エントランスへはここをクリック   

スコットランド+北イングランド
現地調査報告
   

〜ローマ皇帝・ハドリアヌスの長城〜

Hadrian's Wall of Roman Empire


青山貞一 池田こみち

掲載月日:2012年7月28日
 独立系メディア E−wave Tokyo
 無断転載禁


スコットランド+北イングランド現地調査図(総延長約2200km)

 西暦122年、ローマ皇帝のハドリアヌスは、何とイングランドとスコットランドの境界線のすぐ南に中国の万里の長城のような長城を120kmにわたりつくった。

 当時、これがローマ帝国の北端になります。

 ところがあまりにも領土を拡張し、それを防衛するために巨大な土木事業を行い、そこに人員を配置し、さらに兵隊を配置するということをしたため、ローマ帝国の財政が悪化した。また兵隊や労働者、もともそこにいた住民等の反乱を押さえるために円形劇場や浴場などローマと同じ施設を建造することになり、さらに財政が悪化したのである。

 元老院などはさらにブルガリア、ルーマニアなどへの侵攻を画策するが、ハドリアヌス皇帝は、ローマ皇帝はローマがしていることの愚かしさに気づき、拡大路線を止め、領土の規模縮小を提案する。しかし、元老院等は皇帝の政策を批判し、拡大路線をつづける。

 結局、あの巨大さを誇ったローマ帝国は、これを最後に没落に向かうことになる。

 今回のスコットランド+北イングランド現地調査では、当初からローマ皇帝ハドリアヌス(在位:117年 -138年)が西暦122、ブリティッシュ島の東西に構築したいわゆる”ハドリアヌスの長城”(Hadrian's Wall)の視察も含めていた。

五賢帝時代
  • ネルウァ(96年 - 98年)…最初の五賢帝
  • トラヤヌス(98年 - 117年)
  • ハドリアヌス(117年 - 138年)
  • アントニヌス・ピウス(138年 - 161年)
  • マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年 - 180年)…最後の五賢帝
    • ルキウス・ウェルス(161年 - 169年)…共同皇帝
  • コンモドゥス(180年 - 193年)…五賢帝ではないが含めてアントニヌス朝とも

 その理由はふたつある。

 ひとつは、2008年2月に「ローマ皇帝の歩いた道〜末路を見つめたハドリアヌス〜」をブログにしていたことがある。

◆青山貞一:ローマ皇帝の歩いた道〜末路を見つめたハドリアヌス

 もうひとつは、現地調査の終わり近くに北イングランド東岸にあるセラフィールドという原発核燃料サイクル施設を視察するためスコットランドとイングランドの境界線に位置するカーライル(Carlies)に宿をとったことがある。

 カーライルは、イングランド北西端にある人口10万人ほどの自治体だが、そこには16世紀、スコットランドの女王、メアリー・スチュアートがイングランド領内に一時期幽閉されたカーライル城がある。

 同時にカーライルにはハドリアヌスが築いた東西120kmにも及ぶ長城の西側起点もある。ハドリアヌスの長城はカーライルを起点とし、西海岸のニューキャッスルを終点としている。
 
 ローマ帝国の第14代皇帝で五賢帝の3人目と目されるハドリアヌスは、帝国各地をあまねく視察し、帝国の現状、実態の把握に努めた。その結果、ハドリアヌス皇帝は、ティベリウス帝に次いで従来進めてきたローマ帝国の”拡大路線”をやめ、現実的な判断に基づき国外領土を縮小する路線に転換させている。


<ハドリアヌスの長城の位置>

 
下図は西暦142年に築造が開始されたアントニウスの長城と西暦122年に築造されたハドリアヌスの長城の位置図である。

 今回のスコットランド現地調査では、ハドリアヌスの長城を現地調査したが、アントニウスの長城もエジンバラとグラスゴーを結ぶ線上に計画されていたことが分かる。


アントニウスの長城とハドリアヌスの長城の位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ハドリアヌスの長城の位置(カーライルからニューキャッスルまで)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25

 ハドリアヌスの長城は文化的境界ではなく、あくまで軍事上の防衛線として建設された。しかし、この防衛線はイングランドのスコットランドに対する防御壁として、ローマ帝国の支配が及ばなくなった4世紀後半以降、17世紀まで使用されていたという。 

