取り戻してくれるよう、双方間の永久に強化され侵されることのない特別な友好を取り決めるためにこの書簡を送ります

 外交はある程度機能しており、少なくともアルスターではスコットランド人が幾つかの支援をしていました。例えばアイルランド首長ドナル・オ・ニールはローマ教皇ヨハネス22世に宛てた手紙において「全ての小スコッティア王の血統を辿ると我等が“偉大なるスコッティア”に辿り着き、同じ言語と習慣を保持しています」と述べることで、スコットランド人への支持を正当化しています。

 ロバート1世のアイルランドへの遠征は、初期の軍事的成功という形で特徴づけられます。しかし、スコットランド人はアルスター以外の首長に対して勝利を得る、あるいはアイルランド南部(同地の人々にはイングランドとスコットランドの占領の相違を区別することが出来なかった)で意義のある収穫を得ることには失敗しています。

 エドワード・ブルースがファウグハートの戦い (Battle of Faughart) で殺されたことで、最終的には敗北しました。この時代のアイルランドの年代記は、アイルランド民族にとってこれまでにない偉大な出来事の一つであるイングランドによるエドワード・ブルースの敗北は、イングランド・スコットランド双方によってもたらされたアイルランドの飢餓と略奪の終焉という事実に尽きると記述しています。


つづく    スコットランド総目次へ