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私のフジサンケイグループ時代
青山貞一

 掲載日:2005.3.9

 ところで、そう言う私もある時期、4年間ほど、フジサンケイグループに在籍したことがある。

 フジテレビ第一別館にはフジテレビが100%の株を所有するシンクタンク部門があった。私は世界的な地球環境問題の研究、提言団体であるローマクラブからそのシンクタンクに、いわゆるヘッドハンティングで移っていた。

 当時、フジテレビは河田町にあり、建物の壁と言う壁には「視聴率三冠王達成しよう」とか、「能ある鷹は爪を磨け」などが張り巡らされていた。

 移った直後から、毎週ある曜日は早朝から部門毎の売上を勘定する会議があった。私はいきなり、すさまじい売り上げ至上主義の現場にたたき込まれたわけだ。

 会議であるのは「金」の話ばかり、「理念」もへちまもない。あまりもの金勘定ばかりの現状に、唖然とする毎日だった。私と一緒にフジサンケイグループに移った池田こみちさんは、当時評判となったトヨタ自動車の工場を体験したルポライターが書いた「自動絶望工場」になぞらえ、「情報絶望工場」と呼んでいた。

 それでも石の上にも3年のたとえもある。

 厳しい環境問題冬の時代4年間を池田さんと歯を食いしばってがんばった。超辣腕人事と人使いのあらさでつとに知られる共同テレビ副社長からも高い評価を得るにいたった。

 だが、私が担当したシンクタンク、すなわち公共政策部門は、ほんの少し赤字を出したとして、河田町のフジテレビ社屋最上階にある富士山の大きな絵が書かれた大きな会議室に集合させられ、社員全員の前で「青山君の部署は赤字を出した」と言われた。

 最初、9人いたシンクタンク部門の研究員は私と池田の2名に以外はぎ取られた。ちなみにその会議室は田丸美寿々キャスターが涙の記者会見をしたことで当時有名だった。

 読者がご承知かどうか知れないが、当時、フジサンケイグループは田丸美寿々さんでさえ契約社員、本採用の女性社員はほとんどいなかった。

 私と池田さんは、意地でも黒字にして辞めてやろうと決意し、その翌年黒字とした上で退職願を出した。フジテレビ総務部から来た幹部は、「青山所長が出て行くのは仕方ないとしても、池田さんはフジサンケイグループで最初の女性課長職としたのに....」と慰留したそうな。ここまできても、このひとたちは、事の本質がまったく分かっていないと感じた。

 下の日経産業新聞の記事を読んで欲しい。フジサンケイグループを私たちが辞めたときの経緯が書かれている。

日経産業新聞1990年(平成2年)3月20日(木曜日)
 資本金は現在2000万円、本社東京都品川区、第三者的立場から環境政策、
環境調査を手がける。高度な環境関連の数値計算ソフトは他の追随を許さない。


 こう話してくると、フジサンケイグループに私たちが怨念を持っているように思われるだろう。だが、私はフジサンケイグループに大変感謝している。

 なぜなら、まさにエンピツ一本、消しゴム一個、封筒一枚、秒単位で請求書が来たコンピュータ使用量などなど、おそらく日本で一番ケチで厳しい経営環境のなかで自分の一番大事な時期を過ごすことができたからだ。

 ライブドアのホリエモンがエンピツまで合見積もりをとらせていると、大々的に報じているメディアがあったが、その源流は日立製作所とフジサンケイグループである。

 私の妻は日立製作所本社の重役秘書をしていたが、彼女によれば、まさに日立製作所は35年も前から鉛筆一本、封筒一枚を大切にしていたのだ。

 これについて、何らライブドアは誉められることはあっても、批判されるに値しないだろう。金だけでなく物を大切にすることは21世紀不可欠であり、すばらしいことだ。

 ところで当時、毎週行われた売り上げ勘定会議は本当に辛かった。と言うのもシンクタンク部門は、環境問題冬の時代、どうがんばってもなかなか売り上げがでなかったからである。

 もちろん、いくら厳しくてもミッションを上層部が理解してくれればまだしも、ヘッドハンティングのときにフジテレビ重役経験者らが私たちに話したことの大半は、過酷な情報絶望工場の現場ではまったく通用しなかったからである。

 日経産業新聞の「転機」にあるように、私たちは、これならいっそのこと自分で会社を起こし、経営した方がよほどましだ、と言う信念と結論を持つに至ったのである。青山、39歳、昭和61年の春である。

 1986年(昭和61年)夏、同僚の池田こみちさんと資本金を出しあい、株式会社環境総合研究所を池田さんの練馬の自宅の応接間を本社として設立し自分たちのシンクタンクをはじめたのである。

 それ以降、日本社会では急速な環境問題への関心の高まりと相まって、私たちは思う存分好きな環境問題を株式会社で調査研究できるようになった。しかも、毎年法人税を払いながらミニのシンクタンクを持続できるようになったのである。

 もし、私たちがフジサンケイグループにいつまでも安住していたら、到底今の自分はないと思っている。私たちは、株式会社環境総合研究所を人生の再出発点の拠点とし、第三者的立場で調査研究に政策提言にと、環境専門シンクタンク活動を継続することを決意し、20年近く実行してきた。

 人生にとっておそらく最も大切なことは、自分で考え、リスクを負い、決断し、行動することだ。寄らば大樹の日陰は暗く寒いのである!

  

ベルリンの壁にて 2004.9


 青山貞一(あおやま・ていいち)、58歳、東京都品川区在住

    株式会社環境総合研究所代表取締役
    武蔵工業大学環境情報学部、同大学院教授