 とくにゲルマン人との国境であるライン川やケルト人との紛争が絶えないブリタンニア北部(現イングランド北部でスコットランドの国境線沿い)では、異民族の侵入に備え防衛線の強化に力を入れていたとされる。

 そのため長城は、イングランドとスコットランドとの境界として半ば固定化、イングランドとスコットランドの間の現在の境界線の位置関係にも大きな影響を与えていた。

 現地調査では、A69号線をカーライルからニューキャッスルに向けて走行し、要所で長城が存在する箇所に車で向かい、駐車後、徒歩で長城を現地視察した。


<ローマ皇帝、ハドリアヌスとは>

 ハドリアヌスは、ローマ帝国の属州であるヒスパニア・バエティカの出身で先帝トラヤヌスの従兄弟の子供として生まれた。生まれ故郷のイスパニア訛りが強く、終生その訛りが抜けなかったこともあって周囲にからかわれることもあったという。

 その出身地(現在のスペイン)から見ても分かるように、ハドリアヌスはまさに外様大名が将軍となったことであり、ローマ帝国の中心にいた元老院らに帝国の拡大を縮小する路線は無視されたり激しく抵抗されることは想像に難くない。

 一方、そのハドリアヌスは、パンノニア総督、シリア総督歴任後、先帝トラヤヌス指揮下の幕僚としてダキア戦争、パルティア戦争の後方支援等に従事し、すぐれた手腕を発揮していた。 事実、ハドリアヌスは、パルティア戦役を遂行中に急死したトラヤヌスの跡を継いでAD117年8月11日にローマ皇帝に就任した。


プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスの誕生
出典:NHK「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」

 ハドリアヌスが皇帝に就任した当時、ローマ帝国は領土面では最盛期にあった。下図にあるように、ローマ帝国は北は現在のイングランドの北端でスコットランドとの境界、東は東欧諸国から中東諸国、南は北アフリカ、西はスペイン、ポルトガル、ジブラルタルまで地中海沿岸地域全体に勢力を拡大していた。


最盛時にローマ帝国が支配した領土
出典:NHK, ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス

 ハドリアヌスは、その治世においてメソポタミア(現在のイラクなど)を放棄することによって国境の安定化と辺境地域への防衛策の強化を推し進めた。さらに帝国内各地を4度にわたり視察、巡幸しながらローマ帝国内の改革を協力に押し進めた実績が特筆される皇帝である。


<ローマ皇帝 ハドリアヌスの長城>


現地で入手したハドリアヌスの長城関連資料
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-28

 現イングランド北部でスコットランドの国境線沿いでは、「ハドリアヌスの長城」と呼ばれる防衛線の構築が有名であり、現在、同構築物などは世界遺産となっている。

 このハドリアヌスの長城は、イングランド北部のスコットランドとの境界線近くにある長城であり、1世紀後半に版図にブリタンニアを組み込んだローマ帝国がケルト人のうち、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築いた。皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ122年に工事が開始される。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25

 このハドリアヌスの長城は、イングランドのニューカッスル・アポン・タインからカーライルまで118kmにも及び壁の高さは4〜5m、壁の厚さは約3m。後期に建設された壁は約2.5mと薄くなっている。


ハドリアヌスの長城の位置(カーライルからニューキャッスルまで)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


下部が土に埋もれたハドリアヌスの長城
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


残存するハドリアヌスの長城
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2012-7-25

 長城の多くは、完成当初は土塁であった。その後、石垣などで補強されている。ハドリアヌスの長城は、約1.5kmの間隔で監視所も設置されていた。

 長城構築の作業者は、ローマ帝国の支配地から動員され、さらに6kmの間隔で要塞も建築された。その要塞の構築には500人〜1000人のローマ兵が配備されたと推定される。


ハドリアヌスの長城にあったテンプル跡
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


ハドリアヌスの長城にある監視所施設跡
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


ハドリアヌスの長城にある監視所施設想像図
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


ハドリアヌスの長城の一部
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


グリーンヘッド付近に残存するハドリアヌスの長城
出典:Wikipedia


<現代に通用する教訓、ハドリアヌスの土木事業撤退の英断>

 領土拡張を続けていたローマ帝国が、拡張政策を続けることを断念した政策転換点としても象徴的なことであった。

 ハドリアヌスの長城の近くには兵士用の浴場などの遺跡が発掘されており、ローマ帝国支配時代の同地における要塞の戦力報告書や兵士、市民の人口統計調査書などが発掘されている。

