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豊洲市場用地の来歴

青山貞一 Teiichi Aoyama
環境総合研究所顧問・東京都市大学名誉教授
掲載月日:2016年9月12日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁


 小池東京都知事誕生後、にわかに喧しく再度社会問題化してきた豊洲市場問題ですが、ここではその用地(土地)の来歴についてみてみました。

 1920年から1937年(大正5年〜昭和12年)まで、東京都江東区の 豊洲地区では埋立が順次竣工されていました。

 大正後期から埋立事業によって形成された豊洲地区ですが、1937年(昭和12年)7月15日に正式に命名されるまでは、埋立地5号地 等の埋立地番号で呼ばれていました。

 以下はその歴史です。出典はWikipediaです。

 1923年(大正12年)の関東大震災の瓦礫処理で豊洲、有明、東雲などが埋め立てられました

  1937年(昭和12年)7月、この埋立地に町名がつけられる際、将来の発展を願い、豊かな土地になるように「豊洲」とした。なお、埋立地としての豊洲の町名は以下の通りです。

 なお、豊洲市場は豊洲六丁目に立地しており、地番は東京都江東区豊洲六丁目です。

・豊洲一丁目 - 第3期隅田川改良工事の5号埋立地に成立。
・豊洲二丁目 - 第3期隅田川改良工事の5号埋立地および豊州突堤埋立工事、
          豊州拡張埋立工事で成立。
・豊洲三丁目 - 枝川改修工事の7号埋立地に成立。
・豊洲四丁目 - 枝川改修工事の6号埋立地に成立。
・豊洲五丁目 - 第3期隅田川改良工事の5号埋立地および豊州物揚場背面
          埋立工事で成立。
豊洲六丁目 - 豊洲突提先埋立工事で成立。

   
出典:Wikipedia


出典:グーグルマップ

 以下は航空写真で見た豊洲六丁目の現状です。写真はマウスで拡大、縮小、上下左右移動ができます。


出典:グーグルマップ

 これら豊洲地域は、1980年代後半まで主に工業地として使われており、石川島播磨重工業などの工場、新東京火力発電所(東京電力、廃止後、新豊洲変電所)、東京ガスの都市ガス製造工場などがありました。

 豊洲市場の用地は、東京都が東京ガスから購入していますが、それ以前、豊洲市場が建設されている場所では、1956年(昭和31年)から1988年(昭和63年)までの約32年間、都市ガスの製造・供給が行われていました。

 以下は1945年から1990年までの豊洲6丁目の変遷を国土地理院の航空写真で見たものです。1945年時点では、公有水面の埋立てそのものが行われていないことが分かります。

 一方、1961年から1990年の地図には、ほぼ同じ施設が立地しており、次第に拡充されていることが分かります。この時期は東京ガスが当該地域を埋め立てその上で都市ガスの製造・供給をおこなっていたことになります。正確には東京ガスは1956年(昭和31年)から1988年(昭和63年)までの約32年間、都市ガスの製造・供給を行っていたことになります。

1945-1959年

出典:国土地理院

1961-1964年

出典:国土地理院

1974-1978年

出典:国土地理院

1979-1983年

出典:国土地理院

1984-1987年

出典:国土地理院

1988-1990年

出典:国土地理院
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 このように、豊洲市場の用地では、昭和31年から昭和63年まで、都市ガスの製造・供給が行われていましたが、その後、東京都が東京ガスから豊洲六丁目の土地を買収し、東京都中央区築地にある中央市場の移転を実行に移します。

 この豊洲市場用地(豊洲六丁目の土地)の土壌汚染は、石炭から都市ガスを製造する過程における副産物などによるもので、7つの物質(ベンゼン、シアン化合物、ヒ素、鉛、水銀、六価クロム、カドミウム)による、土壌及び地下水(六価クロムを除く)の汚染が確認されています。

出典:豊洲移転で炙り出される利権問題
http://matome.naver.jp/…/21472784519515…/2147278619352834003

参考:築地市場の移転先、豊洲新市場予定地の土壌汚染問題とは(鷹取)
http://eritokyo.jp/independent/eforum-20062007-a-1-takatori-toyosu.pdf


 2001年(平成13年)1月に東京ガスは汚染があることを公表し、2月以降、東京ガスが土壌汚染処理を始めます。その2か月後、東京都卸売り審議会は「早急に豊洲地区を候補地として移転整備に向けた検討を進めるべきである。」としています。

 すなわち、汚染が分かった直後に東京都は市場の豊洲移転を答申します!