 ところで、ローマの領土拡大戦略は、同時に侵略した領土の支配のための派兵や滞在、支配地域における民衆の不満を抑えるために円形闘技場や大浴場の建設などど、土木工事から兵站に至るまで巨額の経費がかかることをも意味した。にもかかわらず前線では兵士の士気がどんどん衰えていったという。

 肥大化したローマ帝国がさらに占有、支配した領土での士気やモラルの低下は随所で顕在化する。

 ハドリアヌスはローマ帝国の東部で係争中のパルティア戦役の事態収拾にあたった。パルティアはカスピ海南東部、イラン高原東北部など中東から中央アジアにまたがる一大遊牧民の長である。

 先帝トラヤヌスの積極策により、当時のローマ帝国は東はメソポタミアにまで勢力を拡大し、帝国史上最大の版図となっていた。 だが、これは同時に隣国であるパルティアを刺激し、東部国境の紛争激化と周辺地域の不安定化をもたらしていた。


残存するハドリアヌスの長城
撮影:Nikon CoolPix S10  2012-7-25

 ハドリアヌスはこれらの状況をふまえ、ローマとして防衛や植民地維持が困難なメソポタミア方面からの即時撤退を進めるとともに、隣国パルティアとの関係改善に努力した。ハドリアヌスの決定には、国境を示しそれ以上の拡大を戒める意図もあった。この結果、両国間の紛争は減少し、東部国境に長期にわたる安定をもたらしたのである。

 ハドリアヌスは東方の隣国との外交問題を収拾した後、一転し国内に目を向ける。

 その取り組みの多くは、ハドリアヌス自身が帝国各地を4度にわたり踏査したことから得た課題と解決策である。ハドリアヌスは実際に自分が経験し得たことをもとに、国内改革を次々に打ち出したのである。

 ハドリアヌスの領土内の現地視察は少数の随伴者のみによる立ち入り調査や抜き打ち調査の形で行われた。さらに巡幸先の各地では、ハドリアヌス自らが土木工事などのインフラ整備から軍備の再編まで、個々に指示を出すとともに、今で言う歳費削減のための徹底した行政改革や合理化を行ったと推察されている。


<長城視察に連携した秀逸な休憩施設>

 
カーライルからニューキャッスルまで120kmに及ぶハドリアヌスの長城近くをすべて走破したが、時間との関係ですべての長城遺跡を視察することは到底無理だった。

 しかも、長城は一カ所にまとまって存在することもあるが、多くは120kmの随所に転々と存在しており、多くの視察者はマイカー、観光客や現地調査者はレンタカーを使い次々に長城lを見て回っていた。

 どこの長城遺跡にも有料の駐車施設がある。有料の意味するところは、この収益を世界遺産となっている長城や関連施設の維持管理の財源としていることだ。もちろん、4時間で3ポンド(375円程度)程度である。

 そんななか、カーライルから北東へ約21kmにハドリアヌスの長城視察に疲れた旅行客らの憩いの場所 Lanercost が草原の一角にあったので利用した。場所は、Birdoswald Roman Fort(バードスワルド・ローマ帝国の要塞)近くである。

 この施設の周辺には古い教会や古い建築物を活用した宿泊施設もあった。トイレ休憩を含め、結構たくさんのシニアーが訪れ食事をしたり、地産地消型のお土産などを購入したりで、ゆったりとした時間が過ごせる。イングランド版の「道の駅」とでも言えるものだろう。

 今回の現地視察では、朝はホテルやB&Bの定番メニュー(スコットランド朝食)だが、昼間はスープとサラダを食べたものの、出されるスープやサラダは、下の写真にあるように「巨大」、これには本当に驚いた! 

 その結果かどうか、スコットランド、イングランドを問わず、男女を問わず、超メタボのひとが多かった(笑い)。これはスコットランドに限ったことではなく、EU諸国や米国などで共通のことである。エネルギー・ダイエットだけでなく、自分たちのダイエットにも努力しなければならない!


Lanercost にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25

つづく