 処理を開始した4年後の2006年(平成18年)3月に東京ガスは五街区の処理を完了します。

 東京都は翌年2007年(平成19年)、「豊洲新市場予定地における土壌汚染対策等に関する専門家会議」を設置します。これは翌2008年7月まで9回開催されます。

 その結果、2年後の2008年(平成20年)にベンゼンなどの有害化学物質が見つかり、処理実験を2010年(平成22年)1月に開始し、それを踏まえ汚染対策を決めました。

 以下のPDFが当時の汚染対策の基本的スキームです。

豊洲新市場整備の経緯について「資料2」
http://www.shijou.metro.tokyo.jp/gyosei/pdf/gyosei/07/siryou65/09.pdf

 なお、以下は東京MXテレビの当時の記事です。

2015年度末に完成予定 豊洲新市場の土壌汚染対策が完了
  (都政 - 2014年11月27日) 東京MXテレビ

 土壌汚染の対策工事が続けられていた豊洲の新市場予定地について、都の担当者は市場関係者との協議会で対策工事の完了を報告しました。来年度末の新市場完成に向けて大きな懸念材料が解消したことになります。

 東京都によりますと豊洲の新市場予定地で汚染が見つかった土壌と地下水について、2011年から始まった対策工事が完了し、現在はいずれの箇所も基準値をクリアしているということです。

 新市場予定地は東京ガスの工場があった場所で、2008年の調査では環境基準値の4万3000倍のベンゼンなどの有害物質が見つかり、土壌汚染対策が行われていました。土壌処理はおよそ770カ所で行われ、土を掘り出して洗浄したり加熱するなどして汚染物質を除去しました。また汚染した地下水については土壌の掘削に合わせてくみ上げる方法でおよそ1300カ所で対策工事を進めてきました。工事は処理する土の量が当初の予定より増えたことや、想定していなかった地下障害物への対応などで難航し、市場の移転時期も1年先送りになるなどの影響が出ていました。

 都では「今後、土壌汚染の原因になり得る地下水の監視を続け、市場用地の安全性を確認していく」としています。

 東京都が東京ガスから豊洲六丁目の土地を購入したのは、2010年(平成22年)から2011年(平成23年)ですが、東京都は土地を購入する前から東京ガスと一緒に、「土壌汚染対策」の名のもとに、膨大な調査費用を使い上記の各種土壌汚染関連の調査をしていたのです。本来この種の調査や調査費は売り手の東ガスが負担すべきでしょう。


 ところで、東京都が豊洲の土地を購入した頃の「しんぶん赤旗」2010年8月25日(水)号に、以下の記事が掲載されました。
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◆築地市場移転予定地 毒ガス弾製造地の土
 旧陸軍研究所跡地から搬入 清水都議追及
 
   出典:2010年8月25日(水)の「しんぶん赤旗」

 東京都築地市場(中央区)の移転予定地・江東区豊洲(東京ガス工場跡地)に、戦争中、毒ガスを製造していた旧陸軍技術研究所跡地(新宿区百人町)の都営住宅工事に伴う土を5500立方メートル搬入し、盛り土にしていたことが24日、明らかになりました。日本共産党の清水ひで子都議が都議会委員会で追及しました。都は豊洲新市場予定地で実施している区画整理事業で、2・5メートル前後の厚さで盛り土をしています。

 都市整備局の資料で、旧陸軍技術研究所跡地からダンプカー1006台分、5534立方メートルの土を運び込んだことが判明しました。

 清水氏は、旧日本軍の毒ガス弾を調査した環境省の報告書(2003年)では旧陸軍技術研究所が猛毒のルイサイト、イペリット(マスタード)、青酸などの毒ガス弾100キログラムを終戦時に保有していたこと、ルイサイトは市場予定地の盛り土から検出されたヒ素の化合物であることを指摘。「毒ガス弾を生産・保有していた軍隊の研究施設の跡地にかかわる土地を市場予定地にもちこむこと自体、行うべきではない」と批判しました。

 都市整備局の遠藤正宏市街地整備部長は、百人町から搬入した3件のうち、1件は土壌汚染調査をしていなかったこと、土地の利用履歴は調べていたと述べ、中央卸売市場の岡田至市場長は「調査を行い、汚染が見つかることがあれば、対策を講じていく」と答弁。小沢昌也委員長から「理事者は質問に的確な答弁を」と促され、塩見清仁管理部長は「私どもは事実関係が全くわからない」と答弁しました。

 清水氏は、「市場当局の、食の安全を守るという姿勢に大きな問題がある」と批判、徹底調査を求めました。


 さらに、第六陸軍技術研究所(新宿区)跡地利用に伴う汚染土壌の排出に関連し、以下の陳情文書がでてきました。これは新宿区戸山のおそらく住民が新宿区環境建設委員会に出したものです。内容は、第六陸軍技術研究所(新宿区)跡地における旧陸軍毒ガス弾等の処理関する陳情となっています。



 上記の陳情と第六陸軍技術研究所(新宿区)跡地の汚染土壌の豊洲への搬出の相互関係は不明ですが、陳情年の平成17年頃、第六陸軍技術研究所(新宿区)跡地に東京都新宿区にある衛生研究所などの建て替え工事が行われており、その際、危険物は発見されなかったとありますが、搬出土壌の汚染調査はされていません。
 
 ひょっとすると、東京都は東京都新宿区百人町にあった第六陸軍技術研究所(新宿区)の跡地を利用する際し、第六陸軍研究所跡の汚染土壌を豊洲に搬出することを前提に東京ガスの土地の購入を決定し、購入前からその準備作業をしていた可能性があります。



<参照>
◆陸軍技術研究所(大日本帝国陸軍)
War flag of the Imperial Japanese Army.svg
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概要
1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器機関の整理統合が実施され、陸軍兵器行政本部が設置された。それに伴い陸軍技術本部が廃止され、その隷下の第1から第9研究所が第1から第9陸軍技術研究所となり、陸軍兵器行政本部に属することとなった。
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1943年(昭和18年)6月、第5・第7・第9の各陸軍技術研究所と第4陸軍航空技術研究所の電波兵器研究部門を統合し、多摩陸軍技術研究所が新設された。
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1945年(昭和20年)5月、陸軍大臣に直隷していた各所長は陸軍航空本部長の隷下となった。
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各研究所概要
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第1陸軍技術研究所
前身:陸軍技術本部第1研究所
所在地:小金井
担当:銃砲・弾薬・馬具
所長
村木竹雄 少将 1941年6月15日 -
相馬癸八郎 少将 1942年8月1日 -
桑田小四郎 少将 1944年3月1日 -
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第2陸軍技術研究所
前身:陸軍技術本部第2研究所
所在地:小平
担当:観測・指揮連絡兵器
所長
小池国英 少将 1941年6月15日 -
天晶恵 少将 1942年10月15日 -
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第3陸軍技術研究所[ソースを編集]
前身:陸軍技術本部第3研究所
所在地:小金井
担当:工兵器財・爆破用火薬具
所長:立花章一 少将 1941年6月15日 -
第4陸軍技術研究所[ソースを編集]
前身:陸軍技術本部第4研究所
所在地:相模原
担当:戦車・自動車
所長
原乙未生 少将 1941年6月15日 -
土岐鉾治 少将 1945年4月16日 -
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第5陸軍技術研究所
前身:陸軍技術本部第5研究所
所在地:小平
担当:通信兵器
所長:河野健雄 少将 1941年6月15日 -
1943年6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。
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◆第6陸軍技術研究所
前身:陸軍技術本部第6研究所
所在地:百人町
担当:化学兵器
所長
(兼)尾藤加勢士 中将 1941年6月15日 -
小柳津政雄 少将 1942年10月15日 -
秋山金正 少将 1945年7月28日 -

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第7陸軍技術研究所[ソースを編集]
前身:陸軍技術本部第7研究所
所在地:百人町
担当:物理的基礎研究
所長
長沢重五 中将 1941年6月15日 -
(兼)野村政彦 少将 1944年8月30日 -
1943年6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。
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第8陸軍技術研究所[ソースを編集]
前身:陸軍技術本部第8研究所
所在地:小金井
担当:兵器材料
所長
松崎陽 軍医大佐 1941年 -
尾藤加勢士 中将 1941年6月15日 -
田村宣武 中将 1942年10月15日 -
長尾武雄 中将 1945年2月22日 -
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第9陸軍技術研究所[ソースを編集]
前身:陸軍技術本部第9研究所
通称:登戸研究所
所在地:登戸(現:川崎市多摩区東三田)
担当:秘密兵器・資材
所長:篠田鐐 少将 1941年6月15日 -
1943年6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。
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第10陸軍技術研究所
※1944年5月新設。
所在地:姫路
担当:海運器財・燃料
所長:田中収 少将 1944年5月25日 -
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多摩陸軍技術研究所
※1943年6月新設。
所在地:小金井・小平
担当:電波兵器
所長
(兼)安田武雄 中将 1943年6月12日 -
(扱)多田与一 中将 1945年4月1日 -